斎藤茂吉とてる子

博士後期課程 小泉 博明

 斎藤茂吉の妻はてる子(輝子)である。また、てる子は茂吉にとって絶対的な存在者であった養父紀一の次女である。てる子は、進取の精神に富んだ紀一の気性を継承し華やかな舞台がよく似合う女性であり、孫の由香は「猛女とよばれた淑女」1と喩えている程だ。茂吉は、ユーモアの精神に富むが粘着型で木訥としており、二人の性格は全く相反するのであった。

  をさな妻こころに持ちてありればあか小蜻蛉こあきつの飛ぶもかなしき
  をさな妻ほのかに守る心さへ熱病みしより細りたるなれ
(『赤光』明治43年「をさな妻」)

 『赤光』に「をさな妻」の連作がある。茂吉が郷里の山形県金瓶村の尋常高等小学校卒業し、上京したのは14歳の時であった。そして、茂吉が23歳となり、東京帝国大学医科大学への入学が決定することとなり、てる子の婿養子として斎藤家に入籍したのであった。てる子と結婚したのは大正3年、32歳の時であった。てる子との年齢差は13才であった。
 茂吉は巣鴨病院医員、長崎医学専門学校教授を経て欧州へ留学し、為事である博士論文を仕上げた。留学が同僚と比べ少し遅かった。そして帰国前に、欧州各地を遊学したが、そこに妻てる子が合流した。船旅にもかかわらず、てる子は単身で行ったのである。てる子が茂吉に呼ばれたのではなく、押し掛けたと言った方が適切であろう。茂吉の随筆『妻』には、次のようにある。
僕は西暦1924年の初秋から、鼻の低い足の短い妻を連れて欧羅巴の大都市を歩いていた。(略)ラン西からリスに渡り、英吉利から和蘭オランダ独逸ドイツスイ西とまわってリーのミラノに来た。ミラノに来たのは僕は二度目である、そうして歩いているうちに妻はいつのまにか懐妊していた。(略)
十月二日にミラノを立ってヴェネチアに向った。仏蘭西を出てからもはや二月ほどになった。(略)しばらくの間無言でいた妻は、その時何も前置もなしに僕にむいた。そして二人はこういう会話をした。
「日本の梅干ねえ」「何だ」「おいしいわね」
会話はそのまま途切れてしまったけれども、僕はその時、今までに経験しなかった一つの感情を経験したのであった。夫婦なんぞといふものは一生のうちに一度ぐらいは誰でもこういう感情を経験するかも知れぬ。あるいは運のいい夫婦はしじゅう経験しているのかも知れぬ。2
 二人の短い会話が絶妙であり微笑ましい。茂吉は異邦にて、少し感傷的となり妻てる子をいとおしく思ったのであろう。帰国後の茂吉は、青山脳病院が火災で焼失し、病院再建に奔走し、紀一に代わり院長に就任するなど艱難辛苦の連続であった。

  うづくまるごとくこもりて生ける世のはかなきものをかたけて居り  二月十五日
  二十年つれそひたりわが妻を忘れむとしてちまたを行くも  二月十七日
(『白桃』昭和9年「折りに触れたる」)

 昭和8年11月8日の新聞記事によると、銀座のダンスホールで不良教師が常連の「有閑マダム」らと派手な遊興を繰り返したので、警視庁により検挙されたという事件があった。その有閑マダムの中にいた「青山某病院長医学博士夫人」も取り調べを受けたというのである。これが「ダンスホール事件」であり、茂吉は精神的負傷を受けた。今ならば、新聞沙汰になるような事件ではなさそうだが、軍靴の跫音が聞こえる中で、とくに疲弊した農民に対して「有閑マダム」の醜聞は、非国民として糾弾するに恰好のアピールとなったのである。しかも、「青山某病院長医学博士夫人」では個人情報の保護がまったくない。この事件により、茂吉とてる子は別居することとなった。なお「有閑マダム」の仲間であった吉井勇夫人は離婚となった。しかし、その後茂吉は、『柿本人麻呂』の大作を著し、この精神的負傷を昇華したのであった。ただし、茂吉がただ単に私的な事件を原動力として執筆したと考えるほど単純なものでない。その後昭和9年9月に、茂吉は正岡子規三十三回忌歌会で、例の永井ふさ子と邂逅したのであった。
 別居生活も終戦直前には解消され、終戦後になると、てる子は老いた茂吉を支えたのであった。てる子のことを詠んだ歌は数少ない。夫婦間の心奥は、他者からはうかがい知れない。しかし、夫婦の危機があったが、それを乗り越えて、てる子の内助の功があったことは否定できないであろう。

  最後に小生の駄作を記す。
  二十年つれそひたりわが妻に感謝すれども無愛想なり


【注釈】



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