ヘーゲルにおける可能性と現実性のカテゴリー(1)

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 可能性と現実性は、世界の事物や出来事の相互連関を捉える大切なカテゴリーのひとつである。この世界の事物や出来事は、すべてにおいて可能性(Möglichkeit)が現実性へと転化したものと捉えることができるだろう。この可能性とは、言葉の意味からして或る事物や事柄についてこう成るということが有りうるということであり、そういうことに成る見込みが有るということである。或る事物や事柄については、そう有りうるという状態のことを可能性といわれ、現にこうあるという現実に存在している状態のことを現実性といわれる。一般的に事物や事柄は、可能性が実現して現実性(Wirklichkeit)へと転化し発展するものである。しかし、すべての可能性が、現実性へと転化し発展するものとは限らない。可能性が現実性へ転化し発展するには、その可能性の内容に応じた条件が満たされていなければならない。この条件を満たすことができない可能性は、抽象的で形式的な可能性といわれる。これに対し現実性に成りうる可能性は、現実的な可能性といわれる。そして、可能性が現実性に成るには、この素質と条件が結びつかねばならない。

 したがって可能性は、現実性との連関において考察されなければならない。G・W・F・ヘーゲル(1770―1831)は「可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立される、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。」(1)と述べている。さらにヘーゲルは「可能性は、現実性の単なる内面にすぎないから、まさにそれゆえにまた単に外的な現実性、すなわち偶然性である。偶然的なものとは一般に、その存在の根拠を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持つものである。現実性が最初意識にあらわれるのは、このような姿においてであり、人々はしばしばそうした姿を現実性そのものと混同する。しかし偶然的なものは、他者への反省という一面的な形式のうちにある現実性、あるいは単に可能なものという意味における現実的なものにすぎない。」(2)としている。抽象的な可能性は、同じ可能性といっても形式的で抽象的な可能性でしかない。

 抽象的な可能性の意味を捉えるには、現実にはほとんど不可能であるけれども考えて見ることだけなら不可能ではないというだけの意味の可能性でしかない。対象である事物や事柄については、このように考えることができるという意味での可能性ならば、現実に不可能なことでも幾らでも考えることができるということになる。すべてのものにおいて考えるだけなら可能であるけれども現実には、自然的で社会的な関係において必然性が伴って始めて可能となるのである。ただ単に可能的なものということは、或ることが可能でありまたその反対のことも可能であるという意味を、これもまた保持していることになる。これが論理学上の抽象的な可能性の意味である。このような意味内容は、要するに可能性についての具体的な諸関係を捨象するということであり、人間の頭の中ではそのように考えることも出来るという意味である。このような可能性は、様々な関係から切り離された無規定的なものであり、まったく無関係などんなものでもそこに内包されるという意味である。さらに偶然性というのは、この抽象的な可能性が実現したものである。単なる可能性が実現するということは、それが偶然性であり必然的なものではない。そのことの意味は、その実現の根拠を自分自身の内にではなく外的なものに依存するものである。そして、それが実現するかどうかは、外的な諸条件に依存している。

 だから可能性と偶然性は、現実的なものの外面性をなすところの単なる形式であるにしかすぎない。或ることが可能であり偶然であるかどうかは、その事物の内容にかかわっておりこの場合は内容と形式が異なっているのである。可能性と偶然性は、現実性の一面的な要素でありそれは現実性そのものではない。ヘーゲルは「偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄(Aufheben)されており、定有的な外面性である。」(3)と述べている。現実的で実現性のある可能性とは、例えば人は誰でも宇宙旅行ができるという可能性のようにまだ実現していないが、遅かれ早かれ必ずや実現するだろうという可能性を含むものといえる。そのことの意味は、火星への宇宙旅行は現在まだ実現していないがすでに月への旅行を実現した技術をもってすれば、その実現はもはや時間の問題であるということもできるからである。このような可能性は、抽象的な可能性と違って現実的で実在的な可能性である。この可能性には、今はまだ実現していなくても必要な条件さえ整えば何時かは必ず実現し、現実性へ転化するという必然的な性質がそなわっているものである。

