龍馬の手紙から見る、妻お龍

人間科学専攻 6期生・修了 柏田 三千代

 今年のNHK大河ドラマは『龍馬伝』である。その『龍馬伝』を皮切りに、各地で坂本龍馬のイベントが行われ、龍馬ブームが起こっている。そこで、私も龍馬ブームに乗ってみようと思い、高知県高知市を訪れた。私が高知市を訪れたのはGW真っ只中だったので、高知市内は観光客であふれていた。また、私が目指すべく「高知県立坂本龍馬記念館」も入場に長い行列が出来るほどの賑わいだった。「高知県立坂本龍馬記念館」は地下二階から地上二階建ての建物で、館内には坂本龍馬の生涯が紹介され、龍馬の書簡や所持していたピストル(模型)、龍馬が暗殺された近江屋復元などが展示されていた。私は展示物をゆっくりと、特に書簡をゆっくり読みたいと思っていたのだが、たくさんの人ごみにまぎれて一つ一つの書簡を読むことは出来なかった。しかし、ミュージアムショップで私の眼に飛び込んで来たのが『龍馬書簡集』という書籍だった。「これだったらゆっくり読める。」と思い、早速購入した。『龍馬書簡集』を読み始めた頃は「龍馬はどのような人なのだろう。」と興味を持って読んでいたが、読み進めていくと龍馬が姉である乙女や姪のおやべへ宛てた手紙に、龍馬の妻であるお龍を紹介し、お龍の様子を報告している箇所があった。私は「龍馬から見たお龍は、どのような女性だったのだろうか。」と関心を持ったのである。

 慶応元年(一八六五年)九月九日、乙女とおやべ宛ての手紙には、初めてお龍を紹介している。医者の家に生まれたお龍は、花を活け、香をきき、茶の湯をしたりして豊かな家で暮らしていたが、父である栖崎某が病気で亡くなり、二十三歳のお龍が家屋敷をはじめ道具、自分で着るものなどを売って、母や妹を養っていた。しかし、ついにどうしようもなくなり、家族別々に奉公することになったが、十三歳の妹は珠の外美人だったので、悪者がこの子をおだてて島原の里へ舞妓として売り、十六歳の妹はだまされて大阪に遊女として売られてしまった。それを姉のお龍が気づき、自分の着る物を売り、そのお金を持って大阪へ行った。お龍は悪者二人を相手に、刃物を懐にして喧嘩をし、とうとう大口論になったので、悪者は腕の刺青の彫り物を見せながら、乱暴な口調で脅しをかけてきた。しかし、お龍は飛び掛って悪者の胸倉をつかみ、顔を思い切り殴りつけ「お前がだまして大阪に連れてきた妹を返さなければ、命をもらうぞ。」と言うと、悪者は「女め殺すぞ。」と言ったので、お龍は「殺すか殺されるかではるばる大阪へ来たのだ。それは面白い。殺せ殺せ。」と言うと、悪者はとうとう妹を受け出して京都へ帰ったのである。この龍馬の手紙にはお龍の一件に対し珍しいことだと感想を述べつつ、「今言った女は誠に面白い女で月琴を弾きます。……私の危うきときに助けてくれたいきさつもあるので、もし命があれば何とかして、そちらに行かせたいと思っています。この女、乙女姉さんを本当の姉のように会いたがっています。乙女姉さんの名前は全国に知られていて、龍馬より強いという評判です。どうぞ、帯か着物かひとつこの女にやって下さいませんか。この女も内々お願いできればと言っております。今度お願いした用事は、乙女姉さんに頼んだ本、おやべに頼んだ本、それに乙女姉さんの帯か着物か一筋是非送って下さい。今の女に与えます。今の名は龍といい、私に似ています。」1)と、お龍の生い立ちや勇敢な女性であること、龍馬を幼い頃より強く育て、いつも見方になり守ってくれた乙女にお龍を気に入って貰いたい気持ちが書かれている。

 慶応二年(一八六六年)十二月四日の乙女への手紙には、再びお龍の生い立ちを述べ、「今年正月二十三日夜、(この寺田屋で)で襲われた時も、このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かったのです。その後京都(伏見)薩摩藩邸に逃れた時、小松や西郷などにも言い、私の妻だと知らせました。この事をお兄さんにもお伝え下さい。」2)と、お龍が妻になったことを報告している。また、寺田屋事件後に西郷隆盛に勧められ、三月三日大阪を出て四日に蒸気船に乗り込み、九日に長崎に到着し十日に薩摩へ行ったと書かれている。薩摩では、日当山や霧島、刀傷に効能があるという塩浸温泉で湯治を行い、霧島神宮を参拝、犬飼滝に感銘し、谷川の流れで魚を釣り、ピストルで鳥を撃ったりして面白く過ごしていると書かれているが、一番詳細に絵入りで話しをしているのが「天の逆鉾」を見るために高千穂峰の山頂まで登ったことである。危ない場所ではお龍の手を引きながら登り、やっと山頂に着き「天の逆鉾」を見ると、龍馬は「絵のような思いもかけぬおかしな顔つきの天狗の面があり、二人で大笑いしました。……このサカホコは、少し動かしてみるとよく動きます。また、余りにも両方へ鼻が高く、お龍と二人で両方から鼻をおさえてエイヤと引き抜いてみたら、わずか四五尺(一メートル二十センチ〜一メートル五十センチ)で、またまた元通りに納めました。」3)と書かれている。これが日本初の新婚旅行と言われるものである。現在、龍馬とお龍が湯治を行った塩浸温泉には、龍馬とお龍の記念碑が建っている。

 慶応三年(一八六七年)六月二十四日、乙女とおやべ宛ての手紙には、「私の妻は毎日言って聞かしますが、龍馬は国のために骨身を砕いています。そういうことだから龍馬をよくいたわってくれるのが国家のためになることで、決して、天下のとか、国家のとかと言うのはいらないことだ、と言い聞かせています。その暇には自分で掛けた着物の襟付けなどの縫い物などをしています。その暇には本を読むようにせよと言い聞かせています。この頃ピストルは大分うまく撃てるようになりました。誠に変わった女ですが、私の言うことをよく聞いてくれますし、また敵を(伏見寺田屋の事件を思い返して下さい)見ても抜き身の刀を怖がることを知らないという者ですが、別に偉そうにはしませんし、またまったく普段と変わったこともありません。これは面白いことです。」4)と書かれている。

 龍馬の書簡にはお龍について「変わった女」「面白い女」「私に似ている」と書かれているが、確かに龍馬の文面からは妹を助けるために悪者の胸倉をつかんで殴ったり、敵や刀を見ても怖がらず、月琴を弾き、ピストルもうまく使いこなす当時の一般女性の枠を外れた勇敢な女性と感じ取れる。また、日本神話の天孫降臨神話にゆかりが深い高千穂峰の「天の逆鉾」を引き抜こうとする龍馬を止めずに、一緒に両方から鼻を押さえて引き抜いたお龍は好奇心旺盛な女性なのだろう。それらは、龍馬自身が当時の一般男性の枠から外れた存在なのと同じものを、龍馬はお龍に感じ取っていたのかもしれない。

【引用文献】



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