ヘーゲルにおける必然性と偶然性のカテゴリー(2)

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 ヘーゲル哲学の目的は、対象である事物の必然性(Notwendigkeit)を認識することにあるだろう。そして、その必然性の認識は、内在的思考によってのみ達成されるとしている。必然性と言うものは、対象である事物が自分の根拠(Grund)を自分の外に持つのではなくて自己自身のうちにもつ場合のみ成立するのである。そのことの意味は、内在的でないどのような必然性も真の必然性とはみなされないのである。そのことは、むしろ外的必然性といわれるもので偶然性(Zufälligkeit)と同一視されるものであるだろう。なぜなら、外的必然性と言うのは、自分の根拠を自分の外に持つことによって成立する必然性でありそれは外的原因しだいで自分がどうされるかわからないと言うまったく偶然的なものでしかないからである。われわれは、事物について考える場合なお別のことも可能だというような言い方をする場合には我々はまだ偶然的なものから抜け出していないのである。これに反して真実の思考とは、必ずこうなると言う必然性の思考なのである。真の思考といわれる必然性の思考とは、対象である事物や事柄の自己運動を変化と消滅のうちに捉え客観的な根拠に基づいて必ずそうなると言うことを示すことである。
 一般に自己運動は、運動の原因は自己原因であり結果も自己結果でなければならないとされている。自己運動においては、自己原因と自己結果とが合致するところの一つの動的な円環構造が形成されていなければならないだろう。ヘーゲルは「すなわち、われわれは必然性を、他のものによって制約されない自己関係と考えているのである。」(1)と述べている。これをヘーゲルは、真の必然性として特徴づけている。真の必然性とは、原因を他のうちに持つものではなくこれとは反対に原因を自己のうちに持っている本質的な因果関係のことである。必然性は、可能性が実現して現実的なものとなることであり実在的な諸条件がその可能性を生むような実在的なものが可能的なものとなる。この意味からして必然性は、可能性と現実性との統一であるといえるだろう。必然的なものは、自分自身のうちで相関しているのであってその最初の形態が実態と偶有の相関なのである。そして実態とは、不断に変化する多様なものの根底にあってその変化にもかかわらず自己同一性を保っているものでありそれは具体的な実在のことである。

 ヘーゲルは「われわれがまったく事物の中にはいりこんで対象をそれ自身に即して考察し、対象をそれが持っている諸規定に従って取り上げるのである。そうすると、この考察のうちで対象は対立した規定を自己の内に含み、したがって自己を止揚するものであることを、自ら示すのである。」(2)と述べている。こうした内在的思考の意味は、弁証法の必然的で肯定的な本質と見なされているものである。この内在的思考の態度こそが、ヘーゲル弁証法の最も本質的なものの一つなのである。真の思考である必然的なものの思考の立場と言うものは、この内在的な思考の立場なのである。ヘーゲル哲学の目的は、必然性の認識にありそしてその必然性の認識は内在的思考によってのみ達成されるからである。本来必然性というのは、ある事物が自分の原因を自分の外にもつものでなく自己のうちにもつ場合にのみ成立する。ヘーゲルにあっては、その意味で内在的でない如何なる必然性も真の必然性とはみなされないのである。だから、ヘーゲル哲学の目的は、必然性を認識することにあって事物の発展は自己運動と否定性による自己発展であり事物の萌芽からそこに潜在する諸要素が内的必然的に現出する過程なのである。
 その意味で外的反省は、主観的な反省とも呼ばれ得るものであるだろう。そのことの意味は、対象に対する主観的な態度を広い意味で外的反省として特徴づけて認識主体は対象の外に立って対象を外から特定の目的を持って恣意的に考察しているからである。だがしかし、認識主体がこうした外的反省の態度をとる限りでは、事物のそれ固有の必然性を認識することはできないだろう。かくして弁証法(Dialektik)においては、矛盾(Widerspruch)といえば外的な矛盾ではなくて内的な矛盾が主体であって原因といえば外的原因よりも内的原因が主体であり、必然性といえば外的必然性よりも内的必然性の方が主体とみなされるのである。このことの意味は、要するに対象の内在的な実体的な側面を主体的なものとみなすことによってのみ対象の生きた生命も把握されるとみなされたのである。ヘーゲルによると哲学の目的は、諸事物の必然性を認識し思考と存在との同一性の立場を確立することである。このようなことは、弁証法的な内在的矛盾を内在的必然性として捉える真の思考なのである。こうした思考は、まさにヘーゲルによって内在的思考とされ内在的必然性と呼ばれているような弁証法的方法なのである。

