ヘーゲルにおける可能性と現実性のカテゴリー(2)
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
G・W・F・ヘーゲル(1770―1831)は「現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性である。このような円としてそれはさらに統体制であり、したがって内容、即時かつ対自的に規定されている事柄である。」(1)としている。このような可能性は、或るものの実現を可能ならしめる諸条件が整えば可能性が現実的にならざるをえないのであり、それが実在的な可能性である。実在的な可能性は、新しい現実のためのすべての諸条件が整うことにより、それが成熟してゆき新しい現実が発生するのである。この実在的な可能性は、現実性へと転化するのに必要な諸条件を整えていると言うことが前提されると云えるだろう。このような可能性は、実在的な可能性と呼ばれるものである。これに対して、現実性の合法則的で発展的な側面を表現している傾向は、与えられている諸条件のもとでは直ちに現実性に転化することができない。このような可能性は、形式的な可能性と呼ばれるものである。実在的な可能性については、対象を考察するとそれは与えられている諸条件のもとで現実性に転化することができる内容を包括しているものである。しかし、実在的な可能性は、現実性と混同してはならないし実在的な可能性が何らかの問題もなしに現実性に転化すると考えてもならない。
可能性(Moglichkeit)が現実性に転化すると言うことは、新しい現実性が生まれると言うことを意味するものである。これまでの古いものから新しいものの発生には、常に対立物の相互浸透と矛盾が行なわれるのである。新しいものへの傾向は、古いものを維持しようとする傾向と対立し、これを克服する過程と可能性が現実性(Wirklichkeit)へと転化する過程であるからそこには、常に対立する新しいものと古いものとの可能性の相互浸透が行われるのである。すなわち、そのことの内実は、新しいものへの傾向と古いものを一層強固にしようとする傾向との対立が存するのである。新しいものを生み出す可能性は、現実に新しいものになるためにはこの新しいものを生み出す可能性が、対立するこれまでの古い可能性と対立しこれを克服しなければならない。そして、新しいものを生み出す可能性が、実在的な可能性となり現実性へと転化するのである。このような場合には、その可能性が対立する可能性を克服する条件を整えていると言うことを意味する。だがしかし、このような可能性は、こうした条件が整っている場合でもその可能性が必ずしも現実性になるとは限らないのである。可能性が現実性になる条件が、あるにもかかわらずそのような条件が破壊され結局はその可能性が現実性に転化できなくなる場合もある。
こうした可能性の現実性への転化の問題は、社会生活における発展過程を自然における発展過程から区別しなければならない。われわれ人間の社会生活では、二つの側面がありあらゆる変化は人間がおりなす活動の結果としてのみ行われる。その一つのものは、客観的な側面であり人間の意識から独立に行われ人間の意識によって操作することが不可能な変化の過程である。他の一つのものは、主観的な側面であり一定の目的を成し遂げようとする対象に対する人間の意識的な行動である。このことの意味は、対象である事物や事柄を発生から捉えた認識の客観的な側面が人間の頭脳へと反映したものである。だがしかし、その作用に関して言えば、客観的な側面に反作用してその進行を速めたり遅らせたりもするものである。われわれ人間の社会生活における変化は、この二つの側面の各々において起こるがその両者が結合した場合に始めて、我々の社会生活に決定的な変化が起ることになる。次いで抽象的な可能性については、それは現実性の合法則的な発展の非本質的で副次的な側面を表現している傾向であり、与えられている諸条件の下では直ちに現実性に転化することができない可能性のことである。しかしながら、現実性の合法則的な発展は、本質的な側面と非本質的な側面との区別が決して固定的なものではなく可動的なものである。或る時点で非本質的なものであったものは、一定の諸条件のもとで本質的な側面に転化することがある。この場合に抽象的な可能性は、現実的で実在的な可能性の具体的な萌芽となるものである。
このように可能性というカテゴリーは、実在的な可能性と抽象的な可能性とに区別するだけでなく、さらに抽象的な可能性を二つに区別することが理論的にも実践的にも極めて重要であることが理解されるだろう。これまでの可能性をめぐる従来の考え方には、この二種類を区別するような検討がなされてこなかったのである。このような一定の条件の下では、実在的な可能性に転化することのある抽象的な可能性を発生的で抽象的な可能性として捉え、実在的な可能性に決して転化することのない抽象的な可能性を消滅的で抽象的な可能性と把握することである。発生的で抽象的な可能性に関しては、これが抽象的な可能性に過ぎないからと言ってこれを無視することは許されない。この可能性が新しいものを生み出すような望ましい可能性を包含しているものである場合には、われわれはまずこれを実在的な可能性に転化させるような様々な諸条件を作り出すことに努力することである。これに反して消滅的で抽象的な可能性に関しては、このような可能性について人々に幻想を与えないように注意して対応しなければならないだろう。
