自然権思想と人間的自由
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
J・ロック(1632−1704)やルソーの自然権思想の基底をなすものは、人間への限りなき尊厳と信頼であり、一義的なものはわれわれ人間の生活を支えている衣・食・住に関するもので、われわれ人間の権利要求も含まれる社会的な生活の発展や、自由の拡大の過程をともなう人間の身体的要求であった。そして、これらの要求が表現されたり抑圧されたりする様々な制度や国家の形態は、法的な保障をも含む社会的自由の拡大も自然的条件の統御の場合と同様に二次的なものとされその両者が区別されている。J・J・ルソー(1712―1778)は「人間は生まれながらにして自由であるが、しかし、いたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼ら以上に奴隷である。」(1)と述べている。さらにルソーは「人間は善に対して生得的な知識をもっているわけではない。しかし理性がそれを人間に教えるやいなや、良心は、人間がそれを愛するようにさせるのだ。この感情こそが生得的なものなのである。」(2)としている。このような思考の根幹をなしている思想は、ルソーの人間の尊厳への信頼を表現する正義と善意という原理的なものであり、理性的な人間の尊厳を希求する根本思想である。
こうした人民主権の思想は、人間の尊厳という思想を基礎とする基本的人権の主張とその擁護を伴っているものである。人間の自由と民主主義的に生きる権利のうちには、人間が人間らしく生きるためのその人間性の故に属する根源的な権利が発生するものである。そして、われわれ人間が生きるためには、人間らしく生きると共に善く生きることを求めて人間的に生きるためのものでもあるだろう。このようなルソーとロックの根本思想は、始元的な自然権から出発しているものであって、その思想の基底をなすものは生命・自己保存・独立の権利と自由であるといえるだろう。ロックにとって人間の自然的な自由とは、自分の行動を定め自分の所有と身柄とを思うようにする自由を意味している。また、ルソーにとって自由とは、成人した若者がそれまで依存していた父親や国家という父親から独立することを意味している。そのことの内実は、人間らしく生きると共に善く生きることを目指し人間的に生きるためものでもある。人間への限りなき尊厳と信頼というルソーとロックの根本思想は、すべての人間が自然的な自由を守り人間らしく生きるものであり、人間の生命を守るためのものということができるであろう。
ロックは、まず自然の状態について自然法の見地から人民主権の原理を唱えて「政治的権力を正しく理解し、それがよってきたところをたずねるためには、すべての人が自然の姿でどのような状態にあるかを考察しなければならない。すなわちそれは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態なのである。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人より多くもつ者は一人もいない。なぜなら、同じ種、同じ等級の被造物は、分けへだてなく生をうけ、自然の恵みをひとしく享受し、同じ能力を行使するからである。すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえないということは何よりも明瞭だからである。------したがって本性上、平等である他人からできるだけ愛してもらいたかったら、彼らに対しても全く同じ愛を与える自然の義務がある。われわれと、我々自身と同じである人々との間のこの平等な関係から、自然の法として働く理性がどのような種々の規則や規範を生活の指針として引き出しているかについて、知らない者は一人もいないのである。」(3)>と述べている。このように自然状態には、これを支配する一つの自然法があり何人もそれに従わねばならないとしている。この法たる理性は、それを捉えようとするならばすべての人間は平等かつ独立的であるから何人も他人の生命・健康・自由または財産を傷つけることはできないのである。
そしてロックは「しかし、これは自由の状態ではあるが放縦の状態ではないし、その状態のもとでは人は自分の身体や所有物を処分する何の制御を受けない自由をもってはいるが、しかし自分自身を、また自分の所有するどんな被造物をも、それを単に保存する以上の何かもっと立派な用途に役立たせるのでないかぎり、これを殺すという自由はない。自然の状態にはそれを支配する自然の法があり、それはすべての人を拘束している。そして理性こそその法なのだが、理性にちょっとたずねてみさえすれば、すべての人は万人が平等で独立しているのだから、だれも他人の生命・健康・自由・あるいは所有物をそこねるべきではないということがわかるのである。------そして万人が他人の権利を侵したり、相互に危害を加えたりすることのないように、そして平和と全人類の保全を願う自然の法が守られるように、自然の状態においては自然の法の執行は各人の手に委ねられている。------この完全に平等な状態では、本来、ある人が他の人に対して優越したり支配権をもったりすることはないのだから、自然の法の施行にあたってだれかがしてよいことは、すべての人が同じようにする権利を必ずもつことになるからである。」(4) と述べている。
