父の臨終記
博士後期課程 小泉 博明
父が平成22年12月9日に85歳で亡くなった。奇しくも漱石の命日と同じである。学生時代から長年にわたって書いていた日記は、12月6日が最後となった。
よく寝ていたので曜日が分らない位である。オーウェルより手帳送ってくる。
起床12時 2時シーチキン、海苔
と記されていた。これが、父の絶筆である。少し状況を説明すれば、8月に3週間程、都立病院で入院をしていた。肺ガンであったが、高齢のため手術も抗ガン剤の治療もなく経過観察となった。酒は一滴も飲めないが、ヘビースモカーであった。また、足の浮腫があったが、利尿剤にてコントロールをして腹水を出した。自己免疫性肝炎でもあり、予断を許さぬ体調であったが、何とか快復し自宅療養となった。父は余命を察知していたが、いつもと変わらず泰然と構え、母と二人で元気そうに暮らしていた。気に掛かるのは、母の認知症の進行であったが、父はできる限り夫の責務として母を見守ろうとした。11月末ごろから、肺ガンが進行し左脇腹の疼痛を抑えるために服薬していたが、眠気が襲い、何時間も睡眠するようになった。父が倒れる前日に、調子が良くないとの事で見舞いに訪れると、病臥であったが、「明日には病院へ行く。大丈夫だ。」というので、あまり話もせずに別れた。今となっては、もっと話がしたかったと思うだけである。オーウェルとは、父が長年勤めていた会社である。
12月8日早朝に、父は洗面所で倒れ救急車で、都立病院へ搬送された。その後、勤務先に連絡があり駆けつけた。その時には、すでに意識は無く、話すことはできなかった。手足が痙攣し、震えが止まらない状況であった。手足を懸命にさすり、声を掛けても応答はない。父は必死に起き上がろうとし、何かを伝ようとしていたように思える。
小康状態となり一旦帰宅したが、すぐに病院からの緊急連絡が入った。9日の午後5時47分に、主治医より死の三兆候が確認され、臨終を宣告された。「ゲシュトルベン」である。痩せた顔には、白く疎らに髭が延びていた。急なことで、落涙もなく、むしろ呆然となった。直接の死因は敗血症である。その後、主治医より死因の説明があったが、いくら死因を究明しても結果は同じである。病理解剖をする必要もない。そして、病院内地下1階にある霊安室へ運ばれることとなった。もう、病院で行う仕事はない。霊安室が地下にあることは知っていたが、病院案内図でも詳しくは書かれていない。病院の中でも異空間なのか迷路をたどった、ひっそりとした場所にある。室内は冷気が襲い、もの哀しい。主治医と看護師さんが、最後のお別れに来てくれた。やがて棺が運び込まれ、黒塗りの霊柩車が到着した。棺に合掌し、霊柩車が出発すると尾灯だけが夜の静寂に浮かび上がっていた。
大正14年生まれの父は、昭和の年号と年齢が同じであり、激動の昭和時代を生きたのであった。学生時代は学徒出陣で、お国の為に戦争に駆り出された。戦後は、日本の高度経済成長を企業戦士として支え、副社長に就任した。父と平日に夕食を共にしたことも、キャッチボールをした記憶もない。土日もゴルフなどの接待で、ほとんど家にはいなかった。父は弱音を吐くこともなく、自らの信念を貫いた生涯であった。
数日後に、父の部屋を整理すると、次年度の日記帳、手帳、卓上カレンダーが用意され、年賀状の印刷までしてあった。余命は、もう少しあると思っていたようである。日記や手帳は棺に収めた。骨を拾った時に、世の無常を実感した。今はすこしずつ残された膨大な日記や手帳を読んでいる。
何と言っても心残りなのは、父へ博士号取得の報告ができなかった事である。来年こそ、必ず墓前で報告をしたい。心優しかった父よ、ありがとう。
のど赤き玄鳥ふたつゐなくとも乳の実の父は死にたまふなり