対立と矛盾の弁証法(1)・同一性と区別

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 同一性(Identität)という概念は、区別に対立する概念であり直接存在する或る一つのものが同じ一つのものとして変化することなしに存在していることを同一性という言葉で示されているものである。この同一性の意味は、大枠で二つに区別することができるだろう。その一つのものは、或るものがそれ自身として在ることが出来ない自己同一性のことで区別(Unterschied)をそれ自身の内に含んだ同一性のことを言うのである。この同一性の本質は、内在的な区別や対立を含んだものであってその関係において本質として存するものであるだろう。だから、この本質的な同一性は、それ自身のうちに区別を含んだ同一性のことを意味するものである。これに対してもう一つの同一性の意味は、区別や対立をそれ自身のうちに含まない同一性のことである。これが形式論理学で言う同一律といわれるものである。これにも二つのものがありその一つは、或るものがそれ自身のうちで相互に関係のない規定から或るものを取り出してそのものを規定し特徴づける場合がこの特定の規定性を持つ同一性である。他の一つのものは、種々なものから各々の特殊性を捨象してそれらに共通する一般的な規定を抽出した普遍的な規定を持つ同一性である。

 同一性についてヘーゲルは「同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄(Aufheben)によって生成したものであるから、観念性としての有である。------同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これがあらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分かれる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識に対しても、その他すべての思惟および意識に対しても、高い意義を持つカテゴリーである。」(1)と述べている。このことの意味は、たとえば、水素と酸素の化合物である水について共に水として捉える場合にそこにおいては水の元素である水素と酸素との違いは捨象され普遍的なものとしてある水という同一性が捉えられることになる。またヘーゲルは、区別をそれ自身のうちに含まない形式論理学での同一律についてそれは真の思考法則ではなく区別をその内に含まない抽象的で空疎な法則であるとして批判している。

 そしてヘーゲルは、区別の概念について「区別は自己への反省を持つところの否定性であり、同一的な言葉によって表されるところの無である。同一性は同時に自己自身の否定性として自己を規定すると共にまた区別と区別されるものであるが、区別はこの同一性そのものの本質的な契機である。この区別は即且つ向自的な区別、絶対的な区別、本質の区別である。------即ち区別は即且つ向自的な区別であって、或る外的なものによる区別ではなく、自己に関係するところの、従って単純な区別である。------絶対的な区別を単純な区別として把握することは重要である。Aと非Aとの絶対的な区別において、この区別を形成するものは単純な非そのものである。区別そのものは単純な概念である。」(2)と述べている。このように区別の概念は、或る事物の同一性に対する概念でありあらゆる事物は自分自身において様々な区別を持つがそれらを通じて同一のものが存するのである。本質の持つ同一性は、区別を自分自身のうちに含んだ同一性である。だから、同一性をはなれて区別は、ありえないしそれらは一つの事物といわれるものである。 

 さらにヘーゲルは、同一性と区別の関係について「区別そのものは自己に関係するところの区別である。その意味で、区別は自己反省の否定性であって、或る他者からの区別ではなくて、自己の自己自身からの区別である。すなわち区別は区別自身ではなくて、自己の他者である。けれども、区別から区別されるところのものは同一性である。それ故に区別は、区別自身であると共にまた同一性である。すなわち区別と同一性との区別が合して区別を形成するのであって、区別は全体であると共に、またその契機である。同様にまた、単純な区別としての区別は区別ではないということができる。区別は同一性への関係においてはじめて区別なのである。」(3)と述べている。だから区別は、区別としてまた同一性とそれへの関係するものとを含んでいる。この同一性は、その全体であると共にまたその契機であるのと同様に区別も全体であると共にまたそれ自身の契機であるだろう。そこで区別は、このようなそれ自身自己の反省であるような二つの契機を持つときに区別は差異性であるだろう。だから、こうした区別は、区別それ自身として区別をそのうちに含んだ同一性であり区別と同一性が合わされて区別は成立するのである。