 可能性と現実性を捉えるには、現実性の中では常に古いものが消滅しつつあり新しいものが発生しつつあることを把握しておかなくてはならない。現実性の中では、新しいものと古いものとの矛盾が発生し相互浸透が行われているのである。すでに発生した新しいものは、いうまでもなく現実性の一部分である。しかし、これは過去においては、まだ現実性ではなくて現実性の萌芽にすぎなかったのである。同じように、現在の現実性の中には、今はまだ現実性ではないが将来において現実性に転化し、将来の現実性における新しいものとなるような現実性の萌芽が含まれている。このように、現実性を固定的にではなく可動的なもの変化と発展するものとして捉えるためには、このような可能性の現実性への転化を捉えることが重要である。したがって現実性は、可能性との連関において考察されなければならない。可能性というカテゴリーは、今日の現実性の中に潜在している明日の現実性を顕現化させるためにきわめて重要なカテゴリーである。しかし、他面においては、あらゆる可能性が現実性に転化することが出来るわけではないことも把握しておかなくてはならない。したがって可能性は、そのもとで現実性へと転化する条件を常に考慮しながら可能性のカテゴリーを吟味しなければならない。

 可能性というカテゴリーを吟味するには、その手始に可能性が客観的な実在に存在しているということを捉えることである。このことを確認することによって可能性の実在的な可能性は、客観的な実在を正確に捉え可能的で本質的なものを把握することができる。可能性については、それ自身の内にやがては現実性となっていく萌芽を自ら保持しているものであり、必ずや現実性に転化するものである。不可能性については、それ自身の内に現実性となってゆく萌芽を含まないもので必ずしも現実性に転化するものとはいえないものである。したがって、形式論理学の法則に反するものだけが不可能性に属するのではない。客観的な実在の発展法則の中には、現実的な実在の特殊な領域でのみ作用している法則がある。このような法則に反するが故に不可能であるものは、このような法則が作用しなくなれば可能的なものへと移行する。しかし、また、客観的な実在の発展法則の中には、現実的な実在の全体に関するものもあり、このような法則に反するが故に不可能なものは無条件的に不可能性である。可能性と不可能性とは、両者はたがいに相手が無くともまた相手から切り離されてもその意味を失わない。したがって、弁証法的な意味での対立物ではない。両者が対立物の相互浸透するのは、条件的な不可能性の場合に限られている。したがって、可能性と不可能性とは、対立物の相互浸透を形成しない。不可能性とは、決して現実性に転化することのないものである。

 しかし、この規定を逆用して可能性とは、必ず現実性に転化するものであるとはいえないのである。なぜならば、すべての可能性が現実性に転化するとは限らないからである。従って、可能性を規定するためには、もっと別の方面から考察しなければならない。現実性の内には、将来において発生されるべき新しいものの萌芽が含まれている。これらの萌芽は、現実性の内に様々な傾向として現れる。傾向というのは、或るものを目指して進んでいる運動である。現実性の内には、その運動がいま現に持っている方向に進んでゆくならば、やがてその目指しているものに到達するだろうという運動が傾向である。そして、現実性の中に含まれているこれらの傾向が、可能性と呼ばれるものである。だから可能性とは、決して単に主観的なものではなく客観的に存在するものである。これらの傾向は、すべてにおいて将来は現実に転化するものであるかというと必ずしもそうとはいえないのである。これらの傾向の内あるものは、現実性になる可能性はあるが他のものにはならないということである。可能性というカテゴリーは、今日的な現実性の中に将来の現実性を明確にしてゆくという極めて重要で実践的な任務を持っているのである。

 現実性になるとする傾向は、現実性にならないであろうとする傾向をもそれらを一括して可能性と呼ぶだけでは足りないことになる。われわれが可能性に関心を持つのは、将来現実性に転化することになる様な傾向であるからして、この観点から可能性というカテゴリーをさらに吟味しなければならない。可能性というカテゴリーは、これを詳細に吟味しようとする時にわれわれは先ず現実性に注目しなければならない。こうした現実性は、実在的な可能性から現実性への転化の過程として一定の法則に従って発展している。そして、現実性のこの合法則的な発展には、本質的で主要な側面と非本質的で副次的な側面とを区別することができる。このことの意味は、現実性の中に含まれている傾向のうちに合法則的な発展の本質的な側面を表現しているものもあれば、非本質的で副次的な側面を表現しているものもあることを捉えることである。こうした傾向は、現実性の合法則的な発展の最も本質的な側面を表現し、与えられている諸条件の下で現実性に転化することができるものである。現実の外面性をなすものは、偶然性(Zufalligkeit)をより立入って考察してみると偶然的なものは偶然そこにあるものが他のものの可能性になる。だから可能性は、偶然にそこにあるものを利用して他のものに転化するのである。


【参考文献】
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