 必然的なものとは、ことの本性から言えばそれ以外ではありえないと言うことであるだろう。ヘーゲルによれば真の学問的な認識とは、自己を対象の生命にゆだねることで対象の内在的必然性をあらわに言明することが求められるのである。だがしかし、対象の生命に自己をゆだねるためには、何よりもまず対象の本性を現す概念の内在的リズムに自ら進入することを避けることである。そして、対象である事物や事柄に対しては、特定の目的を持って恣意的に考察することや別のところで得られた知識によって概念のリズムに干渉しないと言うことであってこの控えめな態度が必要であるとされる。さらに、対象を真に内在的に思考するためには、主観的な態度や勝手な思考が混入する余地のあるものを避けて遠ざけることを建前とする否定的反省の努力が必要だということである。こうした否定的反省の努力なしには、対象の生命に自己をゆだねて内在的思考を進めることは決してできるものではないだろう。したがって、ヘーゲルのいう内在的思考と言うのは、徹底した客観主義的な見地を前提としてのみ真に徹底されうるものなのである。
 ヘーゲルにとっては、対象である事物をそれ自身の自己運動として捉える場合は内在的矛盾と自己否定を根幹とした内在的思考の立場を徹底的に理解されるべきものであるだろう。つまり弁証法は、主観的なものを除外したいわば客観的で内在的な思考に基づくものなのである。われわれは、対象の生命に自己をゆだねて内在的思考に徹しなければならないのはもともと弁証法そのものが必然的で客観的で内在的なものだからなのである。ヘーゲルは「絶対的方法は外的反省のようなやり方をせず、その対象そのものの中から直接に規定的なものを引き出すという絶対的方法は、それ自身が対象の内在的な原理であり、魂だからである。」(3)と述べている。弁証法は、あらゆる事物や事柄自身のうちに内在するものであり事物自身の本性なのである。したがって、内在的思考の場合には、思考は事物の本性を無視してそれを踏み越えることは出来ないのである。これが対象の内在的思考の意味であり、必然性の思考なのである。この真の思考といわれる必然性の思考は、内在的否定の論理であるところの弁証法なのである。そして、必然性については、これを対象の内在的弁証法として特徴づけて対象の内在的思考と説明している。

 だから哲学の目的は、必然性の認識にありその必然性の認識は内在的思考によって達せられるのである。そして、否定性(Negativität)の根源は、対象物の中に相互転換しあっていて自らを否定しなければならなくなる必然性を自らの内に含んだものである。そのことの意味は、弁証法的な運動が自ら他のものとなり再び自分自身へと帰還する運動に必然的に触れ対立規定へと移行せざるを得ないことなのである。つまり、すべての限定は、自らの定立した悟性的規定の否定であり他者への移行なのである。こうして二つの対立した規定は、矛盾するものとして定立されるがその対立はまた内在的必然性にしたがって自らを否定し真理へと止揚(Aufheben)されるのである。最初の否定は、つまり、悟性的な規定をして自分で自分を廃棄させ対立的規定へと移行させたものは弁証法的なものである。この否定の否定・矛盾・対立の自己否定をもたらす内在的必然性は、自分自身が自ら必然的に止揚し転換することに根拠があったと理解されるのである。
 こうした内在的必然性については、それは対象の中に入ってそこに内在する矛盾を止揚すると言う対象の内在的否定性の態度を意味するものであるだろう。だがしかし、ヘーゲルにあっては、概念を自ら発展させるものは概念自身のうちにある必然的否定性であるとしてこの内在主義的な見地もヘーゲル自身において結局は概念の内在的否定性であるとしたのである。対象である事物の必然的な内在的否定性の問題は、現実的なものからの出発がその前提であり、事実から生じるとおりの発展を事物の内在的根拠を追及するという立場が必至の条件なのである。かくしてヘーゲルは、諸事物の必然性のために徹底した内在的な思考を強調したのである。そして、その徹底した内在的思考のおかげで彼は、観念論的な見地からの一定の枠内ではあるが現実主義的で客観主義的な立場を保持することができたのである。ヘーゲルの観念論的立場とは、すでに述べたように自然よりも精神を存在よりも思考を根本と見る立場である。これに反して真実の思考と言われるものは、偶然的なものから抜け出し必ずこうなると言う必然性の思考なのである。

 真の思考といわれる必然性の思考は、事物の自己運動を変化と消滅のうちに捉えて客観的な根拠に基づいて必ずそうなるということを示すことであり、この思考こそ内在的弁証法といわれているものである。一般に自己運動においては、運動の原因は自己原因であり結果も自己結果でなければならないだろう。そして、自己運動は、自己原因と自己結果とが合致するところの一つの動的な円環構造が形成されていなければならないのである。これを真の必然性として規定することが出来るだろう。真の必然性とは、原因を他のうちに持つものではなくこれとは反対に原因を自己のうちに持っている本質的な因果関係のことである。ヘーゲルは「必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。」(4)とで述べている。



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