カントにおける人間的自由(4)

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司

 J・ジャック・ルソー(1712―1778)は、現実の世のこの偽りの姿の根幹に真実の法則のあることを、そして腐敗堕落したこの世ではなくしていずれもの人間が等しく尊さを持ち、各人がお互いを認め合う自由と平等の秩序こそが、本当の人間の姿であることをカントに教えたのである。そのことの意味内容は、道徳法則の命ずるところの秩序であるといえるだろう。カントは、最高道徳について普遍性に注目することで、われわれ自身の行為することがすべての人間の、なすべき行為でなくてはならないとしたのである。われわれ人間は、現実の世界に生き快や幸福を求めながら、それをこえる高次のいわば神的な世界に、接していたとしたのである。高次の神的な世界とは、それは自然法則の支配する科学的な世界とは、異なった高い自由の立場に立ちうる存在であることを示した。この自由で高い立場は、真の人間を示したものでありこの世の快や幸福を、求める人間にむかって道徳法則と義務の命令は、下されたのである。この自由で高い立場は、それは人間の中での人間らしさであり、理性的な人間性が求められたものである。

 このようなことは、高次の人間の姿として照らし出された人格性をそなえた、より人間的なものとして捉えることができるだろう。そう言う高次の人間は、人間的な尊い立場と高い立場に立つことができる、存在であったのである。その限りにおいてわれわれ人間は、単なる物ではなくして絶対的な価値などの尊厳を持った人間こそが、道徳法則の担い手といえるのである。それ故にわれわれ人間は、人格と呼ばれ単なる動物や物とは、区別されるのである。道徳的法則の概念は、純粋実践理性の全体系の根本をなすものであり、すべてにおいてこの概念に関係している。しかし、また道徳的法則は、自由の概念と必然的かつ不可分離的に、結びついている。純粋実践理性における自由の概念は、それは心理的な自由観を意味するものではなく、常に先験的自由であり経験的な自由とは、まったく異なるものである。このような自由の概念は、元来一つの概念でありそれだから感性的直観の対象としてではなく、したがって、また認識の対象となるものではない。自由に対応するようなものは、先験的なものであって経験において決して、見出され得ないのである。

 このようなことからして、われわれ人間は、先験的自由を直接に意識することはできないのであって、自由を認識するには道徳的法則を、介さなくてはならないのである。したがって、先験的自由の存在を否定することは、道徳的法則をわれわれのうちに捉えることが出来ないことを、意味することになる。さらにまた、道徳的法則が、自由の前提であることを捉えることのできない考え方は、自由を想定することができない。それだからこそ自由は、道徳的法則の存在根拠であり、自由の認識根拠となりうるわけである。このように道徳的法則と自由とは、各々において相互関係あるいは相互衣存の関係を、なしているのである。だから道徳的法則は、いわば純粋理性の事実としてわれわれに与えられている。そして、われわれ人間は、この事実をア・プリオリに意識しているのである。またこの事実は、たとえ道徳的法則が厳格に吟味された実例を、われわれが経験において一つも見出し得ないにせよ、確実なのである。このように道徳的法則の客観的な実在性は、それ自身だけで超感性的な世界において、確立されているのである。

 道徳法則の内実は、それは道徳的にもともと純粋理性が自分自身にあたえた、法則だからである。それにしても道徳的法則と自由との関係は、ただ概念的に理解するだけでは不十分であり、われわれはこの不可分離的な関係を、実践的に各自の心に則して理解する必要が、あるように思われる。このような道徳的法則は、純粋理性が実践的であり得る理性と、意志とをかねそなえた法則に従って自分の意志と規定する能力を、有するような存在者である。すなわち、理性的な存在者には、例外なく妥当する客観的で普遍的な原則であり、かかる法則だけが純粋意志での、規定根拠なのである。そして、このような道徳的法則の意識は、われわれ人間の実践理性における事実として捉えることである。道徳的法則は、どうしてそれ自体だけで意志を直接に規定する根拠になり得るかということは、自由がどうして可能かというような意味と、同じことを示すことである。このようなことは、人間にはまったく解決し得ない問題であり、われわれはただその不可解性を、理解することしかできないのである。

 道徳的法則と格率は、なぜこのように対立するのかについては、われわれ人間が有限的で不完全な、存在者だからである。したがって、格率が直ちに道徳的法則でありえるような完全無欠の最高存在者である神には、格率はまったく無用なのである。われわれ人間は、決して常に道徳的法則に従って行為するものではなく、しばしば道徳法則に背こうとするのである。だからして、自分の意志と道徳的法則との完全な一致は、われわれ人間にとって永遠の課題なのである。カントは「しかし現実的な物の概念はすべて直観に関係せしめられねばならない、ところがこの直観は、人間にとっては常に感性的な直観でしかあり得ない、それだから対象は、物自体としてではなく現象としてのみ認識せられるのである。」(1)と述べている。しかし、現象における条件づきのものと条件との系列においては、無条件的なものは決して見出されえないから、もし条件の全体性という理性的な理念を現象へ適用するとなると、あたかも現象が物自体であるかのような仮象がそこから、不可避的に生じるのである。

