異文化教育としての日本語教育
―unlearn とunteach―
『ビルマの竪琴』を事例として・その2

博士後期課程 稲村 すみ代

(承前)
 「ビルマ仏教においては僧侶が音楽に関わることは破戒行為である」とは、竹山道雄の原作発刊時から指摘されてきたことだった。水島上等兵が復員兵たちに書き残した手紙によれば、日本に復員する井上部隊との別れの前に、水島は正式に僧侶になっている。その別れの時、水島は「仰げば尊し」を奏でて、「帰るわけにはいかない」という心中を吐露する。しかし、正式な僧侶であるならば、人前で竪琴を弾くことはあり得ない。戒律を破ったことになるのだ。竹山が想像でビルマを書いたことは、小説作法として責められはしないのだが、この決定的な部分だけは、書き直したほうがよかったと思う。ビルマの人々にとって、この部分は「ビルマ仏教への冒涜」になるからだ。これを市川崑監督は知っていながら、あえて、二度の映画化にあたっても、変えなかった。それはなぜなのか、私は知りたく思った。どうして水島は最後に自分自身で竪琴を奏でなければならないのか。
 原作では、水島は肩の上にオウムをのせて連れ歩いているとなっていたことについて。リメイク版の映画では、水島が連れているビルマ人少年がオウムを肩にのせて歩いていた。 「出家者は、鳥や動物を肩にのせたりしない」という点については、ビルマ仏教文化を考慮したことが伺える。水島が最後に仲間の前で「仰げば尊し」を奏でるシーンにおいて、市川崑がどうしても水島自身に竪琴を演奏させなければならないと感じたのは、「死んでいった人たちを、私自身は忘れずに供養を続ける」というメッセージを、水島自身が伝える、ということを画面に示したかったからだろうと思う。だったら、水島の正式な得度出家時期を日本軍との別れのあとにするという脚色も可能だったのではないのか。映画的な脚色として、正式な僧侶になるのは、部隊と別れてから、ということにしてもストーリーの大きな変更とはならないはずなのに、そうしていないのは、脚本家も監督も「ビルマの僧にとって、音楽は破戒である」ということが問題として意識されなかったということになる。
 1956年の第一回映画化後も、この「破戒僧」問題は批判が続いた。市川監督自身、この問題の処理にはいろいろな策を考えたのだろうと思う。「お別れの竪琴を弾くシーンのあとに得度する」という脚色をすることを、市川が考慮したことがあったのかどうか、リメイク版脚本執筆の過程を記した市川のメイキング記録などがあるなら、読みたいところだ。

 1985年リメイク版を観たとき、1956年の映画を観たときには気付くかなかったことが、いくつか、私には気になった。画面をみて、すぐに「あ、このロケ地はミャンマーではなくてタイだな、この石造りの寺院もタイのお寺だな」とわかった。2005年にタイへ行き、アユタヤの寺院などを見たせいもあるだろうし、ここ数年、続けてミャンマーからの留学生を受け持ち、ミャンマーとタイの文化風俗の差について詳しくなった、という理由もあるだろう。たとえば、水島上等兵が僧侶になって着る僧衣は、タイ仏教式の着付け方であり、ビルマ僧の着付け方ではない。ミャンマーの人がみれば、「このお坊さんのふりをしている人は、タイから来たのか、それともどこかの部隊からの脱走兵なのか。少なくともビルマ人ではない」と、すぐにわかるらしい。すぐに脱走兵とわかる水島の僧衣であっても、食べ物を寄進するほど、ビルマの人々は深く仏教に帰依している、ということもできるし、並んで托鉢に歩くお坊さんたちがそろって「タイからやってきた、タイ式着付けのお坊さんの集団」であっても、やはり自分たちの食べ物を削ってもお坊さまたちに米でも野菜でも報謝するだろう。
 このように信心深いビルマの人々を描くにあたって、原作と映画で描き方が異なっていて、不満な点がある。1956年版と1985年リメイク版の両方に同じ役で出演している唯一の人、北林谷栄。彼女は、カタコトの日本語ができるビルマ人老婆の役で、井上部隊に野菜やバナナを運び、物々交換で靴下やナイフなど、日本製の品物と取りかえる。この老婆の映画での描き方も、ビルマの人々にとっては、残念に思われる人物像なのだ。老婆が日本兵と取りかえた日本製品は、ビルマでは高額で売れるものばかり。野菜やバナナはただ同然。交換風景だけを映画にしたなら、老婆はあこぎな商売をしているように、ビルマ人には見えてしまう。
 原作では「ビルマ人は、少しでも余裕があれば、お寺に寄進します」と書かれていて、この老婆も持ち金はお寺に寄付するとある。

