斎藤茂吉とダニ・シラミ

博士後期課程 小泉博明

 シラミといえば、敗戦直後にシラミの防疫対策として、児童の頭髪にDDTの薬剤を散布した光景が浮かんでくる。しかし、現代においても、シラミが児童の頭髪に発生し話題となっている。さて、茂吉は、ダニやシラミに誰よりもこよなく愛され、(彼女ら)と共に一夜を明かした。それは茂吉の体質というか、体臭によるものであった。

   真夜中にわれを襲ひし家ダニは心 らひて居るにやあらむ
(『暁紅』昭和10年「漫吟」)

 この歌には、茂吉の家ダニへの強烈な憎悪と同時に、満腹となった家ダニに対する愛惜や、諦念の情を感じることができる。

 茂吉には、ヨーロッパ留学中に『南京蟲日記』がある。南京虫とは、トコジラミのことで、刺咬されると、激しいかゆみが生じ、赤い痕跡が残る。茂吉は、1923(大正12)年7月にウィーン大学からミュンヘンへ移った。しかしながら、南京虫に食われ、南京虫に懊悩し、転々と次の下宿を探す日々であった。同年8月の日記から、茂吉と南京蟲との悪戦苦闘の様子を記す。

  八月二十一日。火曜。(略)
  けふからは自分の部屋に寝るのである、さう思って私は軽い睡眠薬を飲んだ。さて暫くまどろんだと思ふ時分に頸の處に焼けるやうなかゆさを覚えて目を覚ました。私は維也ウインナ以来の屢の経験で直ぐ南京蟲だといふことを知った。困った困ったと思ったが、辛抱して三十分餘りかかって大小二匹の南京蟲を捉へ、それを紙に包んで置いて、日用品だけ大急ぎで調へ、日本媼の處に逃げて来た。(1)

  八月廿五日。土曜。(略)
  然るにこの床でも忽ち南京蟲に喰はれた。私は餘りいまいましいので、直ぐ日本媼のところに逃げ帰らうとしたが、夜が既に更けてゐるし、度々南京蟲のことを訴へるのは自矜を害されるやうな気もするし、忍べるだけ忍ばうとした。私は三時半まで起きてゐ、二たび寝て大小数匹の南京蟲を捕へ、碌々眠らずして一夜を明かした。 (2)

 茂吉は、下宿の行く先々で南京虫に惚れられた。文中の「日本媼」とは、ヒルレンブラントのことで、彼女は、ランドウェル・シトラーセ街通りに4階建てのビルを持ち、4階の4間を日本人留学生に下宿させ、日本人の世話をよくした。彼女は日本を訪問した経験があり、日本人留学生と結婚し、男子を生んだ。ミュンヘンでの茂吉は、南京蟲の来襲だけではなく、実父である守屋伝右衛門の訃報、関東大震災による青山脳病院の被害、その結果、財政逼迫による、養父紀一からの帰国命令などの艱難が続いたのであった。
 さて、家ダニをよんだ歌が次にある。

    いえ だに に苦しめられしこと思へば家蜹とわれは戦ひをしぬ
(『暁紅』昭和10年「晩秋より歳晩」)
とうとう、ダニを抹殺するための宣戦布告である。さらに、続く。

 辛うじて二つ捕へし家ダニを死刑囚の如く吾は見て居り
(『暁紅』昭和11年「遠雲」)
 「死刑囚の如く」という表現はあまりにもリアルである。しかし、茂吉にとって、このような表現をする以外に無いほどの、ダニとの戦いであったのである。

 飼ひおきし猫棄てたりは家ダニを恐れしほかの理由ゆゑよしもなし
(『暁紅』昭和11年「初冬」)
 これは、現在の動物愛護の精神からすれば、非難される行為である。

 家ダニが蜘蛛類ならばわれの撒くDDTも甲斐なからむぞ
((『つきかげ』昭和25年「好新年」)
 この歌は、老境となるが「甲斐なからむぞ」とは、言いつつも、DDTの効果への期待が読みとれる。ダニ類は、節足動物門クモ綱ダニ目に分類される。ダニの歌を見ると、茂吉の憤怒の激情が見てとれる。さらに、ダニ撲滅への執着心は茂吉の性格を物語る味わい深いものである。
 さて、最後に小生の駄作を記す。

  スリッパで仇を討たんゴキブリを死刑囚の如く吾は見て居り


【参考文献】
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