香港の日本のアニメ・マンガの受容と状況

文化情報専攻 12期生 鶴田宏美

 香港では、1920年頃から、既に、後にマンガとして発展する絵巻物の『三国志』などが貸し本屋を通し、庶民の娯楽として流通していた。1960年代に入ると、アメリカからディズニー・アニメが流入し、日本のマンガも上陸を果たす。そして、当時日本から入ってきた手塚治虫作品は、香港版『サザエさん』的存在として有名な『老夫子』の王澤などの台頭に影響を与えた。また、アニメにおいても、『アルプスの少女ハイジ』などの世界名作劇場シリーズが1960年代から放映を開始し、現在の50代の香港人は日本人の同世代と同じように、これらの番組をテレビで見ながら育っていった。そして、1980年代になると『キャンディ・キャンディ』、『鉄腕アトム』、『ドラえもん』、格闘ヒーロー番組の『仮面ライダー』や『ウルトラマン』などが次々に香港に入り、更に1990年代には、日本のトレンディー・ドラマや、他のアニメも多く流入し空前の日本ブームとなる。香港のマンガ出版社も、日本と正規ライセンス契約を結び続々と新作品を発売するようになり、『ドラゴンボール』、『スラムダンク』、『セーラームーン』、『ポケモン』などが成功を収めた。一時、アジア経済危機でその勢いは減速したものの、2005年から再ブームが起こり、今に至っている。さて、これまでの30年余りの変遷をみると、日本のアニメとマンガは、1960年代に世界名作劇場を見て育った親世代と、1990年代に『ドラゴンボール』を見て育った子世代という2世代にまたがり、暮らしの中に溶け込んで香港文化の一部になっていったことがわかる。言語こそ違うが、日本と殆ど変らないテレビによるアニメ・マンガ文化が香港に根付き、全く当然に存在している。つまり、香港のアニメ文化というのは、日本のアニメ文化であることがわかる。
 また、現在香港の街角を歩けば、日本のアニメ・マンガは、さまざまな形で受け入れられ、香港の至る所で日本よりも頻度高く見かけることができる。アニメ・キャラクターで言えば、最もティーンエイジャーに支持された『NARUTO(中国語題名、火影忍者)』は、2005年から香港無綫電視翡翠台(TVB) で放映され、『ちびまる子ちゃん(中国語題名、櫻小丸子)』も放映から時間が経っても、共感を呼び世代を超えて好まれている。視聴者は香港の中に残る昔のままの町並みと『ちびまる子ちゃん』に登場する昭和のレトロな雰囲気を重ねているように思われる。この『ちびまる子ちゃん』と、『ドクタースランプ・あられちゃん(中国語題名、IQ博士)』『ドラえもん』は、セブンイレブンと提携し限定グッズが並べられ、『クレヨンしんちゃん(中国語題名、蠟筆小新)』『銀河鉄道999』も、地下鉄とタイアップして切符を売り出すなど、アニメ・キャラクター達は、独り歩きしてメッセージを携え、企業の販売戦略の促進アイテムとしての重要な役割を担うものになっている。今やアニメ・キャラクターは、さまざまに汎用され、香港の至る所に入り込み、香港には無くてはならないものになっている。
 またこうした日本のマンガ・アニメは、その中でアーティストにも強い影響を与え、香港の「グラフィック・ノヴェル」を生むことになる。今、注目されているグラフィック・ノベリストはTak(楊学徳/ヨン・ホク・タック)という、1970年生まれの元デザイン事務所勤務のアーティストである。先述した通り、日本のアニメが続々と流入した1980年代に、Takは「積善仁徳」や「絶対正義」を掲げたヒーローものの『仮面ライダー』や『ウルトラマン』を見て、アイドル歌手黄金期の近藤真彦、中森明菜などに夢中になりながら青春時代を送った。今のTakにとって日本の大衆文化はノスタルジックでありながら明るい色を放つ輝きの素ではなかったか。その後、Takはデザイン事務所、広告代理店、出版会社を経て、現在のノベリストとなるが、仕事としてコマーシャル・アートの世界では創造的になれないと、仕事を辞め、貧乏に耐える生活の中から、グラフィック・ノヴェル第一作『錦繍藍田(How Blue Was My Valley )』を完成させる。この作品は香港の庶民の多くが住んでいた『公屋』と呼ばれる低家賃の公共住宅内の人間模様を美しい色彩で描いたものである。人々は躍動的に生き生きと描かれ、言葉を敢えて入れず、見る人にその言葉を想像させる作品である。この作品から一変して、コミカル・タッチの次作『Suffer Hero (苦悩のヒーロー)』では、中心的なキャラクターを登場させている。主人公のUltra Low (ウルトラ・ロー)は弱いながらも、パートナーの叱咤激励を受けつつ強敵のPorky Mon (ポーキーモン)と戦うというストーリーである。しかし、深刻なタイトルとは裏腹に、その舞台には前作同様、香港でよく見かける道端や公園など親近感の持てる場所を選び、普通にありがちな光景を冷笑的に描いている。そして、人はこの作品によって、めまぐるしく変化する香港に象徴される何かに、なんとか取り残されないように生きる、少し疲れた、それでも立ち向かってがんばる情けない自分を思い起こさせられるのである。その反面、こんな情けないUltra Low(最低)の自分でもいつかは本当のウルトラマン(超人)になれる日が来るかもしれないという密かな願いが込められているようにも感じられる。この作品は主人公の名前からもわかるように、日本の『ウルトラマン』に由来つつも、Tak流に香港の現実を盛り込んで仕上げたものである。
