―悪魔の誘惑疑似体験―

文化情報専攻  櫻井 直美

 私はC・S・ルイスの『悪魔の手紙』を修士論文の題材にした。『悪魔の手紙』(The Screwtape Letters,1942)は1941年にイギリスの宗教新聞に連載された31通の書簡であり、翌年一冊の本にまとめられて出版された作品である。構成はスクルーテイプ(地獄の高官である老獪な悪魔)からワームウッド(スクルーテイプの甥で一人の青年を誘惑するために地上に遣わされた若い悪魔)への31通の手紙よりなっている。手紙はすべてスクルーテイプからワームウッドへ一方通行であるが、その手紙によりワームウッドや被誘惑者である青年の行動や魂の変化が語られる。何度も悪魔の手中に落ちかける被誘惑者の青年は、最後に死を迎えた瞬間、悪魔が〈敵〉と呼ぶ神のもとへ向かう。悪魔の視点による手紙なので善と悪の倒置が起こっている。

 その作品を修士課程在学中のほぼ二年間研究するうちに、非常に巧妙な悪魔の人間に対する誘惑方法を熟知するに至った。これは悪徳商法の手口を調べるうちに、巧妙な商法を見破ることができるようになったというようなものかもしれない。 私は論文執筆を進める過程でいくつものスクルーテイプの誘惑手口を疑似体験することとなった。たとえば、キリスト教の理解を深める為に、ある教会の主宰する「聖書勉強会」に参加したときのことである。勉強会の最後に祈りの時間が設けられていた。その祈りの内容を注意深く聞いていると、ふと胸が熱くなり神のイメージが心に沁みこんで来る瞬間を何度も体験した。祈りが終わり教会を後にして、外の空気にふれたとたんに現実的な思考となり、夕食の準備や雑用のことで頭が一杯になる。そして、祈りの後に感じた胸の熱さが払拭されるのであった。このことは、まさしく『悪魔の手紙』の第一信でスクルーテイプが助言している誘惑方法なのである。スクルーテイプが担当していた被誘惑者が、読書中に神の側へ思考作用が向かったとき、「そろそろ昼食の時間だ」と提案して危機を切り抜けた。「実生活という一服の清涼剤」の効果はてきめんで神の存在を深く考えることから簡単に遠ざかってしまうという誘惑方である。

 また、日曜日の過ごし方をめぐり「疲れているが家族の為にどこかへ出かけよう」と私は考える。「無私の精神」からせっかく出かけたのに家族がつまらなそうな顔をしているとがっかりする。一方、家族もそれほど出かけたいわけではなかったが、私が提案したのでそうしたと考える。このことは第二十六信でスクルーテイプが「えせ譲り合いゲーム」と称し、人間に憎悪を生じさせる手法としてワームウッドに薦めている。皆の為に「お茶の時間を庭で過ごそう」というような些細な提案から、「あなたさえよければ」、「君がそうしたいというのなら」という会話になり、双方とも激昂する。安っぽい自意識過剰な「無私の精神」の萌芽が「えせ譲り合いゲーム」としていたるところで展開され憎悪を引き起こすというものだ。

 日常生活の様々な場面で「あっ、悪魔の誘惑に陥りそうになっている!」と思うことが少なからずあるのだ。このことは修士論文執筆を通しての大きな収穫であったかもしれない。

 いや、もしかしたらこのように「悪魔の誘惑方法を熟知した」と勘違いさせる私の傲慢さが悪魔にとってなにより都合のよいものである可能性もある。いまごろスクルーテイプは私が悪魔の手中に陥るのは時間の問題であるとほくそ笑んでいるかも知れない・・・・・



総合社会情報研究科ホームページへ 特集TOPへ 電子マガジンTOPへ