Dublin James Joyce Summer School & アイルランド、英国紀行

文化情報専攻 10期生 吉岡 映子

 James Joyceがアイルランドから大陸へと自己追放し、多くの素晴らしい人々に出会ったように、7月1日から27日までのアイルランド、英国滞在によって、暑い日本からの逃亡が可能となり、多くの人々と出会い、彼らの助力を得て素晴らしい体験をすることになった。
 成田空港で既に0.8kgオーバーのスーツケースを抱え、ロンドン・ヒースローに到着した。暑い日本に較べ、快適な気温。アイルランドの首都ダブリンへは直接行かずに、日本のALTをしていた北アイルランド出身の友人宅で3日間滞在した。Windsor城へ行き、ロンドンのEmbankmentでは、仕事を終えパブの外でビールを飲み交わす人々で溢れる様子に驚きながら、私もその中の一人になり、友人と10年間の空白を埋めるべく、ビール片手に語らった。
 そして、7月3日、ロンドンを後にし、ダブリンに到着。タクシーでUniversity College Dublinでの宿舎となるRoebuck Hallに向かった。私にとって、今回のアイルランド訪問は、8度目となるが、いつもは、観光客でにぎわうダブリンを避け、Galwayへ直行することが多かった。やはり、City Centreは、人と車で溢れていた。5年前と違っている所は、120mのSpire of Dublinが、アイルランドの英雄たちのモニュメントが立ち並ぶO'Connell通りにすっかり馴染んで見えること、Luas tramが走り、タクシーの激増を感じさせた。ケルティク・タイガーにも陰りがみえ、失業者が増え、手っとり早く収入を得ることができるタクシー運転手になる人が増えているからだそうだ。
 4日の夕方、Dublin James Joyce Summer School の参加者は、Leeson Street LowerにあるHouricans Pubに集合し、翌日から始まる講義に備えての説明があると聞き行くが、書類が手渡され、ただ周りにいる参加者同士で自己紹介をして、好きな時に帰る。これは、アイルランドスタイルなのかと一応納得。
 私は修論を書く前に、是非、James Joyceについての講義をダブリンで受けたいという夢をもっていた。今年の2月の終わりに、Joyceの出身大学であるUniversity College Dublin(UCD)のAnne Fogarty教授にメールを入れるが、教授は、見知らぬ私に親切にこの講義について教えてくださり、受講可能になった。ただ、不安は、私の英語力でどこまで理解できるかであった。
 5日から10日までの講義及び校外活動は、朝9時半から夜9時過ぎに及ぶものであった。午前中は、Newman Houseで二名の講演者のスピーチを聞き、Boston Collegeで食事をし、午後は、Newman Houseに戻り、2時から4時まで、Ulyssesについてのゼミ、4時半からNational Library of Irelandでワークショップというハードなスケジュールであった。講演者、参加者も世界各国の有数の教授、学生の集まりで、英語力だけでなく、このすぐれた知識を持ったJoyceansに圧倒されるばかりであった。しかし、そのような状況下、一人の日本の教授とブラジルの教授に助けられ、なんとか1週間の講義をのりこえることができた。そして、ベトナム、台湾、ブルガリア、トルコ、イタリア、スペイン、カナダなどのJoyceansと楽しいひと時を過ごせたことは、貴重な思い出となった。
 私の修士論文の課題である「James Joyceにおけるジェンダーについて」の直接的な講義内容は少なかったが、University of Illinois at Urbana-ChampaignのVicki Mahaffey教授の "Finn Again: Huck Finn, Finn Mac Cool, and the Salmon" は興味深いものであった。言葉の壁に阻まれ、すべてを聞きとれなかったことは、悔しい次第。
 校外活動では、Joyceと縁のある地を訪れ、Joyceの終の住処となったのがチューリッヒであることから、私たちは、スイス大使館から招待を受け、大使夫妻に出迎えられた。1899年、アイルランド演劇振興のためにYeatsらによって設立されたAbbey劇場でBernard FarrellのBookwormsを観劇した。しかし、Joyce の戯曲Exilesは、1917年、アイルランド民話的要素が乏しいことを理由に上演拒否されている。そして、Daniel O'Connellをはじめとするアイルランド独立に助力を尽くした人々やJoyceの家族も埋葬され、Ulyssesの第6挿話 "Hades" の舞台背景になったGlasnevin Cemeteryを訪れた。この墓地は、カトリックの尊厳を守るために、1832年、Daniel O'Connellによって開かれた。公式名はProspect Cemeteryとして知られ、現在は、多くの観光客が訪れている。
 最終日、Joyceの出身校であり、現在は男子校として運営されているBelvedere Collegeで午前中の講義を受け、午後には、男女共学となっているCounty Kildare の ClaneにあるClongowes Wood Collegeを訪問した。Joyceが6歳の時、親元から遠く離れたこの学校で暮らしていたのだと思うとなぜか切ない気持ちになり、A Portrait of the Artist as a Young Manの映画の中でStephenを学校に残し、去っていく両親の馬車の蹄の音が聞こえてくるような気がした。驚いたことには、このClongowesの廊下には、日本の宮島と京都のポスター、そしてなぜか、日本の学校では見られないような太平洋戦争勃発の原因となった真珠湾攻撃についての写真と詳しい説明が書かれたポスターが貼られてあった。その夜は、Joyceセンターでお別れのパーティが開かれ、2人のJoyceansによるアイルランド民謡の "Love's Old Sweet Song" のピアノ演奏と歌を聞き、楽しくもあり、厳しかった1週間に別れを告げた。
 UCDの講義終了後にも、Ulyssesの第1章 "Telemachus" のモデルの地となり、JoyceがGogarty、Trenchと実際に暮らしていたSandycoveにあるMartello塔(現ジョイス・タワー)を訪れた。この章でも取り上げられているこの塔の鉄のドアと大きな黒い鍵が展示されていた。Martello塔から緩やかな坂を下りてくると、Buck Mulliganが泳いだであろう海岸では、20℃前後の気温に関わらず、多くの泳ぐ人々を見かけた。その後、私は、Dublin City Universityで英語の授業を受け、主人と合流し、アイルランドの西部County Kerry、英国のChester、Stratford upon Avonを経て再びロンドに戻り、7月27日に帰国することになった。
 素晴らしい人々との出会い、RSCでの "As You Like It" の観劇など話は尽きないが、ここで終えることにする。


ジョイス・タワー(旧マーテロ塔)に展示されているポスター


テンプルバーにあるJoyceとGogartyの像





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