 更に、Takはライフワークとして、1841年のイギリス人来港から1997年まで続いた香港の植民地時代についてのストーリーを描こうとしている。なぜなら、1997年の中国返還によって香港人は植民地支配から解放され、晴れて中国国民として誇りを取り戻せたと言いながら、その実、1997年以前を皆が懐かしんでいることを見抜いたからである。確かに、教育局は2009年、1998年以降の母語教育普及が英語力低下を招いたとして英語力強化の新政策を提案したり、未だにパッテン総督の令嬢が美しかったことを誇りに思っている市民の昔話などからも実見できるものは多い。中央政府の統制のもと、建前は中央に追従しているものの「あの時代」を心の中で皆が思っていることをTakは感知しているのだ。インタビューの中でTakは自分の作品を通して伝えたいことは特にないと語っている。しかし、彼の作品に投影するための情報のアンテナは、いつも庶民に向けられ、その受信力は非常に強い。Takは自分でも意識していない何を受信しているのだろうか。たぶん、それは『錦繍藍田』に描かれていた等身大のTakやTakの家族、仲間、その低賃貸の公共住宅の住民の少し疲れた悲しみや、それでも負けないで楽しく過ごそうとする庶民の共通意識なのではないか。このTakの作品は、人々を楽しそうに生き生きと描き、鮮やかな色彩によって心を明るく沸き立たせながらも、対照的に人々の陰を、夕暮れ時の何とも言えない焦燥感に似た雰囲気にして黒く際立たせている。『 Suffer Hero 』でも、ユニークな風貌のキャラクターたちによってシュールな陰を笑いの中に紛れ込ませ、冷やりとさせながら最後は持ち上げた笑いで気持ちを救っている。Takはこのようにグラフィックというヴィジュアルから心に浸透していくメディアを使用して、表層部は明るく楽しく、しかし、深層部は彼が受信した人々の意識の根底にある共通の陰を表現したのではないか。もし、この内容を活字で精読したら、余りにも過酷な現実をそのまま受け止めなければならない。そこを回避し、敢えて直視せず、斜から構えるように絵で捉えさせたのがTakのグラフィック・ノヴェルなのである。これらの2作品を通してわかることは、どうにもならない不条理や不平等、権力に対して、鮮やかだったりコミカルだったりするグラフィック・アートによって、暗示的に人々の深層心理や集団意識の陰を訴えようとしたのではないかと考える。
 今、香港では、公共住宅は2万円ほどの家賃で約6畳2間8畳ほどのキッチンがつき、家族3世代が暮らしていることも多いという。一方で、好景気の中国大陸からスーツケースに現金を詰め込み、香港にやってきて、何億円ものマンションを鞄を買うように現金で買う人たちもいる。ここには圧倒的な経済格差があり、2009年には格差社会として世界で1位になったほどの現実がある。こうした現状をもし本当に受け止めてしまったら、人はなかなか立ち直れなくなってしまう。
 最近のインタビューで、Takは手塚治虫の『火の鳥』を偉大な作品として評していた。『火の鳥』もまた、人間の愚行・生命の本質・愛をテーマに主人公たちが悩み、苦しみ、闘い、運命に翻弄されながら生きることを古代、超未来、地球や宇宙を舞台に描いた作品である。Takも香港という複雑な政治背景や、正視に耐えがたい格差状況が現実ある中で、葛藤に翻弄され、あるときは諦め、あるときは戦う香港庶民の姿を手塚治虫の『火の鳥』に重ね合わせることもあったのかもしれない。彼自身、グラフィック・ノヴェルによって、敢えてまじめに捉えすぎないスタンスをとりながら、時代の代弁者として皮肉っぽく、鮮やかで豊かな色彩を利用し訴え、戦い始めたのである。

参考

『錦繍藍田( How Blue Was My Valley )』(2002)
http://www.ashu-nk.com/ASHU/Tak1.html
『標童話集(Psychic’s Fairy Tales )』
http://www.ashu-nk.com/ASHU/Tak2.html
『標童話集 ( Psychic’s Fairy Tales )』




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