思想とはどういうものか

人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司


 思想という概念は、本来はただ頭の中にあるというばかりではなく、人々の生活や社会に対する見方や在り方を全体的に、規定する考えを意味する。思想という言葉は、一般的に哲学思想・政治思想・科学思想等々と言うように、考えられ用いられている。このことの意味は、各々の部門での理論や学説を指し示している事と理解される。しかし、この思想という述語の意味内容は、複雑であり且つあいまいに使用されることが多く、明確な規定性を欠いている。たとえば、ヨーロッパ思想・中国思想・インド思想とか、また、インドの建国の父であるガンジーの思想とか、各々の民族的な思考形式や各人の思想などが思想傾向として、使用されていることもある。このように思想という述語は、必ずしもはっきりとした理論や学説を言っているものではなく、人々の生活態度や世界観性等の大枠を規定しているものである。こうした思想という概念は、何らかの程度に人間生活に現れる対象や現象について、一定の認識を前提して多かれ少なかれ理論化されており、しかも単に知識だけとして所有されている。

 一般的には、思考と思惟によって得られた意識の内容を捉えて把握するに、この場合に個々の考えとか観念だとかそれ自体としては、バラバラなもので種々の事柄について各々の考え方や、観念が存することになる。思想という概念は、それとは異なりひとつの繋がりのある一貫とした観念の内的な意味を、捉え把握するものである。つまり、個々のものについての断片的な考えではなくて、各々の人の言動がひとつに貫いているような、考え方や観念でありこのようなものが、思想といえるものである。このような意味からして思想とは、自分自身で自覚をしていなくとも各人が自己のうちに、持っているものなのである。たとえば、われわれ人間を、取り巻く世界である自然や社会等について各人がどのように捉え、どう考えているのかという問題が頻繁に、発生するものである。このような、物事についての見方や考え方は、個々の事柄についての考えのようであるが、実はもっと根本的なものでありその人の日常生活における言動や、議論の仕方などに影響を与えるばかりでなく、大きく言えばその人の一生をも左右するような、力を持ったものである。これが本来的な意味での世界観であり、思想といえるものである。

 各人の生き方は、人生観を基底に或る人がどんな人生を歩むかという時には、その人の根本的な思想傾向や基本的な考え方が、生活過程の中で働くものである。そのような時には、その人の背後にあってその人の人生の方向や選び方を、貫いているものはその人の思想であり基本的な、物の見方であり考え方である。もちろん、誰でも初めから出来上がった思想を、持っている人はいない。一般的に思想は、各人の生活環境や周囲の人々の言動や自分の経験と学習などから影響を受け、衣・食・住という日常生活のなかで次第に変化し、進歩していくものである。そう言う意味で思想というものは、最初から既製のものを考えることはできない。すなわち思想は、絶えず発生と消滅という変化の中で進歩していく生活過程として、捉えることが大切である。そこでわれわれ人間は、このような現実であればなおさら自分自身の生活を見つめると同時に、自分もその一員である社会についての見方や世の中についての考え方である、社会観を養われなくてはならない。このようにわれわれ人間は、広く社会についての見方も目を開く、必要性が求められている。

 さらに、われわれ人間は、ある面から見ると他の生物と同じように自然に属するものであるからして、全体としての自然をもどのように捉えどう対処していくかを、考えなくてはならない。各人の思想は、全体として捉えて見れば基底となるものはやはり、自分の人生観であると言うことである。ただし、各人のその人生観は、自分自身の成長過程でどのように生きていくかと言うことばかりでなく、このような社会観や歴史観と言うものに必然的に、関連していくものである。社会というものは、過去から長い未来へとつながっているものであるから、歴史観を持つということも大切なことである。そう言うものを含めたものこそが思想の全体を、なすものと考えることができる。このような思想とは、そのままでは輪郭がぼんやりしたもので結晶していない不定形なものであるが、それは種々な科学の理論を踏まえて体系化し理論的に、系統だったものが哲学と言うものである。換言すれば、哲学は、社会生活に根ざした思想を現代の諸科学などを媒介として、広い視野と展望を持つものとして学問的に、体系化したものである。

