斎藤茂吉とクレペリン

博士後期課程 小泉 博明

 斎藤茂吉が、ミュンヘンに留学中、講演会で憧憬する精神医学者クレペリンに握手を拒絶されたことは、あまりにも有名なエピソードである。

 クレペリンはドイツの精神医学者である。とくに精神医学に造詣がなくとも、クレペリン検査、正確にいえば、内田・クレペリン検査を受検し、覚えている人もいるだろう。現在も、教員採用試験で実施している所もあるようだ。この検査は、クレペリンが発見した作業検査を原型に、内田勇三郎が開発したものである。検査そのものは単純で、羅列してある数字を、一桁の足し算をしていくもので、検査結果により適性や性格を判断するための参考とするものである。
 茂吉がクレペリンと出会ったのは、1923(大正12)年10月11日のことであった。茂吉は、ウィーンからミュンヘンへ転学し、ドイツ精神医学研究所のシュピールマイエル教授の許で、研究に励んでいた。クレペリンは茂吉にとって、恩師の呉秀三も学んだ学者であり、尊敬し、憧憬した学者であった。そのクレペリンンと会う機会があったので、茂吉の心悸は高まるばかりであった。

 講堂で精神病者の行動を写した活動写真が行われた。茂吉は、ハンブルク大学の講師プチに誘われて、活動写真が始める前に、クレペリンの面前に立った。
その時プチが私に、『一つ紹介してあげるから来たまへ』といふから一しょにクレペリンの傍に行き、私みずから丁寧に名告って、今ここの教室の顕微鏡室で為事をしてゐることを云ひながら私の名刺を渡した。クレペリンはそれを受取ったが名刺の文字を読もうとはしない。そして一言も私に向かって言葉を発しない。(1)
 為事とは、ドイツ語でアルバイトである。ここでは、学位論文作成の為の研究のことである。さて、活動写真の映写が終了し、講堂が明るくなると、茂吉は再度、握手を試みた。
私は立ってクレペリンの前に礼を述べた。クレペリンはそれに向って一語も応へない。私に次いでプチが立ってクレペリンに礼を述べた。すると意外にもクレペリンはいきなり自分から手を出してプチと握手した。これは私の予感さへ抱かなかったことである。それで意外なのである。クレペリンの握手が未だ終わらざる一瞬に私もクレペリンと握手しようと決心した。そして渡しが手を出しかけたその一瞬にクレペリンはプチと握手してしまった手をばひょいと引込めて降りて行った。これも私の予期せざることであったから、やはり意外と謂はうとおもふ。私は一瞬と書いたが、実にそのとほりであって、クレペリンの行動は私にそれ以上事を為す余裕は毫末も與へなかったのである。見てゐるとクレペリンは二人のジャワ国の医者とも銘々握手して、講堂を出て行ってしまった。(2)
 茂吉にとって茫然自失とした衝撃の場面であり、生涯消し去ることのできない心の痛手となった。あれほど憧憬していたクレペリンの予期せぬ態度に、講堂を出て「ひとり苦笑してゐた」とは言いながら、段々と憎悪へと変容していったのである。茂吉は、その後クレペリンに対し愛憎並存(アンビヴァレンス)となった。そして、執拗なまでに、クレペリンに執着するのであった。その後、学会でクレペリンを見かけたが、クレペリンと目があうと、クレペリンは目をそらしたが、茂吉はクレペリンを凝視し、黙礼などしなかったという。

 さらに、クレペリンは禁酒論者で、ビール党の多いミュンへンでは「飲まず屋の先生さま」とか「ラムネ党」とか、「実に偉い精神科の主任様」などと学生から揶揄されていた。そのことを茂吉は内心喜んでいたのである。そして、茂吉は次のようによんだ。
   十月十一日(木曜)、学会
愛敬あいぎゃうさうのとぼしき老碩学らうせきがく Emilエミール Kraepelinクレペリーンをわれは今日見つ
われ専門に入りてよりこの老学者らうがくしゃ憧憬どうけい持ちしことがありにき
(『遍歴』大正12年「ミュンヘン漫吟 其一」)
 茂吉の次男宗吉(北杜夫)は、茂吉の憤怒を回想して次のよういう。
クレペリンの「無礼さ」について昂奮した口調でしゃべるのを、中学時代から晩年の箱根の勉強小屋の二人暮しのときまで、私は幾度聞かされたかことか。とにかく父は、「うぬれ毛唐め!」と心の中で歯ぎしりしたのである。「毛唐」という言葉は随筆には出てこない。(3)
 また、このようなクレペリンの態度を、西丸四方は「日本はドイツからいろいろと教えを受けたのに英米側についてドイツに宣戦を布告した、弟子の分際で師に楯ついたけしからぬ国であると思って、斎藤に出す手も躊躇されたのであろう。」(4)と推測する。この対応に対し、茂吉はクレペリンの愛国心の発露とは納得できず、クレペリンの医者として、人間としての品格を問題視し、何よりも茂吉自らの自尊心が傷ついたのである。
 このような茂吉の性格は意見の分かれる所であろう。この執拗なまでの執着心が、例えば『柿本人麻呂』研究のような学問的研究を完遂させたエネルギーとも言えよう。とは言え、両者ともに、もう少し大人の対応をすべきではないだろうか。筆者が、もしも敬慕する茂吉先生に握手を拒絶されたならば、「苦笑い」だけで気持がおさまるだろうか。憧憬や尊敬の度合いが高ければ高いほど、握手を拒絶されたならば、その憎しみは倍増するであろう。もしも茂吉とクレペリンが笑顔で仲良く握手していれば、茂吉にとって憧憬を越えた存在となったであろう。案外、握手を拒絶されたことが、茂吉にとって良かったのではないだろうか。

 ところで、北杜夫『楡家の人びと』での、クレペリンとの出会いのシーンを参考までに見てみよう。徹吉は、言うまでもなく茂吉をモデルとしている。
徹吉はまだ覚らなかった。彼は次に自分が握手をして貰えるものと信じていた。長年の間敬慕していたこの碩学の掌を、なんとしても握りたかった。それで、クレペリンとジャワの医者の握手がまだ済まぬ一瞬に、我知らず、自分から手を差出しかけた。と、白髪の老学者は、握手の終った手をそのままつとひっこめ、くるりとこちらに背を向けるなり、階段を降りていってしまった。
茫然と、 − それから屈辱と憤怒の念に固く縛られて、徹吉はその場に立ちつくしていた。(略)やや前腕を曲げ、両の拳をしっかりと握りしめていた。その拳が小刻みに震えるのを彼は自覚した。丸い見映えのせぬ近眼鏡の奥の両眼は、痛いまでみひらかれていた。そんなふうに瞠いた目で、講堂の奥の入り口から出てゆくエミール・クレペリンの黒い背広の後ろ姿を、徹吉はまばたきもせず、最後までじっと見すえていた。彼の唇もわなわなと震えた。それは言葉を形造りはしなかった。しかし徹吉は、その胸のうちで、おし迫ってくる言おうようなくたかぶった感情、 − 憐れむべき、それだけに鞏固なのままの感情に圧倒されながら、こんな田夫のような罵詈を幾辺となく繰返したのである。
「毛唐め。この毛唐め!」(5)
 小説とはいえ、まさに事実そのままである。そして、どうも親の仇を息子が打ったような感じがする。

 最後に、筆者の駄作を記す。
   われ大学院に入りてよりこの歌人に憧憬持ちしことがありにき


【参考文献】
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