カントにおける人間的自由(5)

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 われわれ人間が認識(Erkennen)するものは、現象にすぎず空間性と時間性とをはなれた物自体(Ding an sich)ではないのである。カントによれば「人間の認識には二つの根幹がある、恐らくこれらの根幹は共通ではあるが、しかし我々には知られない唯一の根から生じたものであろう、この二つの根幹というのは即ち感性(Sinnlichkeit)と悟性とである、そして感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられる」(1)と述べている。感性と悟性とは、あらゆる認識作用の二つの主な要因である。この人間の感性は、認識能力の受容性であり、悟性(Verstand)はその自発性である。それのみがわれわれに直観を、供給するところの感性によってわれわれに対象が与えられ、概念を形成する悟性によって対象が思考されるのである。実践理性の批判の課題は、理論的理性の批判とは本質的に異なり、それはほとんど正反対である。カントは、実践理性批判で実践的な純粋理性が、存在することを論証している。そして純粋理性においては、実践的な能力の全体を余さず批判するのである。このことの意味は、純粋理性が実践的であり得ることを、証明されたのである。この理性は、かかる実践的な能力と共に先験的自由も、確立されるのである。しかもこの自由は、絶対的な意味において確立されるのである。

 カントによれば、絶対的意味において自由(dir Freiheit)を必要としたのであり、その意味でしか定立することができなかった。「神および不死という二概念の可能性は、自由が現実的に存在するということによって証明されるのである。自由の概念が道徳的法則によって現実的に開示されるからである。」(2)と述べている。神・自由・不死という三つの概念は、これをア・プリオリに知っている唯一の概念である自由が、われわれの知っている道徳的法則(Sittengesetz, moralisches Gesetz)の、条件をなすものである。そして神と不死という二つの概念は、いずれも道徳的法則の条件をなすものではなく、われわれの純粋理性を実践的にのみ使用する場合において、対象の条件をなすにすぎない。理性の実践的な使用において理性が関係するのは、意志を規定する根拠である。この意志(der Wille)は、表象に対応する対象を産出する能力であるのか、さもなければ意志の原因性を規定する能力であるか、二つのうちのどちらかである。したがって、考察の対象となるものは、理性ではなくて原因性を規定する意志である。この意志は、対象に対する関係する理性ではなくて、この意志とその原因性とに対する関係における理性であり、自由に基づく原因性の法則なのである。

 実践の世界では、直接的で内在的な仕方でその確実さが、真理を証明することになる。だから、実践の世界で問題となるのは、理性と外的事物との関係ではなくて内的なものの原因性と、意志との関係である。自由についての一般的な見方は、或るものからの何々をする自由を表するものであり、消極的意味における自由であるとされている。だがしかし、自由の積極的な意味は、或る状態のものを自ら始めるための自発性を、持ってはじめる能力である。経験的な意志は、われわれの一切の傾向性にまったく係わりがなければ、その場合の意志は、消極的な意味での自由である。また純粋意志は、絶対的な自発性を持って自分自身に道徳的法則を与え得るということは、積極的な意味における自由である。この意志の自律(Autonomie)は、意志が一切の経験的なものと一切の傾向性を排除し、絶対的な自発性を持って自分自身をも、規定することである。だから、道徳的法則は、これに従う意志を規定して行為することが、すなわち、意志の自律である。これに反しては、意欲の対象が意志を規定することは、意志が何にもよらず道徳的法則よりも、他の何か或る物によって規定されると、意志の他律が生じるのである。

 義務の(die Pflicht)神聖性は、一個の理念でわれわれ人間には完全に到達することは不可能であってだから義務は、人間にとって神聖なのである。われわれは、不断の努力によってのみ神聖性へ接近することができるし、また、近づかねばならない道徳的な課題である。義務の概念は、行為する者にとって道徳的法則(Sittengesetz, moralisches Gesetz)に一致することを、そして、行為する者の意志が道徳的法則に従うことを要求する。さらに、行為する者にとって義務は、行為する意志の格律(Maxime)であって、道徳的法則に一致せねばならないと言う必然性の意識である。この道徳的必然性は、われわれに対してかかる一致への要求や強制を意味するから、義務はかかる要求であるか、または強制の意識である。そして人間としては、不完全にせよ道徳的法則と一致する行為が、義務的な行為なのである。この場合において人間は、見たところ義務に適法的な行為と義務に基づいて行為することとは、本質的に異なるものである。その行為が適法性ならば、傾向性が意志を規定する場合においても、見出され得るのである。なお義務の意識から生じた行為は、義務的な行為をも義務の概念の中へ、併せ含めることがある。行為する者にとって義務は、最も重要な道徳的な概念である。行為の道徳的価値は、その行為が義務に基づいて試されたか否かに、係わっているからである。

