ヘーゲルにおける可能性と現実性のカテゴリー(3)

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 現実性(Wirklichkeit)を捉えるに現実的なものは、本質的なものの発現でありその現象的で外的なそのものが本質的なものである。したがって、真の現実性とは、可能性や偶然性ということではなくてそれは必然的な存在であり合理的な必然性(Notwendigkeit)なのである。現実性をこのように理解することは、自分自身の根拠を自分と同一であるという根拠として定立されたところの必然性が実体(Substanz)なのである。その実体を主体として概念的に把握するということが、ヘーゲルの言うところの現実的に把握するという意味なのである。ヘーゲルは「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。」(1)と述べている。そして「現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へかえる。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。」(2) としている。
 現実性というカテゴリーは、事物や事柄のうちにあるその本質を分析し事柄をそれ自身の本質のうちに持ちこの本質を自己の根拠として成り立っている一つの自立的なものとして示している。事物や事柄は、すべて現象の世界のうちにありここにおいて自らの内に根拠を持たない単なる一個の現象に過ぎず他の事物や事柄との連関に媒介されて存在する非自立的なものとして示されている。しかし、本質と現象は、各々の事物や事柄の持つ一面の真理を示すに過ぎず現実の事物はこれら二つの側面の統一として現実的なものとしてある。だから、現実性というカテゴリーは、この現実の事物や事柄のより具体的な形態を示すカテゴリーである。現実的なものは、本質的なものの発現であるのみならずその現象的で外的な存在そのものが本質的なものである。現実性については、現実的に存在する事物の本質であるから正しく把握しなければならない。現実性は、必然性と結びついているものであって実在的に目の前に存在するものすべてを言うものではない。現存する事物の内にあっては、発展の過程で必然性として現れるものだけが現実性を持っていると言うことである。ある種の事物や事柄は、現存していてもそれは発展の過程で必然的なものとして現れないばかりか事物の必然の法則によって否定されるものである。このような事物や事柄は、現実に存在しているものであるが、しかし、現実性を持っているとはいえないものである。可能性(Möglichkeit)がまだ現実性でないのは、それが実在する事物の矛盾する運動の中での側面の要素だからである。

 F・ヘーゲル(1770−1831)の有名な命題で「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である。」(3)という言葉が『法哲学』の序論に叙述されている。これは現実的なものは、すべて合理的であり合理的なものはすべてにおいて現実的であるという意味である。一見してこの言葉からくる印象は、現存するすべてのものを合理的なものとして神聖化し、専制政治の支配する当時のプロイセン政府の反動的な政策を哲学の名において評価するがごとく見られたのであった。これには当時のプロイセン政府は、大いに喜びそれとは反対に自由主義者たちは大変憤慨したものであった。F・エンゲルス(1820−1895)は、この命題について「しかし、ヘーゲルにあっては、けっして、現存するすべてのものがそのまますぐさま現実的であるというのではなかった。彼にあっては、現実性という属性は、同時に必然的であるものにだけあてはまるのであり、------」(4)と述べている。ヘーゲルによれば現実的なものは、それ自身において必然的でありそして現実はそれが自己自身を展開するときに必然性として現れるとしている。だからヘーゲルからみれば、現存するものだけでは決して現実的であるとは言えないのである。
 さらにF・エンゲルスは、この命題について「しかし必然的であるものは、結局のところ合理的でもあるものとしてあらわれる。そこで、当時のプロイセン国家にあてはめると、ヘーゲルの命題は、次のようになる。すなわち、この国家が合理的であり、理性にかなっているのは、それが必然的であるかぎりのことであって、そこで、その国家がそれにもかかわらずわれわれに悪いものだと思われ、しかもそれが悪いものなのに、存在しつづけるとすれば、政府の悪さは、これに対応する臣民たちの悪さうちに、そうあるべき理由があり、------当時のプロイセン人は、自分たちがもつべきはずの政府をもっていたわけなのである。ところで、現実性は、ヘーゲルによると、あるあたえられた社会的、または政治的状態にどんな事情のもとでもまたいつでもそなわっている属性では決してない。それとは反対である。」(5)と述べている。このように現実性は、単に現存すると言うだけではなしに同時に必然的なものだけとしているのである。ヘーゲルにあって哲学の目的は、事物の必然性を認識することにあるとしている。必然性を担うものこそが、真に合理的であり現実的なのである。必然的とは、客観的な根拠に基いて必ずやそうなるというものであり、つまり、そうなる以外にはありえないという意味である。合理的とは、理にかなっているという意味のことであり、そうなるべく根拠をもっているということである。

