斎藤茂吉と相撲

博士後期課程 小泉 博明

 角界では、横綱の不祥事、理事選挙、外国人力士の問題など、土俵の外がかまびすしい。さて、斎藤茂吉は相撲とどのような関わりをもったのであろうか。

   巡業に来ゐる出羽でわがたけわが家にチャンポン食ひぬ不足も言はず
(『つゆじも』大正8年「雑詠」)

 この歌の出羽ケ嶽文治郎こと、本名佐藤文治郎は1903(明治36)年生まれで、山形県南村山郡中川村の農家の出身である。やがて、茂吉の養父である紀一が、11歳で身長5尺5寸(約182p)、体重24貫(約90s)という怪童であった文治郎の噂を聞き、青山脳病院で面倒を見ることとなった。ただし、紀一の養子とはなっていない。1青南小学校に転校となったが、制服制帽、さらに机や椅子も別注であった。その後、青山学院中学校へ進学した。茂吉とは青山脳病院で共に生活をしたのであった。紀一は、関取へと考えていたのだが、文治郎は医者になりたかった。斎藤茂太によると「彼は尚角界に入ることを拒んでいたが、紀一の依頼で、出羽の海親方(元横綱常陸山)が菓子や玩具をもって足しげくやって来て、おだてたり、すかしたりしたのでさすがの彼もとうとう出羽の海部屋への入門を承知したのであった」2という。出羽の海親方による懐柔で角界に入門し、大正6年に初土俵を踏み、大正6年1月場所で序の口、5月場所で序二段で優勝し、大正11年1月には、十両へと昇進し関取となった。ファンからは「文ちゃん」という愛称で呼ばれ可愛がられ、得意技は巨躯を活かした「サバ折り」であったという。これは、茂吉が長崎医学専門学校教授であった時に、長崎に地方巡業に来た出羽ケ嶽らを自宅に招いた歌である。長崎なので、名物のチャンポンを馳走したが、「不足も言わず」とは何とも愛らしい。

   床に入りて相撲の番付を見てゐたり出羽ケ嶽の名も大きくなりて
(『遍歴』大正13年「ミュンヘン漫吟 其二」)

 茂吉のミュンヘン留学中の歌である。出羽ケ嶽は、大正13年の5月場所では東十両の一枚目となり、相撲番付の四股名も大きくなり、茂吉の満足した破顔が伝わってくるようだ。大正14年1月には入幕し、大正15年1月には西の関脇にまで昇進した。これが最高位であった。その後、関脇と小結を往復するようになる。大山真人は「体重二百二キロ、身長百九十八センチの超弩級を両国の大鉄傘下で誇示していた」3という。大正15年1月の茂吉の日記には、次のようにある。

一月十四日 木曜日、(略)出羽嶽勝ツ。
一月十五日 金曜、暖シ。(略)出羽ケ嶽勝ツ。
一月十六日 土曜。クモリ。寒シ。(略)出羽ケ嶽大蛇山ニ負ク。足ヲトラレテヒックルカヘル。
一月十七日 日曜。クモリ。後天気吉。(略)出羽ケ嶽勝ツ。
一月十八日 月曜(略)輝子、茂太相撲見ニ行ク。出羽ケ嶽下利シテヰル。若葉山ニ敗ル。
一月十九日 火曜日。小雨降ル。(略)出羽ケ嶽小野川ニ敗レタ。腹ノ工合ガ悪イト云フカラドウモ力ガ出ナイラシイ。
一月二十日 水曜日、天気吉、寒シ(略)出羽ケ嶽負ク。4

 茂吉にとって、欧州留学後は、焼失した青山脳病院の再建、そして院長就任という艱難辛苦の時であった。国技館へ応援に行く余裕まではないが、鬱積した思いが、出羽ケ嶽文治郎の活躍で、少しは精神的に和らいだのであった。ところで、大正13年12月29日に、青山脳病院は全焼したが、その出火原因が、正月用の餅を搗いた火の不始末であった。毎年、正月に患者や職員に振る舞う餅を搗いたのは、出羽の海部屋の力士であり、出羽ケ嶽も協力した。紀一が、出羽の海部屋のタニマチであったからである。何とも因縁めいたものを感ずるのである。
 さて、昭和3年5月からは「横綱を二人も倒すという勢いであったが、背骨をいためてから番付は下る一方でしまいに幕下まで落ちた」5という。

