トルストイに見られる人間の生き方

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 ロシアの文豪トルストイ(1828―1910)は、自らの経験に基づく戦争観と人間の在り方に関する考察を主著である『戦争と平和』の中で結実させた。そして、人間の生き方と生命についての定義を、吟味するとして哲学的な著作である『人生論』が書かれたのであった。トルストイは「すべての人は、ただ自分の生活をよくするために、自分の幸福のためだけに生きている。自分の幸福に対する希求を感じない時------その時人は、自分を生きているものとも感じないのである。人は、自分の幸福を望むことなしに人生を考えることは出来ない。各人にとって、生きることは、取りも直さず幸福を望むこと、幸福を得ることに外ならない。幸福を望むこと、幸福を得ることは、取りも直さず生きることに外ならない。人はただ自分のうちにのみ、自己個人のうちにのみ生命を感ずる、故に、人には先ず、自ら望む幸福は、專ら自分一人の幸福であるように考えられる。」(1)と述べている。このように彼は、人間の生き方として自らのより良い生活と幸福を希求している。

 だがしかし、その内的意味は、人間の生き方と他者との関係において多分に利己的で、逆説的な意見を展開している。厳しいこの世の中では、自らが自由に幸福を求めて生きることが困難であり、自らの幸福を求める思想というものは、自分だけが幸福を求めて生きられれば良いというような、狭い意味のものではない。もちろん、われわれ人間の幸福は、自分自身のものに違いないが、しかし、この世で日常生活を続けるには各人は一方において互いに矛盾する面を持ち、他方において互いに相互扶助の関係で、結ばれているのである。自己の幸福を希求するには、最初は自分の利益から出発しても他人の利益をも守るという立場へ転化しないかぎり、われわれは自分の幸福を最後まで実現することは、到底できないのである。各人の自由と幸福を求める行為は、その幸福を求めるすべての人間を助長しない限りにおいてのみ、自らの人間としての幸福を求めることが許される。他者の自由と幸福を共有し容認してこそ、自らの幸福を追及することが許されるのである。

 われわれ人間の生活は「幸福に対する希求である。幸福に対する希求即ち生活である。万人は生活をかく解して来たし、現在も解しているし、将来も常にかく解して行くであろう。故に人生は、人間的幸福に対する希求であり、人間的幸福に対する希求即ち人生である。そして大衆は、思索を持たない人々は、人の幸福はその動物的自我の幸福にあるものと解釈している。誤れる科学は、人生の定義から幸福の観念を抜き去って、人生は動物的生存のうちにあるものと解釈している。したがって、人生の幸福を動物的幸福のうちにのみあるものと認めて、大衆の迷誤と一致している。何れの場合に於いても、かかる迷誤は、自我、科学の所詮個性を合理的意識と混同するところから生じるのである。合理的意識はそのうちに自我を包含しているが、自我は、そのうちに合理的意識を包含してはいない。」(2)とトルストイは述べている。われわれ人間の持つ動物的な自我は、動物としての人間の本性であり人間以外の動物は、ただ本能のままに生きるのである。だから、人間の本性は、合理的な意識に基づく理性的な人生を探求する、ものでなくてはならない。

 トルストイは「動物は、自分の自我を満足させ、無意識にその種族に奉仕し、自分の個性であることを知らない。然るに、理性ある人間は、ただ自己の肉体のためのみに生きることは出来ない。彼がそんな風に生きることが出来ないのは、自分が個性であることを知って居り、他の存在もまた自分と同じ個性であること、また、これらの個性と個性との関係から生じなければならぬ一切のことを知っているからに外ならない。もし人が、ただ自己一身の幸福のみに専念して、ただ自分だけ、自分の自我だけを愛しているのだったら、彼は、他の存在もまた同じく、自分自身を愛していることを、動物がそれを知らないと同様に、知らなかったらに違いない。」(3)と述べている。ここにおいてトルストイは、理性的な人間の生き方として利己的な、あり方を否定している。われわれ人間が、動物的な本能のままに生きることは、理性ある人間のすることではないし、合理的な意識に基づく幸福を希求することが出来ないだろう。そして、自分自身だけの幸福を希求することは、各人の生活は最早個人的な幸福を理念とすることのうちに、存し得なくなるのである。

 トルストイは「ただ人には、時として、幸福に対する彼の希求が、動物我の要求満足を目的として持つように考えられることがある。この誤りは普通、人が、自己の動物我内に発生したことを、その合理的意識の活動の目的と見做すところから生じるのである。」(4)と述べている。つまり、人間の幸福に対する希求は、動物のように本能のままにあるのではなくて、理性的な人間として自己の幸福実現を目指した他者のそれをも、共有するものなのである。このような認識は、人間のうちに自我と合理的な意識とのうちに、混同が生じるのである。しかし、合理的な意識は、常に人間に向かって各人の動物的な本能に基づく要求を、満足させることは人間の幸福や生活では、ありえないことを示している。人間の真の幸福とその生活とは、動物的な本能に場所を持たないところの生活の方へ抑えがたく、惹きつけるのである。一般的に世間では、自分自身の個人的な幸福を否定することは偉業であり、人間の美徳であると考えられている。しかし、個人的な幸福を否定することは、美徳でもなければ偉業でもなく、むしろ人間生活の不可避的な条件であろう。

