カントにおける人間的自由(3)

                       人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司


 一般に人間の行為は、快と不快衝動と欲望というような感性的な動機から始まるから、理性は実践的な実在性を持つかということは、直接には確実ではないのである。そうであれば実践理性の批判は、感性的な意志決定が唯一であるか、それともより高い欲求能力があって、そこでは感性ではなく理性が中心となる。したがって意志は、因果にとらわれることなく外的な動機に従わずに、まったく自由に理性からでる実践的原理に従うかを、吟味しなくてはならない。われわれの内にある高次の欲求能力は、道徳律の事実によって確実なのである。そして道徳律とは、道徳的行為のあり方に答える普遍的な、根本原理であり理性が自分自身によって意志に与える、法則なのである。われわれの内には、提示することの欲求能力を超えた道徳律があり、それは感性的衝動からそれとはまったく別個に独立し、断れない内的な必然性を持ってわれわれがそれに無条件的に、従うことを命令するのである。実践的法則は、快と幸福という経験的な目的にのみ関係するが、道徳律はこれをまったく考慮しないことを要求する。この道徳律は、定言的命令であって単に経験的な目的に役立つ規則を与えるような仮定的命令ではなくて、それはすべての理性的な意志を拘束する、普遍的な法則なのである。その法則の内容は、普遍的な自立的な意志そのものの命令でしかなくて、だから理性は道徳律のうちで自分が実践的であることを、証明するのである。実践的とは、意志と行為とに関するという意味である。

 こうした理性的な意志は、道徳律のうちでは直接的な実在性をもち、われわれ人間の意志のあらゆる質料的な動機や快あるいは幸福の原理と、自分自身の自愛の原理に従属しているのである。この理性的な意志が、このような動機に従っている限りでは、それは自立的ではなく他律的であり経験的で自然的な、意志によって決定されている。このような行為の規則をカントは、意志の格率とよんでいる。格率とは、われわれ人間が行なう実践的な内容であり善い行為が、成り立つものとされている。道徳的な格率は、道徳の最高原理ではないが、行為の特定の内容が与えられるのであって、だから、意志の自立に欠くことができないものである。したがって、道徳律と格率という側面の結合だけが、人間を道徳的な原則へと導くことができるのである。この為に行為の格率は、その制限をはずして共通項である普遍的で理性的な法則の形式へまで、拡大する必要が生じるのである。そして、普遍的で理性的な法則となりうる格率だけが行為の動機として、選ばれなくてはならない。しかし、われわれ人間は、単に欲求や幸福を追い求める理性的な、知恵者であるだけではない。確かに優れた人間は、悟性によって感覚的で経験的なものをまとめ、技術文明を生み出してきたしそれを発展的に利用することで、この世界で快や幸福を追い求めつづけて豊かな社会を、築いてきたのである。しかし、われわれ人間は、他面において快や幸福の原理とはまったく素性の違った、理性の声に接するのである。

 道徳律による命令は、幸福を求めるわれわれ人間に無条件的な絶対命令として、迫ってくるのである。これがいわゆる義務の声なのである。義務とは、道徳上において当然なすべきことの意味である。つまり、われわれ人間は、一面において欲求や幸福を求めてやまないような、動物的な存在なのである。そして、同時に他面において或る物とは違い、それを越える時には或る物を否定することさえ命ずるような、高次の世界に接しているのである。カントは、そういう直観性的で超経験的な世界に触れることで、そういう世界へと高まっていく人間の内的で本質的な能力を、理性と呼んだのである。純粋理性の使命は、このような意味のうちにあるのであって、幸福追求のため思考的な道具たることに、あるのではないとしたのである。われわれ人間が一方においては、快や幸福を追い求めてやまぬ欲求があり、他方において真に人間的な本質を自覚させる理性が存するのである。われわれ人間は、こういう二つの世界と二つの考え方の対立の中に、立っているのである。そこでわれわれ人間において理性の要求は、無条件の命令という形をとりそれが義務の声であり、道徳的命令なのである。われわれ人間が捉える道徳的な事実という義務の声というものは、実はこういう事実であったのである。そしてカントは、人間の持っている道徳的な事実や常識を吟味して、純粋な形で取り出してそういう純粋な道徳の原理や方式を、人間が自覚できるようにしたのである。