 われわれ人間は、道徳的判断を迫られた場面において、自然法則や傾向性と異なった自発的な判断と、行為をなすことが出来る。カントは、このようなことを理性的な事実と捉えることでそこに自由の法則が、あることを主張するのである。自由の法則とは、端的に言って道徳法則であると言うことが出来る。自由(dir Freiheit)についてもう少し詳しく言えば、道徳法則の存在根拠ということであり、道徳法則は自由の認識根拠と言うことである。すなわち人間は、道徳法則を純粋実践理性と純粋意志により、意識することによって意志(der Wille)の自律を確保しており、そうすることによって自由が叡智界を、認識しているのである。この実践的な認識は、即時的な行為に移されることであるし、これが尊厳ある人間としての所以である。ところで道徳的法則の主体は、他ならぬこの人間であり、もっと正確に言えば人格としての理性的な、存在者である人間なのである。人格的な人間とは、道徳的法則と自分自身の内的意志との一致を期する理性的な、存在者そのものである。われわれ人間の尊厳は、常に人格だけに関係するのであって直接的に物には、かかわらないのである。ここで人格の概念について一言すれば、物は手段として使用されるが人格としての人間は常に目的自体であり、手段としてみなされてはならない。こうした人間の人格は、個人によって異なるものではなくすべての理性的な存在者に、妥当するところの普遍的な概念なのである。

 道徳的法則と自由は、この関係について吟味するに道徳的法則の概念が、純粋実践理性の全体系の要石をなすものであり、すべては、この概念を分析するところにある。そして、道徳法則と自由の概念は、必然的かつ不可分離的な関係にあり、どちらかを単独に吟味することは、不十分な結果を招くことになる。ところで、自由の概念とは、例えば何かある圧迫から解放されて自由になったというような、心理学的な自由観を意味するものではない。純粋実践理性における自由は、常に先験的自由であり、経験的な自由とはまったく異なるものであり、こうした自由はもともと一つの理念である。それだから、感性的な直観は、人間の直観と常に感性的である対象ではなく、認識の対象ではない自由に対応するようなものは、経験において決して見出され得ないのである。われわれ人間は、先験的自由を直接的に意識することは出来ないのであって、自由を知るには道徳的法則を、介さなければならない。もし先験的自由が存在しないとしたら道徳的法則は、われわれの内に見出され得ないだろうし、また道徳的法則が自由よりも前に明確に考えられていないとしたら、われわれは自由を想定することが出来ないだろう。

 このように自由(dir Freiheit)は、道徳的法則の存在理由とするところの存在根拠であり、そして道徳的法則は自由の認識根拠を、なすものとする所以である。このように、道徳的法則と自由とのあいだには、各々の相互関係あるいは相互依存関係をなしているのである。道徳的法則は、いわば純粋理性の事実としてわれわれに与えられているのであって、われわれはこの事実をア・プリオリに経験的には関係なく、意識しているのである。またこの事実は、たとえ道徳的法則が厳格に選別された実例を、われわれが経験において一つも見出し得ないにせよ、それは確実なのである。このように、道徳的法則の客観的な実在性は、それ自身だけで超感性的な世界において、確立されているのである。そのことの意味において道徳的法則は、もともと純粋理性が自分自身に与えた法則だからである。それにしても、道徳法則と自由との関係は、ただ概念的に理解するだけでは不十分なものであり、われわれはこの不可分離的な関係を、実践的に理解する必要がある。われわれを取り巻くすべてのものは、自然や社会の法則に従っているのであって、法則を理解することによってわれわれ人間は、自由を獲得するのである。

 つまり、われわれ人間は、自らの生き方を決定する意志(der Wille)に基づく完全な自由を本質とするものであり、その意味において人間の本質は、自由であると言うことができる。このように自由(dir Freiheit)は、人間の意識において様々な意味内容を与えて使用されるが、社会的自由と精神的自律としての人間的な、自由とであるといえる。このようなカントにおける自由は、現世を超えた叡智界の想定された道徳的意識とのみ結びついたものであり、われわれはこの点においてカント哲学に、制限性を見るのである。カントの自由論から継承し発展させるべきものは、自由が道徳的法則という確たる法則にもとづく、としているところにある。つまり、人間が自由であるのは、自然や社会において必然性に規定された場合でのみ、一定の目的の法則的な体系における主体として、われわれが行為するところにある。つまり自由は、価値の問題でありわれわれ人間の行動を根本的に規定している、価値の体系を捉えることである。それは世界観であり、そこに人間の主体性が発揮されるのである。この自由の体系は、価値体系の人間性を含んだ実質的なものであり、それは形式的な道徳法則よりはより豊かなものと、考えられるからである。              



【参考文献】

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