その時プチが私に、『一つ紹介してあげるから来たまへ』といふから一しょにクレペリンの傍に行き、私みずから丁寧に名告って、今ここの教室の顕微鏡室で為事をしてゐることを云ひながら私の名刺を渡した。クレペリンはそれを受取ったが名刺の文字を読もうとはしない。そして一言も私に向かって言葉を発しない。(1) |
私は立ってクレペリンの前に礼を述べた。クレペリンはそれに向って一語も応へない。私に次いでプチが立ってクレペリンに礼を述べた。すると意外にもクレペリンはいきなり自分から手を出してプチと握手した。これは私の予感さへ抱かなかったことである。それで意外なのである。クレペリンの握手が未だ終わらざる一瞬に私もクレペリンと握手しようと決心した。そして渡しが手を出しかけたその一瞬にクレペリンはプチと握手してしまった手をばひょいと引込めて降りて行った。これも私の予期せざることであったから、やはり意外と謂はうとおもふ。私は一瞬と書いたが、実にそのとほりであって、クレペリンの行動は私にそれ以上事を為す余裕は毫末も與へなかったのである。見てゐるとクレペリンは二人のジャワ国の医者とも銘々握手して、講堂を出て行ってしまった。(2) |
十月十一日(木曜)、学会 われ専門に入りてよりこの |
クレペリンの「無礼さ」について昂奮した口調でしゃべるのを、中学時代から晩年の箱根の勉強小屋の二人暮しのときまで、私は幾度聞かされたかことか。とにかく父は、「うぬれ毛唐め!」と心の中で歯ぎしりしたのである。「毛唐」という言葉は随筆には出てこない。(3) |
徹吉はまだ覚らなかった。彼は次に自分が握手をして貰えるものと信じていた。長年の間敬慕していたこの碩学の掌を、なんとしても握りたかった。それで、クレペリンとジャワの医者の握手がまだ済まぬ一瞬に、我知らず、自分から手を差出しかけた。と、白髪の老学者は、握手の終った手をそのままつとひっこめ、くるりとこちらに背を向けるなり、階段を降りていってしまった。 茫然と、 − それから屈辱と憤怒の念に固く縛られて、徹吉はその場に立ちつくしていた。(略)やや前腕を曲げ、両の拳をしっかりと握りしめていた。その拳が小刻みに震えるのを彼は自覚した。丸い見映えのせぬ近眼鏡の奥の両眼は、痛いまで 「毛唐め。この毛唐め!」(5) |