 だからしてわれわれは、道徳的法則と自由との関係を明らかにしなくてはならない。われわれ人間の行為は、何かある意図を持って行為によって実現しようとすれば、必ずや意志の格率を立てねばならないだろう。だからして、道徳法則にもとづくこの格率が、道徳的であるか否かを吟味するには、これを道徳的法則と照合することでわれわれは道徳的法則を、直接に表象することになる。そこで実践理性の根本法則は、意志の格率がいつでも同時に普遍的な立法の原理として妥当するように、行為せよと求めるのである。仮定の問題として格率の形式が意志を規定するとしたらその意志は、どのようなものであるかと言う問題が発生することになる。これに対応する格率の実質は、その都度の事情に依存するから常に経験的で、あると言うことになる。したがって、意志の客観的な原理にはなり得ないことになる。意志が自由であるとするならば、かかる意志を規定する法則は、どのようなものであるかが問題となる。格率の形式は、理性によって表象されるから感性の対象であり、即ち現象ではないことになる。

 したがって、このような意志は、現象を規定する自然法則にかかわりがないが故に、自由な意志であり格率の立法的な形式だけに、従うことになる。もし意志が自由であるとするならば、かかる意志を規定するものは、法則の形式でなければならない。すなわち、道徳的法則の形式から自由を証明し、さらに意志の自由から道徳的法則の形式的であることを、証明するのである。道徳的法則は、有限的で理性的な存在者としてのわれわれ人間に対して、定言的命法であるとか無上命令という言葉で表現される。またこの命法は、命令方式の意味であり、意志の自由から道徳的法則の形式をとるのであって、ここにおいてもわれわれ人間の有限性が、前提されるのである。このような道徳法則の形式をとる一般的な命法は、仮言的命法と定言的命法とに区別されるのであるが、これらのことは真正な命法でなくして単なる実践的な、指定に過ぎないものである。定言的命法は、何々を行為すべきことによって表現されるが、この行為すべきことは人間の純粋意志における、根本的な事実である。そしてわれわれ人間は、道徳的法則を我々に何々をすべき行為と命じるこの定言的命法として、意識し行為をするのである。

 一切の経験的な意志は、われわれの一切の傾向性に全く関わりがなければ、その場合の意志は消極的な意味において、自由であるといえるだろう。また純粋意志は、絶対的な自発性を持って自分自身に道徳的法則をあたえるということは、積極的な意味における自由である。このように意志の自由には、消極的な自由と積極的な自由との二通りの自由の意味が、存するのである。その場合において純粋実践理性は、同時に純粋な意志であり、純粋な意志はまた自由な意志であり、この自由な意志がとりもなおさず、道徳的な意志である。そして、このような消極的な意味の自由と積極的な意味における先験的自由は、道徳的法則の条件をなすのである。この道徳的な意志は、因果に関係なく自由に自分により決められるのである。最高善の概念は、規定する際に生じる純粋実践理性の弁証論に関して、われわれは注意が必要である。カントは「道徳法則は、純粋意志の唯一の規定根拠である。しかしこの法則は、まったく形式的であり、意志の規定根拠として一切の実質を、従ってまた意欲の一切の客観対象を無視する。」(2)と述べている。

 ところで最高善は、純粋実践理性すなわち純粋意志の対象のすべてであるにしても、しかし、それだからといってこの最高善を意志の規定根拠と、みなしてはならないだろう。意志の規定根拠について、カントは「意志の規定根拠は道徳的法則だけであり、この法則のみが最高善とその実現あるいは促進を、自己の対象たらしめる根拠とみなさねばならないのである。」(3)と述べている。ところで最高善の概念のなかには、道徳的法則がすでに包含されているならば、最高善は純粋意志の対象であるばかりでなく、最高善の概念と最高善の実在の表象である。すなわち、われわれの実践理性は、これによって可能な実在の表象が同時に純粋意志の規定根拠となることは、自明の理である。そうすれば意志の自立の原理は、これに従って意志を実際に規定するのは、かかる最高善の概念のなかにすでに含まれ、また、この概念とともに考えられている道徳的法則であって他のいかなる対象である、意志でもないからである。カントは「意志規定に関するこの両概念(道徳的法則と最高善)の順序を無視してはならない。」(4)と述べている。この順序を取り違えると調和を、保てなくなるとされている。            



【参考文献】

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