2年間を振り返って
文化情報専攻 大嶌 伸子
私は博士前期課程在籍の2年間、Barry Natusch先生のご指導の下、機械翻訳の活用に関わる研究に取り組みました。先生は日本語がお上手で、日本語でもいいですよと言って下さっていましたが、先生とのコミュニケーションは基本的に英語でした。メールも直接お話する時もサーバーゼミも、もちろん修士論文と最後の口頭試問も英語でした。正直なところ、海外生活経験のない私には、先生の言って下さることが完全には理解できていないこともありました。しかし、日本の大学院に在籍していながら、英語が主言語に近い状態で研究に取り組む機会を得られたのは、本当に幸運だったと思います。
学部時代、専攻の英作文の授業で論文の書き方の基礎を学び、4年次で1500語程度のミニ論文を計3部まとめました。そのせいで、どちらかというとリポートは英語の方が慣れているという思いがあり、むしろ1年生の前期、日本語のリポートに苦戦していました。しかし、修士論文となると事情は変わります。さすがにそんなに長い英文を書いたことがありません。本当に書けるのか、不安もありました。でも、とにかく書き進めるしかありません。執筆中、日本語だったら楽だったのにと思う時と、英語で良かったと思う時の両方がありました。また、研究テーマの関係上、全文を英語で通すことができず、機械翻訳にかける前の原文は必ず日本語で書かなければなりません。先生のご意見を伺った結果、日本語の文字が読めない方も論文を読んで下さる可能性を考え、日本語表記にはローマ字を併記することにしました。さらに、日本語の著書や論文からの引用では引用部分を英訳しますが、本文がほぼ出来上がった後、Reference用にタイトルも英訳しなければならないことに気づき、英語論文の大変さを改めて感じました。このように修士論文完成まで様々な苦労がありましたが、具体的にどのような道程を経て完成に至ったのかをここで振り返りたいと思います。
先行研究は、開講式直後から始まりました。最先端技術に関する分野ということもあり、まずは、インターネットでの情報検索、ニュース記事チェックによって、関連があると思われるものを集め、引用候補リストを日々更新していきました。
先生のご指導を受けるのはメールのやり取りが中心でしたが、1年生の夏のスクーリングの頃、電話スクーリングがありました。同じゼミの同期のリクエストによるもので、1人ずつでした。先生から事前に、対象の読者、研究方法、論文の構成等考えておくように言われました。もともと、研究の中心として考えていたのが複数の翻訳サイトを対象としたビジネス分野の翻訳実験でしたが、それに加えてこのお電話で先生から提案されたのが、アンケートの実施でした。思い通りに行かないのが世の常、試行錯誤を繰り返し、当初の予定とは対象も方法も大幅に変わり、質問がほぼ確定した頃にはもう冬でした。しかし、これによって結果的に広い視野から機械翻訳使用者の状況を確認できるようになったと思います。
1年生の冬のスクーリングの時には、先生がわざわざ所沢まで面接スクーリングをしに来て下さいました。夏のスクーリングの課題で既に論文の仮題を決め、目次も作っていましたが、この面接スクーリングで、私の希望や計画を基に先生が改めて一緒に目次を考えて下さいました。この時、私はまだ実際にどのような論文になるのか明確にはイメージできていない状況でしたが、先生が結果を想像してわくわくしていらっしゃるのがわかりました。1つ衝撃的だったのは、修士論文をすぐに書き始め、6月頃までに全体を書き終えるように言われたことでした。とは言えこれは、それぐらいのつもりで進めたらゆっくり修正する期間が取れ、良いものができるという先生の優しさだったと思います。実際、その時期が近づいて私がとても焦っている時も、先生からの催促は全くありませんでした。
