思わぬ反応
−縁は異なもの−

国際情報専攻 4期・修了 長谷川 昌昭

はじめに
 院生諸賢は様々なスタンスで日々をお送りのことと思います。
 1964年以来 街頭で道に迷っている外国人には積極的に声をかけて道案内を買って出る姿勢を貫いています。目配りで解る。
何故、1964年か。この年は東京オリンビック開催年である。今年のIOC委員会では、残念ながらブラジルに譲ってしまい、更なる招致活動の声も聞こえる。
 本邦初の戦後の総決算とも言うべき復興期の最初の国際的で国家行事であり、それをターニングポイントとして日本は国際舞台へ羽ばたいたのである。
 現在の情勢のようにオリンピックがテロの標的になる憂いはなかったものの国家的行事への取り組みに東京を管轄する警視庁はその総力を挙げての警備態勢を構築して臨み、見事完遂したことはご高尚の通りである。その警戒態勢の中で特異なものは、選手村警備に婦人警察官の警備隊長と横っ腹にINTERPRITORと表記した通訳パトカーであった。
 その通訳パトカーはたった16台で、全種目会場からの要請に、高速道路未整備時代の長野県軽井沢馬術会場や神奈川県の相模湖カヌー会場へと応援要請に馳せ参じていたのである。
 学生時代から日赤東京学生奉仕団員として米軍ワシントンハイツのジムナジウムやスイミングプールの管理過程で、米軍の米日赤のインストラクターコースを履修していたことから、警視庁入庁後は外国人の多い、麻布・赤坂を希望した。採用時教育期間の成績が良くなかった所為かで、都心から遠い横田基地を管轄する福生警察勤務を命ぜられていた。しかし、オリンピック態勢で呼び戻され警視庁警備部勤務の通訳パトカーに偶然おさまったのが、転機である。
 横田基地の米兵相手の各種取扱いやオリンピック要員と言うことで、アメリカンスクール小学校や米兵との同乗警戒勤務で一層の磨きをかけることとなり、オリンピック本番では、各種競技会場は勿論、選手や各国選手団長との交流の機会にも恵まれることとなった。
 警察時代の公用渡航は1度のみで、最近の情勢とは異なり渡航は頻繁でない時代に2年間に3回の私用私事休暇渡航には、人事当局から注意を受けたこともあるが、私費渡航でも先端技術や国際化対応技法は勤務にも反映させて些かの貢献はした自負はある。
その様なことから、外国人が困っていると進んで道案内や手助けをするスタンスを継続している次第である。
1 Street direction
 地理案内の真髄は、最終希望目的地へ短時間で簡便に廉価で、しかも安全迅速で明快でなければならない。そして迷った外国人は当方の指示通りに向かうことの確認も欠かせないことである。
 反面、私共は海外へここ10年程の間に24回の渡航で30ケ国を訪問し、一回平均5〜7回は、空港や街中で行き先や乗り換え便を尋ねている。一回も間違った案内には遭遇してはいない。従って 困っている外国旅行者等には誠心誠意対処するので相互主義の国際礼譲に叶っていると確信しての道案内等を継続している次第である。
 忘れられないのは、米ミネソタ州民の対応である。彼らは、自分の州をこよなく愛して来訪する遠来の客には最大限の道案内をする。車で迷って何度か街道沿いで尋ねる羽目に陥ったことがある。彼等は必ず、屋外迄出て来て行き先を示し、そして角を曲がったりするまで見送る姿勢が、幾度もバックミラーに映し出され感銘を受けたことが多々ある。そしてトイレは大丈夫ですか、とか所要時間を算出してくれた他に、Have a nice day ! Enjoy!と励ましさえ与えてくれる。
2 歩く教材
 日本人は外国人コンプレックスがある、と言われるが決してそうは思わない。
 道に迷って困っている外国人は歩く教材と思って対処することが肝要であり、観光立国を目指す国策にも添う結果であると確信している。
 困っているのだから、当方の下手な外国語も聞いてくれること必定であることは経験からの論証結果である。何も卑近な教材を逃す手はない。殆どの困っている外国人は、何人かの日本人に尋ねても対応拒否に遭遇している。在日歴8年で現在毎週水曜日夜にタッグを組んで市民講座で教えている講師のVenesa嬢は、何故日本人の殆どは中高大学と10年も英語を学んでいるのに話せないのかと言うことが、カルチャショックだと常々言っている。同感だ。
3 縁は異なもの
 先日、新宿の地下鉄都営大江戸線の西新宿の改札口を出ると案内掲示板の前で二人連れの”教材”がそそくさと立ち去る日本人に肩を窄めて所在無げに困惑しているのに出逢った。
 聞くと” 宿泊先のワシントンホテル “を探しあぐねて、数回通行中の日本人に尋ねたが、何れも”I can’t speak English “と英語で応えて立ち去ってしまうとの状況であった。
 丁度地上へ出てデパートでの買い物の都合があり、一緒に西口広場へて出方向を示して案内をした。豪州から2泊の予定でとの由。別れてデパートに入ったものの同名のホテルが二つあることに気付き、彼らを追いかけた約5分後に追ついた。彼等は都庁傍では無く甲州街道沿いのホテルで、そこまで案内した。するとホテルは解ったので、娘への御土産を買い忘れたから、再度西口へ戻ることとなり、所望する土産店まで案内した。すると 名刺を下さいと。先に名刺を差し出されたので交換した。確か40年以上の道案内の経験で名刺を請求されたのは、初めてだったし、間違いを心配して、追いかけたのも初めての体験である。
 名刺には、豪州クイーズランド州立大学CEO1と同州著名な流通機構の役員の二人連れと判明した。今まで名刺をと道案内の際に請われたのはオリンピック時に米国選手団団長から、選手を保護した時と前々職時代に東京駅で重い旅行スーツケースを八重洲口から丸の内側へ老夫妻の米カリアォルニア大学教授が瀬戸大橋の調査の帰り道の2回のみの記憶である。
 果たせるかな今月初めにAppreciatedのmailを受け取り、更に縁は異なもので彼等はクイーズランド州警察機構の副長官との好誼があり、貴方の名刺にあるRetired Police Superintendent MPD Tokyo Japanに敬意を表し、来豪の際は大歓迎と記してあった。来春にパースへの予定はあるものの、東海岸のゴールドコーストやブレスベンの クイーズランド州は予定にないと返信したら、計画は変更と途中降機があるとも伝えてきた。
終章に替えて
 先般の日大大学院ゼミの集まりで院友から”Master’s degree of International Knowledge”の英文裏書の名刺を頂戴した。私はここ数年学位記を頂いて以来は、M.A.I.P.S.E(NIHON UNIV GSSC)を英文裏書の名刺として使用している。
 米、英、仏、独、豪、スイス、香港、シンガポールでは、目敏くWhat is your major ? とかWhat is your specialized subject ?と評価と畏敬の念で対応された例に枚挙に暇がない程で日大大学院に感謝の日々である。
 この文を作成中に8月にバンクーバーで逆にこちらがバスの行き先を尋ねたら親切に教示してくれたカナダの客員教授のドイツ人から9月に絵葉書が到着していたのに返信していないことを思い出して、慌てている今日此の頃である。
“遠方に友を持てば、世の中が広く感じられる。友は緯度となり、経度となる”
 ソロー


【注釈】




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