 本質のもつ同一性とは、このように現象形態の背後にある区別をうちに含んだ同一性であってこれらの現象形態と不可分離的に関係しているものである。このような自己同一性的な本質は、それは一定の枠内での有限な事物のうちにある本質的な規定性を保持した一つの形態を言うのである。だから、或る一つの事物については、内在している一つの規定が絶対的なのものであると言うことはいえないのである。そして区別は、事物のより単純な形態からより複雑な形態へと三つに分けられるものでありそれが差異・対立・矛盾という概念である。そこで個としての同じ一つの事物は、それ自身の内にある多くの本質的な規定の相互間での区別のあり方が分析されることになるだろう。この差異とは、個々の事物のそれ自身の内にこの種の内的な区別を持つと共に他の事物と相互に異なったものとして存在するものである。その差異の意味は、直接的で端初的な形態での区別であり相互に無関係で別々なものの間での区別を指し示す言葉である。しかし、これらの区別は、相互にどんなに異なっていても他方において何らかの或る点での共通する普遍的なものをもっている。このようなものは、相互に異なったものの間にある一定の共通性が存するもので相等性という言葉で表現される。これに対して、個々のものを他から区別する相互的な差異性のことを不等性という言葉で表現するのである。

 ヘーゲルは、差異性について「同一性はそれ自身において差異性に崩壊する。というのは、同一性は自己自身における絶対的区別として自己を自己の否定者として措提するのであり、しかもこの同一性の二契機である同一性自身とその否定者とはそれぞれ自己への反省であり、自己同一的であるからである。------差異性は反省の他在そのものを形成する。」(4)と述べている。差異性とは、自己同一的な多在としてのものを互いに区別させる違いである。したがって、その個物については、他のものと直接に共通する性質の有無に関わらずにその個物の特徴をなしている独自の性質の事物のことだろう。ヘーゲルは「区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれに対して外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別に対して無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係されるものの同一性としては、相等性であり、それらの不同一性としては、不等性である。」(5)と述べている。

 ヘーゲルは、差別と対立との関係について「単に差別されたものは互いに無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。」(6)そして本質的な区別は、対立したものであることを自己関係によるとしてヘーゲルは「本質的な区別は、すべてのものは本質的に区別されたものである。あるいは別な言い方によれば、二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し第三のものは存在しないという命題を与える。------この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。」(7)としたのである。だから、対立的なすべてのものは、本質的な区別を包含しているのである。

 対立という概念は、一般的に言えば上下・左右・東西・南北等々を指摘することができるだろう。そして、このような関係のうちには、右はその対立項として左という特定の区別を持つということである。各々両極の対立項の間には、右がなければ左はないのであって右が右であるためには左を必要とし、左が左であるためには右を必要とするという相関的な関係のことを言うのである。このような関係は、右は左でなくて左は右でないという自己から他を排除する関係があると同時に左右は相互的に成立させあう相関関係があると言うことである。個となる或る一つのものは、不可分離的な二つの側面を含むものであり相互に前提的な相関関係のことを意味するものであるだろう。このような関係についてヘーゲルは「区別一般はその両側面を契機として含んでいる。この二面は差異性においては互いに無関心的に分離している。対立そのものの中ではこの二面は区別の二面であって、一方はただ他方によってのみ規定され、したがって両者は単なる契機に過ぎない。けれども、両者はまた同様にそれ自身において規定されているのであって、互いに無関心で、また互いに排斥しあう。すなわちこれらの両者は自立的な反省規定である。」(8)と述べている。対立関係のうちでは、区別されたものは自己に対して単にある他者を持つのでなく自己に固有の他者を持っている。対立関係にある両者は、相互に本質的な関係のうちにあり両者のうちの一方はそれが他方を自己から排除しそしてこのことによって他方に関係する限りにおいてのみ存在するのである。


【引用文献】
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