僕は西暦1924年の初秋から、鼻の低い足の短い妻を連れて欧羅巴の大都市を歩いていた。(略) 十月二日にミラノを立ってヴェネチアに向った。仏蘭西を出てからもはや二月ほどになった。(略)しばらくの間無言でいた妻は、その時何も前置もなしに僕にむいた。そして二人はこういう会話をした。 「日本の梅干ねえ」「何だ」「おいしいわね」 会話はそのまま途切れてしまったけれども、僕はその時、今までに経験しなかった一つの感情を経験したのであった。夫婦なんぞといふものは一生のうちに一度ぐらいは誰でもこういう感情を経験するかも知れぬ。あるいは運のいい夫婦はしじゅう経験しているのかも知れぬ。2 |