われわれは、このようなことから無条件的な可能性と条件的な可能性・消滅的で抽象的な可能性と発生的で抽象的な可能性、そして、実在的な可能性という現実性の諸カテゴリーを区別し、かつそれらの対象である事物や事柄の発生から消滅の発展過程として捉え相互連関を吟味するのである。これらのなかで無条件的な可能性と消滅的で抽象的な可能性とを除いては、その他の諸カテゴリーと相互に転化するものであることを把握することにある。これらの区別は、事物の発展の過程として捉え可動的であることの意味について特に強調されなければならないだろう。こうした事物や事柄の発展は、まさにこれらのカテゴリーの相互転化を過程的なものとして把握されなければならないのである。このような対立物の相互浸透は、量的変化の質的変化への一層の具体的で現実的な形態である。この発展の論理にとって最も重要なことは、実在的な可能性の現実性への転化でありこの転化を通じて、現実性のうちに新しいものが生み出されることを捉えることである。だがしかし、この転化の前提としては、条件的な不可能性の可能性への転化が発生的で抽象的な可能性の実在的な可能性への転化にも、重要な意義を認めなければならないだろう。発展の具体的な形態は、この転化の過程を通じて把握されるべきものである。
現実的な可能性は、具体的で現実的なものであって単なる頭の中であれこれと考えられた形式的で抽象的な可能性とは違って、事物や事柄の発展の客観的な傾向や法則性などが必然性と結びついているものである。このような可能性というカテゴリーは、抽象的な可能性であるとか実在的で現実的な可能性であるかを吟味して、現実的な可能性であるならその内容を具体的に分析して、その実現にとって必要な条件を明らかにしていくことが求められているのである。現実性とは、対象である事物や事柄が現実に存在していると言うことであり、特に可能性に対して使われるときは可能性が実現して現実的に存在している実在的な可能性のことを意味する。可能性のなかには、不可能だけれども絶対に不可能とは言えないといった可能性もあれば、現実的に実現の必然性を整えていて遅かれ早かれやがては必ず実現すると言うような可能性もある。したがって、われわれが実在的な可能性を問題にする時は、その可能性を具体的に分析することによってそれが単なる可能性なのか、それとも必要な条件が整っていてやがては必ず実現すると言う現実的な可能性なのか、ということを見極めなければならないだろう。
実在的な可能性は、このように単なる可能性と違ってもう他のものではありえないと言う必然的なものであり、この意味において実在的な可能性は必然性そのものなのである。そして、実在的な可能性の条件は、新たな現実になっていく可能性であるがそれらは実在的で具体的な事物や事柄のための材料であり、受動的な可能性である。またすべての条件が整ったものは、現実化すると言うことであるからすべての条件がそろった実在的な可能性は、事物や事柄の具体的な内容を整えているものである。こうした事物や事柄は、これらの条件を内容として現実化するのでそれは諸条件の相対によってこそ、自分自身を事柄として示すことになる。またそれらの事柄は、他から現出するものではなく条件から現出するものである。実在的な可能性の現実性へ転化すると言うことは、対象自身の内在的な可能性が実現して外的な直接性になるということである。そして、条件と言う外的な直接性は、新しい現実化した物の生成する過程のなかでそのうちに取り込まれて、同一のものとなり新たに実現した現実の内容に転化するのである。このような条件が成熟してゆくことは、益々事物や事柄の内容が明らかになりやがては事柄が諸条件の成熟を促すことになる。そして条件は、自ら成熟して事物や事柄を生み出すと共に事物や事柄が条件の成熟を促すように働くのである。こうした必然性は、可能性が実現して実在的なものとなることでありこの意味で必然性は可能性と現実性との統一である。
ヘーゲルは「必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的でありしたがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。」(2)と述べている。事物や事柄は、現実性において本質と現象との統一としてよりも具体的で現実的な姿において捉えられ再構成されている。したがって、事物や事柄は、われわれ自身の感覚の直接的な対象としての個々のものとして存在するのである。そして事物や事柄は、同時に内在的で外的な諸連関の絡みあいの中にあって、個々に存在しているところの一個の必然的な形態なのである。だから、この分析の主な対象は、この一切の現実的なものであるところの必然性とその諸形態である。ヘーゲルは、この必然性を可能性と現実性との統一として捉らえたのである。
【参考文献】
- 注(1) G.W.F.Hegel Enzyklopadie der philosophischen Wissenschaften 1. Suhrkamp taschenbuch Wissenschaft §.147. 邦訳、ヘーゲル著、松村 一人訳『小論理学』下巻、岩波文庫、岩波書店、昭和39年p.94
- 〃(2) G.W.F.Hegel Enzyklopadie ibid.§.147.邦訳、同上書、下巻 p.95