 トルストイは「人は自分を、全世界から切り離された一個人として意識すると同時に、他の個人をも全世界から切り離された一個人として認識し、彼ら相互の連繋を認め、自分の個人的幸福のはかなさを承認し、ただ彼の合理的意識を満足せしめ得るような幸福にのみ唯一の実在性を認めるのである。」(5)と述べている。われわれ人間は、我々を取り巻く自然や社会のなかで人間の本質である自由と幸福を求めて、日々の生活のなかで生きているのである。自由と幸福を目指す人間の行為は、自分自身の幸福達成に向けられる人間の活動と、他者の各々の行為を認めることで自己の行為も、認められるのである。われわれ人間の日常生活における人間の行為は、個々バラバラに生きている様うであるが社会的な生活過程においては、相互依存関係のうちにある。しかし、人間にとっては、自我はただ彼の個人的幸福とは一致しない生活の真の幸福が各人に示されるところの生存の、或る段階であるに過ぎない。われわれ人間は、自ら人間らしく生きると同時に他者の生存に対しても認め合い、共生してゆくということが求められているのである。

 トルストイは「わたし達は、人生を、世界に対するある関係として以外に解することは出来ない------わたし達は、自分のうちの生命をかく解すると同時に、他の存在に於いてもかく解するのである。しかし、わたし達が自分のうちの生命を理解するのは、概に世界に存在する関係としてばかりでなく、理性に対する動物我の従属を益々大にすることと、愛の表現の程度を益々大にすることによって、世界に対する新しき関係を建設することとしてである。」(6)と述べている。われわれ人間は、我々を取り巻く世界である自然や社会において衣・食・住という日々の日常的な社会生活を通じて生きているのであって、その関係を無視して動物的な本能のままに生きてゆくことは、出来ないのである。だからして、合理的な意識に基づく人間らしい理性的な生き方が、求められているのである。われわれ人間が、自らの幸福な人生を求めて生きることは、理性的な生き方であると同時に、善なるものとしての人間の生き方とも、合致するものである。

 トルストイは、われわれ人間の生き方としての幸福な人生を望むことは、善に対する希求にあると捉えている。だから、その人生の意義は、善に対する努力することのうちにあるとして、善こそが人生の目的であって人間は皆この目的に向かって、生きなければならないと言うのである。そして彼は、善なる愛によってその目的を達成することが、出来ると言うのである。ではその愛とはどのようなものであるのかについては、それは人間的な理性の活動であるとしている。すなわち、各人の理性的な活動である愛によって、善なる目的に向かって努力することこそが、これを彼は人生としたのである。この根本思想に基づく彼は、この目的から離れたものは如何なる思索も考察も、価値あるものとはしないのである。そして、基本的な人生の意義については、虚偽の科学や偽なる宗教を批判し個人的な幸福と真の幸福との差異を論じることで、動物的な生存と人間的な合理的な生活との相違を解明して、人間は理性に従って生きなければならないとしたのである。すなわち、われわれは、個人的な生活や動物的な生活をこの理性に従って、生きてゆくところに真の意味での人間の生活のあることを、強調しているのである。

 そして、トルストイ思想の最も特徴的なところは、その目標を人生における善なる行為のすべてを現実的なものとして、希求したことのうちにある。そして、その根拠となるものは、あくまでわれわれ人間が生きている現実社会においての、厳しい人間生活なのである。すなわち、トルストイは、自分の思索を単なる思想としてとどめることに満足しないで思想に基づく社会的な、実践であることを要求している。だから、愛について彼は、常に善である愛は未来にあるのものではない。従って愛は、現実社会における活動である現在の行為において愛を現しえぬものは、愛を持たないものであるとしている。かくして、彼の思想的な結論は、人間は自分自身のためにのみ生きるのではないのであって、自己の幸福のみを理念として生きることを否定し、他者のための幸福をも理念として生きなければ、ならないとしたのである。各人が互いに自己自身の幸福のみを理念として生きる場合には、他者との間にその希望は互いに矛盾するから、到底幸福であることはできない。即ち、愛をもって理性の活動たる善は、全てのために生きるところに人生最高の目的があり、すなわち、最高善が存するからそこに始めて真の幸福を見出すのである。このような幸福観が、トルストイ思想の要点であるということが出来るだろう。


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