「このばあさんは、信心深いビルマ人の中でもことに信心深い人でした。日本軍の御用商人のようになってずいぶんもうけたはずなのに、それをみなお寺に寄付してしまって、自分はいつも貧乏でした。」原作(新潮文庫版)

 しかし、映画では、老婆がもうけた金をすべてお寺に寄進してしまうところは描かれていなかった。映画は、この「ビルマ人婆さん」の姿を「ただのがめつい商売人」に脚色したことになる。市川がそのようなことはまったく気にしなかったのか、考慮した上であえて無視したのか、私にはわからないことであるけれど、せっかくビルマと日本をつなぐ映画となる可能性があったのに、このままではビルマの人には見てもらえない映画になってしまっていることは残念だ。老婆は、ただ金儲けのために売り買いをする、がめつい商売人に見え、ビルマ人からみると「ビルマ仏教文化への侮辱」に感じられるという。商売をして儲けがでたら、自分が食べるためにとっておくほかは寺院へ寄進する、というのが伝統的なビルマ人の生き方であり、自分だけがうまいものを食べたり、よい服を着たりしたところで、そんなことは軽蔑の対象になるだけで、まわりの人から尊敬されない。回りの人の尊敬を得られなければ、生きていても無意味であり、幸福な人生とは言えない。北林谷栄が演じた老婆の描かれ方は、ビルマの人々にとっては、「あのような人がビルマ人の代表のように思われたら恥ずかしい」と、感じてしまうらしい。せめて、1シーンでもいいから、老婆がお寺でお坊さんに寄進するシーンを入れて欲しかった。もちろん、ビルマ人のなかにも「がめつい人」、「したたかな人」はいるにちがいない。しかし、ビルマ人にとって「仏教精神をもって生き、一生を利他の心ですごす」のが自己イメージなのだ。
 ビルマ人の生活やビルマ精神を反映できる程度には「ビルマ仏教文化」を画面に映して欲しい。ビルマ人の生きかたを誤解させてしまうのであれば、せっかくビルマを舞台にした映画を撮影してはいるのに残念なことだ。
 酒井直樹(2007)は、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956, 1985)における日本軍の姿を批判的に読み解く。日本軍と商売をする「ニッポン婆さん」の北林谷栄が、「カタコトの日本語」を話す設定にされているについて、日本からビルマへの「植民地的まなざし」を認めている。日本兵を信頼し、たどたどしい日本語をしゃべる「原住民の婆さん」は、日本人が(または「原住民」でない者たち)が、「原住民」を日本人の観客(または映画を見る「原住民」でない側の観客)に向かって、演じて見せている。演出は、「日本語」の母語話者から見た「野蛮で知能の低い原住民」への帝国主義側の優位的気分を照らし出す。
 また、かつての敵国イギリスと「羽生の宿」合唱で和解するシーンについては、「自らの国民的・民族的・人種的同一性」を強化しようとした日本が、帝国主義側のイギリスと構造的に共振する」とも述べている。このように国家的な矛盾を押し隠しながらも国民全体を荒業でまとめあげてしまう装置を、酒井は「共感の共同体」と呼ぶ。共感の共同体とは、実は「共犯の共同体」である。これを見つめる視線によって、日本と欧米の関係を考え、日本にとっての「他者」とは何かを探っている。
 異文化理解について学生に教えることも仕事の大切な一部である私にとっては、「ある国に関わる表現をするならば、その国と国民を尊び、文化や生活を尊重し、その国の人々が納得できる画面を撮影してほしい」というのが願いだ。
 ハリウッド映画などによる「非西洋社会の描き方」には問題が多い。常に西洋文化の視線によって一方的な見方がなされ、当該国の歴史や文化を尊重しないことも多い。西洋視線で描かれた映画の中には、当該国のアイデンティティの問題に関わる重要な問題も含まれる。たとえば『王様と私』という映画。タイでは国王を侮辱している映画として上映が禁止されている。西洋婦人が神聖な王の身体に触れるという禁忌をはばかりなく描いているからである。
 ハリウッドが描くアジアやアフリカなど、偏見と独断にみちた描写ばかりであるのに比べれば、『ビルマの竪琴』に描かれたビルマは、まだしも良心的なのかもしれない。また、『ビルマの竪琴』は、日本で上映するための映画であり、日本人はビルマとタイの仏教の差など気にしていないから、そんな細かいところまで気にすることはない、というのも、制作側のひとつの考え方であるだろう。もっとも、それを同罪であると断じるのが、上で紹介した酒井直樹の議論であるのだが。いずれにせよ、市川崑監督の映像はすばらしい。それだけに、ビルマ文化をもう少し考慮した脚色があったなら、ビルマでの上映も可能になったのに、と惜しく思う。

【参照文献】




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