時期が少し戻りますが、1年生の後期に入った頃、とにかく、翻訳データを蓄積しようと考えました。多くのデータはそう簡単に集められませんので、できるだけ毎日何か機械翻訳にかけてみようと決めました。日本語らしい、省略の多い、しかもよく使う表現から訳し始めました。次に、仕事で使う専門用語を訳してみました。さらにことわざなども訳しました。ここまでにかなりのデータが集まりましたが、先行研究から早く具体的な原文作成方針や評価基準を決めなければ、データだけ集めても自分の研究にはなりません。機械的な作業も結構時間がかかり、そのせいでリポートや他の調査が進まないのではと思ってしまうこともありました。そんな中続けてきた毎日の習慣でしたが、思い切って中断し、仮説を先に確定させることにしました。1年生の最後の頃のことです。
この頃までに簡単にまとめていたのが、機械翻訳の歴史と研究対象とした翻訳サイトの運営会社・翻訳システムメーカー・付属サービスの調査でした。この翻訳サイトの背景調査はちょっとした息抜きのつもりでしたが、先生におもしろいと言って頂き、研究の中の1要素として追加することになりました。ここで、最終的にMethodologyとして採用した3つの要素、翻訳サイトの背景調査、翻訳実験、アンケート調査が揃いました。その一方で、もともとの専門である社会言語学的要素を何とか盛り込めないかと考えていました。そして、2年生の4月に出会った『日本語に主語はいらない』(金谷, 2002)をきっかけに日本語学、発想の違い、翻訳論等を本格的に調査することになります。この後約2ヶ月間は、この関係の文献や論文を調査するだけで、先生に途中報告もできませんでした。そのため、とてもあせっていて、ずっと机に向かっていないと不安でしかたがありませんでした。この結果を研究に盛り込むための方向性がほぼ固まり、翻訳実験を再開できたのは、6月に入ってからでした。
修士論文本文はと言いますと、2月に着手したものの、IntroductionとConclusionの第1稿程度。6月に先行研究部分を本格的に書き始めましたが、Title確定後の7月にAbstract第1稿を挟んだ後、9月になっても研究の中心部分にはほど遠い状態でした。10月の中間発表時、頭の中では内容がほぼ固まっていました。発表に加えてそこまでに書き上げた荒い状態の論文を基に面接スクーリングをして頂き、Abstractを基準に本文を膨らませるようご指導頂きましたが、その後も中心部分は覚書状態から遅々として進まず、12月上旬にようやく大変荒い状態のDiscussionを書き上げました。リポート優先のため一旦完全中断とした後、全体がそれなりの状態となって先生に提出したのは、12月31日の夜9時でした。同じゼミ所属のもう1人の同期と年末年始に先生をメール攻めにすることになり、本当に申し訳なかったです。私の場合、データを大量に付けていたので、どんどん膨らんでいくページに、これ以上増やしてはいけない、でも説明が必要、あるいは、表を小さくおさめたい、でも先生方に読んで頂くために少しでも大きなフォントを選択したい、というような葛藤のために手が止まることもしばしばでした。全体提出後も細かな修正を行い、最後に長年愛用しているプリンターで6時間以上要して3部の副本を印刷して、何とか1日の余裕をもって副本を発送することができました。
終わってみると、時間的、体力的、経済的(!?)にはつらい2年間でしたが、充実した本当に楽しい2年間でもありました。関西在住ですが在学中東京に行かなければならないのは数回だけ、と安心して入学したはずなのに、パソコン研修や必須のスクーリングに参加して、先生方だけでなく、同期や先輩方と交流する場でわくわくする経験をしてからは、高い交通費・宿泊費をものともせず、必須以外の行事に何度も東京に通いました。修了を迎えるに当たり、頑張った結果として学位を受け取ることができるのがうれしい反面、励まし合って頑張ってきた同期やお世話になった先生方、先輩方とお会いすることが難しくなってしまうことに寂しさを覚えました。むしろ、うれしさより寂しさの方が強かったかもしれません。各自仕事を持ったままという厳しい条件の下で一緒に学んだ同期は、恐らくこれまで出会った中でもっともわかり合い、助け合える友人となると思います。通信制でありながらそのような友人を得られたことも大変貴重な経験となりました。この大学院で出会ったすべての人、すべての機会に感謝したいと思います。本当にありがとうございました。
【引用文献】
金谷武洋(2002) 『日本語に主語はいらない』 東京:講談社