 古来より検討されてきた現実性と可能性のカテゴリーは、アリストテレス(紀元前384−前322)において現実性と可能性との関係を捉える立場から吟味され、現実態と可能態という言葉の表現で持って分析されその内容が『形而上学』において叙述されている。「現実態というのは、その当の事態が可能態において、われわれの言うような仕方においてではなしに、何かの内に存続していることである。ところで、われわれが何ものかを可能態においてあると言うのは、たとえば木材の内にヘルメスの像があると言われ、あるいは線の全体の内にその半分があると言われるがごときである。のみならずまた、現に研究活動中でない者でも研究する能のある者であれば、その者をもわれわれは学者であると言う。それに対して、現実態においてあるというのは、まさにそれら木材に刻まれたヘルメス像、線の半分や現に研究活動中の学者である。さて、今われわれが現実態と可能態について言おうと欲するところは、明らかにその個々の場合からの帰納によって示される、そしてまた、一般に人は必ずしもあらゆる物事について、その定義を要求すべきではなく、場合によっては、ただそこに類比関係を見出すだけで足りるとすべきである。」(6)とアリストテレスは述べている。現実にあるものは、その形成過程や生成過程においてそれを捨象し静動的に観察することで現実にあるものの現実性と可能性を吟味するのである。
 さらにアリストテレスは「たとえば、今の場合、現に建築活動している者が建築し得るものに対し、また目覚めているものが眠っている者に対し、現に見ている者が視力を持ってはいるが目を閉じている者に対し、ある材料から形作られたものがその材料に対し、完成したものが未完成なものに対するが如き類比関係を。そこで、この対立の一方の項によって現実態が規定され、他方によって可能態が規定されるとしよう。だからまた、物が現実態においてあると言われるのも、あらゆる物が等しく同一の意味においてそう言われるのではなくて、甲が乙の内に、または乙に対してあるように、そのように丙は丁の内に、または丁に対してある、というような類比関係によって言われるのである。けだし、そのあるものは運動の能力(可能性)に対する現実の運動(現実性)のごときである」(7)と述べている。こうしてアリストテレスは、現実性と可能性の概念を吟味してわれわれ人間を取り巻く世界であるこの世は材料である質料と形相だけでできているとし、今日的意味での現実性と可能性に関する相互関係を展開しているのである。

 現実性は、まず単なる可能性である現実の具体的な統一に対峙するものとして抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内の反省である。可能性は、現実性にとって本質的なものであるが同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。このように、現実性のなかでは、可能性であるような仕方のうちにある生成と消滅という過程が繰り返されているのである。すべての事物においては、古いものが消滅しつつあり新しいものが発生しつつある。その過程においては、新しいものと古いものとの矛盾が起り新しい変化が発生するのである。すでに発生した新しいものは、言うまでもなく現実性の一部分である。しかしまた、これは過去においては、まだ現実性の条件を満たしていなかったものであり現実性の端初的な萌芽にすぎない。したがって、現在の現実性のなかには、今はまだ現実性ではないが将来の過程おいてそれが現実性に転化し、将来の現実性における新しきものとなる現実性の萌芽が含まれている。こうした生成と消滅のうちにある現実性を固定的にではなく可動的なもの発展するものとして捉えるためには、このような可能性の現実性への転化を捉えることが極めて重要なことである。
 現実性と言うカテゴリーは、事物のうちにあるその本質を分析し事物がそこではそれ自身の本質をそれ自身のうちに持ちこの本質を自己の根拠として成り立っている一つの自立的なものとして示している。現実性というカテゴリーは、この現実的に存在する事物や事柄のより具体的な形態を示す概念である。この現実的なものは、本質的なものの発現でありその現象的で外的な存在そのものが本質的なものである。ヘーゲルにとっては、哲学的な思索の基盤も対象もすべてにおいて現実的なものであった。だから、現実的な把握の仕方が、その根本的なところで問われているわけである。現実的で概念的な把握の仕方とは、現実をその真の姿において捉えそれを具体的に把握すると言うことである。ヘーゲル自身が言うところものは、現実的であるとする概念の究極的な意味もこうしたものを指している。だから現実的なものは、本質的なものでありそれ自身が必然的なものである。こうした現実性は、必然性と結びついているものであって現実性とは目の前に存在するすべてのものを言うわけではない。だから、現実性とは、現存する事物や事柄の内にあって発展の過程で必然性として現れるものだけが現実性を持っているのである。



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