このようにロックの自然権は、人間生活の基礎でもあり目的でもある人間の生命それ自体であるとしている。さらにロックは「すでに明らかにしたように、人間は生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、すなわち世界中の数多くの人間と平等に、完全な自由を所有し、自然の法の定めるすべての権利と特権を、抑制されずに享受する資格を与えられている。したがって人間は、自分の所有物、すなわち、生命・自由・資産を他人の侵害や攻撃から守るための権力だけではなく、また、他人が自然の法を犯したときには、これを裁き------処しうるという権力を生来もっているのである。」(5)と述べている。われわれ人間は、衣・食・住を基本としながら人生を生き続け住宅に住み・食物を食べ・衣服を着ること等々の生活をすることで身体に対する危害からまもられる必要があるし、自分たちに独自な人間的で個人的な諸力を自由に発展させる必要がある。われわれ人間には、すべて人間らしく生きてゆく権利があるという人間的な価値意識に基づいて、価値意識とその人の生活とあるいは行為とは直接的につながっている。この場合その人の行為は、それ自体が目的であって何らかの目的を実現するための手段ではない。しかし、またわれわれ人間には、人間らしく生きてゆける社会を求めることや、あるいは社会を作り変えなければならないというような欲求もある。
こうした人間的な見方や考え方は、価値意識に基づく価値判断にしたがってのそうした世界観にもとづく行為をすることになる。われわれは、ここに歴史的に形成されてきた人民主権の思想を見出すことができるだろう。そのことの意味内容は、すべての人間は平等であって譲り渡すことのできない権利としての人権思想であり、そしてその思想の根幹をなすものとしての人間の自由と平等という思想である。自然権の思想は、理性的な本性を持つ人間の社会であるとする自然法の見地から出発しての人民主権の原理を唱えたものである。それは真の意味での政治において、法の支配が実現されるためには多数の人々による議会政治を求めたことである。そしてその思想は、人間の生命・自由・平等・財産の保障にあるとする基本的な人権の思想的原理を理論化したことである。このようなことは、民主主義的な政治制度の原理を定式化し、名誉革命の基礎づけを与えたことでもある。そしてこの思想は、後世の民主主義的な思想へと引き継がれることでアメリカ独立宣言に結実し、やがてフランス人権宣言にも大きな影響をあたえたものであった。
このようなロックの自然権の思想は、社会や政府に関する超自然主義的で人間性を無視した理論の宗教的な装いや神秘性を論破するための大きな一歩であった。それは人間の生命・自由・平等・財産の保障にあるとするイデオロギーに関するどのような理論も基本的な事実を反映せざるをえないということを強調している。つまり、人間とその必要性こそが、生活と思想にとってもっとも現実的で重要な要素だと言う基本的な事実である。自然権の思想は、人間は生まれながらにして自由・平等であり、譲り渡すことのできない権利を持っていることに帰着する。そのことの意味は、人間の権利ということであり生まれるということ生きるという事実こそが、人間に次のような諸権利であると主張する。すなわち、その権利とは、譲り渡すことのできない権利・授与することも廃棄することもできない権利・変更することも絶滅させることもできない権利・売買することもできない権利である。これは極めてラディカルで影響の大きい主張である。そして各人が、一人の人間として数えられ一人の人間以上に数えられないことの意味を捉えることにある。ここにおいて各人は、一人の人間として人間らしく理性的に生きてゆくことが求められている。
人間にとって最も大切なのは、生命でありその生命を抜きにしては他のあらゆる諸権利や諸価値について考えることは不可能であるだろう。すべての人間は、充実した生活を営み天寿を全うする権利を持っている。人間にとって最も本質的なことは、尊厳のある生活を送り生きる権利を楽しみ自らの生存そのものが脅やかさられることのないことである。各人の自由と平等の行為は、その生きる権利を追求するすべての人間の平等に寄与し、また不平等を助長しない限りにおいてのみ、自らの人間としての平等と生命の尊重を要請することが許されるのである。他人の生命と自由平等の権利の尊重があってこそ、自らの自由を追及することが許されるのである。われわれ人間は、他人の生命を尊重することなしに自らの基本的人権を主張することが許されないことは自明のことである。他人の生命を尊重することで、始めて自分の基本的人権というものが生じてくるからである。しかし基本的人権は、人間が事実として持っているものではないし、それは人間の生命の絶対性を認めるという価値判断の基礎の上に始めて成り立つものである。だから人権の主張は、同時に他人の人権をも重んずるという義務を伴うものとなるであろう。
【参考文献】
- 注(1)J・Jルソー著、平岡昇訳『社会契約論』中公バックス世界の名著36巻 中央公論社 昭和53年p.232
- 〃(2)J・Jルソー著、平岡昇訳『エミール』中公バックス世界の名著36巻 中央公論社 昭和53年p.491
- 〃(3)J・ロック著、宮川透訳『統治論』中公バックス世界の名著81巻「ロック・ヒューム」中央公論社 昭和57年p.194
- 〃(4)同上書p.196
- 〃(5)同上書p.245