斎藤茂吉とアケビ

博士後期課程 小泉 博明

  あけび一つ机の上に載せて見つ惜しみ居れども明日は食はむか
(『白き山』昭和22年「もみぢ」)

 茂吉の故郷である山形県は「果実王国」である。佐藤錦に代表されるサクランボや、西洋梨のラ・フランスなどは豊かな自然と人情に育まれた美味なる果実である。斎藤茂吉記念館の周辺でも、ラ・フランスが栽培されている光景を見た。さらに、アケビ(通草)も山形県を代表する果実である。アケビは、4月頃に淡紅紫色の花をつけ、秋になると淡紫色の果実となる。熟すと実が縦に割れるので、「開け実」が語源だと言う。果肉は厚く白色半透明のゼリー状で、黒色の種子を含み甘く美味である。山形県では果皮も料理して食べるそうである。山形県メールマガジンによれば、「秋の彼岸が近づくとご先祖様の霊が『あけびの舟』に乗って帰って来るという言い伝えがあり、家の仏壇に供えられる風習」1もあるそうだ。なお、茎の木部は生薬の「木通」で、利尿効果や鎮痛作用があるという。茂吉も幼少期にアケビを食べたのである。

  くろく散る通草の花のかなしさをおさなくてこそおもひそめしか
  おもひ出も遠き通草の悲し花きみに知らえず散りか過ぎなむ
(『赤光』明治44年「うめの雨」)
  屈(かが)まりて脳の切片を染めながら通草のはなをおもふなりけり
(『赤光』大正元年「折々の歌」)
 茂吉の『作歌四十年』では、この歌について次のように言う。
これは東京府巣鴨病院研究室(東京帝国大学精神病学教室)内の歌で、指導者は呉秀三、助教授三宅鉱一の二先生で、そのほかに数人の先輩がいた。医員としての用務を済ませ、暇があれば病脳を切片にし、それをいろいろの方法で染色して、その標本をば顕微鏡でのぞくのであった。(略)『通草のはなをおもふなりけり』は、少年の頃に親しんだ、黒味がかった紫色の通草の花をふと思出す、聯想するというのであるが、2
 これは、茂吉が病理組織研究室で、呉が欧州留学で、ニスル(F.Nissl)から学んだ神経細胞染色法を伝授され、脳片にニスル染色法を行っていたのである。アケビの花や果実が、ニスル染色標本と同色系統であり、懐かしく思い出されたのであった。単調な「をさな児の遊びにも似し」染色の作業をしていて、脳片が染め出されて紫色となると、郷里金瓶村のアケビが脳裏に浮かんだのである。また、これは、後の博士論文「麻痺性痴呆者の脳カルテ」に繋がる為事であった。

  としわかき狂人守りのかなしみは通草の花の散らふかなしみ
(『赤光』大正元年「狂人守」)
 これは東京府巣鴨病院の精神病医であった茂吉が、日常的に精神病者と関わるなかで生まれた歌である。新米の精神病医として、今では「狂人守」という差別語ではあるが、病者に寄り添う、哀切な響きを通草の花から感じるのである。

  ほのかなる通草の花の散るやまに啼く山鳩のこゑの寂しさ
  寂しさに堪へて分け入る山かげに黒々と通草の花ちりにけり
(『赤光』大正2年「死にたまふ母 其の四」)  これらは「死にたまふ母」の連作にある。母の死の悲しみとアケビの花が散る様を連想させる。

  通草の実ふたつに割れてそのなかの乳色なすをわれは惜しめり
(『寒雲』昭和13年「その折々」)

  朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ暁に臥す
(『赤光』大正2年「死にたまふ母 其の四)

  あけびの実我がために君はもぎて後そのうすむらさきを食ひつつゐたり
(『つきかげ』昭和25年「暁」)

 晩年の歌である。老いて「朦朧としたる意識」のなかでも故郷のアケビを思う。何だかアケビが食べたくなった。茂吉の歌を浮かべながら味わいたい。

最後に、ちょい太で食いしん坊の小生の駄作を記す。
  甘蕉バナナ一つ机の上に載せて見つ惜しみ居れども夜食に食はむか


【注釈】



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