 道徳の新しい方式や原理とは、どのようなものなのであるかを吟味するに、それが原理であり無条件的な命令である以上、共通の形式や普遍性と必然性とを兼ね供えていなくてはならないと言うことは、自明のことである。そう言う人間の持っている道徳的で理性的な要求とは、いったいどのような形式でありそして義務は何故にして人間に、迫ってくるものであるかを捉えることである。カントによると人間の行為は、快や幸福を求めて絶えず何かを目指しているのである。このような人間の行為は、その人の快・不快の感情・自愛・幸福欲を、よりどころにしている。だがしかし、われわれに迫ってくる義務の命令は、そういうものとは全く異質なものなのである。義務の義務たる本質は、あれこれの目指されたものを言うのであって、内容や実質にあるのではなくてそれは形式なのである。カントは、義務たる本質をこの普遍的な形式においたのである。そこで純粋な理性の要求する最高の道徳法則は、普遍的に妥当するかどうかを考察しそのような基準に、かなうように行為することである。ここで問題となるのは、最高の道徳的な原理というものが理論的原理とは、大変異質なものになっていることである。それは客体であるものは、外的感覚的な材料なしに悟性が勝手に一人で活動したところに悟性は、独りよがりの誤りを犯したのである。

 つまり、悟性や理性は、感覚的な材料なしに純粋に単独でことをなすところに、誤りがあったのである。それ故に純粋理性は、純粋悟性と共に批判されて正されなければならなかった。こうした悟性や理性は、感性の協同によってのみ自らの活動や仕事を、なしうるのだというカント自身が自らの反省を、自覚することにあった。そして純粋理性の批判は、悟性や理性の限界をはっきりさせることであって、つまり悟性や理性は感覚的な材料なしには何事もなしえないし、なしてはならないことである。逆に言えば、そういう枠内でのみの発言力ないし想像力のあることを、明確にすることであった。ところが道徳的実践においては、事情がまったく異なりここにおいて理性が、感性的な本能や衝動に影響されてそれの道具となってはならず、純粋に人間の意志に働きかけ人間の意志を、動かさなくてはならない。或る行為である限りにおいては、それは目的を持っているといえるし人間の意志は、或る行為をしようとする目的にそった働きをするものである。カントはそう言う個々人の意志が目指す目的を、格率という言葉で表現したのである。その格率という言葉の意味は、個々人の意志の主観的な原理をなすものであり、この主観的原理である格率がいつでも同時に、理性的でなくてはならないのである。

 つまり、各人の目指す行為は、普遍的であり人間として人間らしく誰にも恥じることのないような、行為でなくてはならないのである。このことの意味は、われわれ人間が自らの快・不快の感情とか自らの幸福追求とかに、誘惑に左右されたり動かされたりすることなく、ひたすら理性の言うことに従うことである。このような人間の本質を示す機能ともいうべき理性は、およそ人間の意志ないし行為がいかにあるべきかを、指し示すものである。だから道徳的実践において批判されなくてはならないのは、純粋な理性ではなくて批判されるべきものは、絶えず快・不快の感情とか幸福への憧れとか、誘惑されたりそれに耳を傾けたり、時にはそれの道具とさえなってしまうような、理性のこと言うのである。このような批判されるべき道具的な理性は、いわば人間の本能や衝動の強さに負けてしまう弱い実践理性であり、自らの使命を履き違えて道具になりさがってしまっている、実践理性であるといえる。これがカントの命題である純粋実践理性批判ではなくして、実践理性批判となる所以なのである。ここで大事なことは、理論ではなかった自由が道徳的法則を手ずるにして、自覚されてくるということである。人間が道徳的事実を捉えるに、それに触れてどんな道徳律や義務に迫られるときにもそれを通して、自らの本質に生きる自由が自覚されてくるのである。

 自由とは、このような意味からして自らの欲望にふけり世俗的な幸福を、追求するというようなことではない。われわれ人間は、道徳律ないし義務の意識に迫られるときわれわれは、そこに欲望から解放されて人間の本質である理性によって生きようとしている、自己を見るのである。欲望に捕われないということの意味は、人間たる本質に生きようとしている自由な自己を捉え、知ることのうちにある。カントにおける自由は、自らの本質をあらわすことであり、われわれが道徳律によってそのような自由な自己自身を、自覚することのうちにある。そして真の自己が確立すると言うことの意味は、この自己は欲望にとらわれている不自由な自己に対して、真の人間であるよう呼びかけるのであって、その呼びかけが道徳律なのである。しかしこのことの意味は、あくまで道徳的で実践的な立場において、自覚されてのことである。何らかの行為をしようとしている人間の意欲や意志は、この形式にかなうことによって初めて道徳的に善き意志される、資格を得るのである。言うまでもなくこの形式に伴わない意志が悪である。カントによれば、善きもの悪しきものがまずあって、その後に道徳法則が善きものをなすようにとの道徳律が、定められてくるのではない。こうしたこととは反対に、道徳律があってその後に善や悪が、決まってくるのである。この善き意志は、無条件で絶対の道徳的法則に規定されたものとして、無条件に善といわれるものなのである。だからわれわれ人間は、何をなすべきかという道徳的行為のあり方に答える何人にも共通の根本原理を、求めることが課題となるのである。


【参考文献】

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