   わが家にかつて育ちし出羽ケ嶽の勝ちたる日こそ嬉しかりけれ
(『石泉』昭和6年「病牀吟」)

 この歌は、怪我の為に平幕で停滞し、休場する出羽ケ嶽に対する、同郷で、青山脳病院で共に育ち悩んだ茂吉の声援である。しかし、その声援に出羽ケ嶽は応えてくれない。

   番附もくだりくだりて弱くなりし出羽ケ嶽見に来てもだしけり
   四時間のいとまをつくり国技館の片すみにゐて息づく吾は
   いきれする人ごみの中に吾は居り出羽ケ嶽の相撲ひとつ見むとて
   断間たえまなく動悸してわれは出羽ケ嶽の相撲に負くるありさまを見つ
   木偶でくの如くに負けてしまへば一息にいきどほろしとも今は思はず
   固唾のむいとまも何もなくなりて負くる相撲を何とかもいふ
   一隊の小学児童が出羽ケ嶽に声援すればわが涙出でて止まらず
   五とせあまりのうちにかく弱くなりし力士の出羽ケ嶽はや
   火曜日の午後にいそぎて来りたる国技館の雑音にわれ力なし
   のぼせあがりし吾なりしかど今は心つめたくなりて両国わたる
(『暁紅』昭和10年「国技館」)

 これらは、昭和10年1月場所を観戦しての歌である。横綱を倒した力士の番付が「くだりくだりて」と急降下し、そして「弱くなりし」という実感である。そして、応援するでもなく「黙しけり」と結んでいる。高橋光義は「人気は落ちつつも出羽ケ嶽の怪異な体型と風貌は、少年らをまだまだひきつける。そのひたむきであどけない一斉の声援を聞き茂吉は(略)喜悦にひたる。出羽ケ嶽への切ないまでの同情と愛が、その勝敗をこえて噴きでる」6と解説している。

   出羽ケ嶽引退をすることにめ廻るべき処に吾はまはりぬ
(『寒雲』昭和14年「近作雑歌」)

 昭和14年の5月場所で、三段目にまで落ち、1勝5敗となり、怪我に悩まされた出羽ケ嶽は、不本意ながらも引退を決意した。当時、年に4回の場所であったが、幕内での通算成績は、151勝137敗53休(勝率5割2分4厘)という星取りであった。7その後は、田子ノ浦という年寄を名乗った。戦後は、小岩で「文チャン」という焼鳥屋を開店したが、昭和25年に脳出血で亡くなった。
 なお茂吉の『山房雑文抄』に「出羽ケ嶽」という随筆がある。そこには、茂吉の次男である宗吉(北杜夫)が4歳の時に、茂吉の家へ立ち寄った出羽ケ嶽を見て、「無礼者!」と叫んで泣きながら逃げて行った話を書いている。

 昭和五年一月某日、出羽嶽は突然玄関から這入って来た。するとそれを一目見たこの男の子は大声に泣叫んで逃げた。畳を一直線に走って次の間の畳を直角に折れて左に曲って、洗面所と便所の隅に身を隠すやうにして泣いてゐる。ある限りの声を張あげるので他人が聞いたらば何事が起ったか知らんとおもふほどである。
 狭い部屋に出羽嶽は持てあますやうに體を置いて、相撲の話も別にせず蜜柑などを食ってゐると、からかみが一寸明いて、
『無礼者!』
 と叫んで逃げて行く音がする。これは童が出羽嶽に対って威嚇を蒙ったその復讐と突撃とに来たのである。突然この行為に皆が驚いて居ると、童が泣じゃくりしながら又やって来た。唐紙障子を一寸またあけて、
『無礼もの!無礼もの!』と云った。8

 最後に、日本人の力士の奮起を期待して筆者の駄作を記す。

   床に入りて相撲の番付を見てゐたり外国人のみ大きくなりて


【注釈】

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