 哲学は、世界観としてわれわれが生活する世界とはこう言うものであり、こう動くものであると言うことを明らかにし今度はそこから、次のようなことをわれわれに解らせてくれる。すなわち、われわれを取り巻く自然や社会という世界は、こう言うものでありこう動くものであるから、現実的な世界に生ずる全ての現象に、対応することになる。そして、対象を考察しこう言う風に世界を、人間のために変革していかなければならないと言うその仕方や、方法が理解できるようになる。だから、根本的な正しい世界観がないと、われわれの目の前に起こっている種々な自然現象や社会現象を、どう捉えたらよいのかということが問題となり、正しい物の見方や考え方が生まれてこない。およそ物を見る場合は、そこに物の見方と言うものがあるはずである。また、物を考える場合は、そこに物の考え方と言うものがあるはずである。われわれを取り巻く物事を処理して変革していく場合において、その仕方があるはずである。正しい方法のためには、その方法自体が世界の法則にそった方法でなければならないのである。哲学は、正しい方法を確立するための仕方でもあり、したがって、哲学は世界観であり同時に方法論でもある。

 世界観とは、人間が捉える世界に対する物の見方であり、考え方であるといえる。世界観がないと言うことの意味は、自分自身の身の回りの自然や社会に対する物の見方や考え方が出来ないと、言うことを意味するものである。われわれ人間は、世界観を持つことによって事物や事柄について根幹から、掴むことが出来るような人間となることかできる。世界観は、人間である限りどのような人でも必ず持っているものである。われわれ人間は、行為を選ぶ自由が存するところ自らの世界観が、生じてくるからである。だから、人間の自由と哲学は、不可分の関係にあるといわれる所以なのである。この意味で哲学や世界観は、われわれの生活にとって無関係なものではなく、むしろ生活と密接に関係することでわれわれの生活の根底にあり、生活を規定するものである。われわれ人間は、どのような人でも意識的にせよ無意識的にせよ、世界観によってその人は生活している。世界観や哲学の対象は、こうした人間の日々の営みの中での全体の世界であり、その世界と言うのはわれわれが生きている人間を取り巻く、自然や社会のことである。このことからして自然を捉えるには、自然の特徴やその法則を把握する必要があり、また、社会を捉えるには社会の特徴やその法則を把握することが、必要とされるのである。

 このように、われわれ人間は、自然や社会という世界の中で生きているのであって、基本的な生き方である正しい世界観を持つことによって、様々な目の前の現象についての正しい認識を、することが出来ようになる。われわれ人間は、自らの根本的な正しい世界観を持たないと種々な自然現象や社会現象を、どのように捉えどのように考えて把握すればよいのかという問題が発生し、正しい物の見方や考え方をすることが大変、難しくなってくるわけである。とすると、それを捉える方法や仕方も、正しいものとはならない場合も発生する。大雑把に物を捉えるには、そこに物の見方や考え方というものがあるはずである。対象である事物や事柄を処理する場合には、その物の対処の仕方がありその方法と考え方や在り方がある。正しい方法のためには、その方法自身が世界の正しい見方と一致した仕方や、方法でなければならない。この哲学は、自然や社会に対する正しい見方や考え方であると同時に、正しい生き方であり方法を確立するためのものでもある。だから哲学は、世界観であると同時に方法論でもあるわけで、われわれの現実的な生活に根ざしたものであり、自然や社会法則に基づいたものとなることが、求められることになる。

 世界観と言うものは、一言でいえば自然と社会を含めた世界全体についての、一般的な見方や考え方のことである。そして哲学は、その発生史から自然と社会を含めた世界全体についての理論的に系統だった、世界観と言うことでもある。われわれ人間は、各々の世界観の違いによって世界のすべての事物に対する、違った見方や考え方を持っている。したがって、問題に対する対処の仕方も、またその方法も違ってくる。われわれ人間は、誰しもが日々の生活の営みの中で自分を取り巻く、世界についての一般化した見方が作られ、それを自分の生き方と決めている。これが自然成長的な世界観と言うものである。歴史上の哲学者たちは、各々の立場から世界全体について様々な解釈を加え、自然成長的な世界観で大まかな考え方に筋道を立てることで、体系的な世界観にまとめてきたのである。この世界についての見方や考え方である全体的な観点を、世界観と言うのである。そして現実に対するより良い考え方は、しっかりした世界観を持つことが必要とされ理論的に筋道たてられた、哲学が求められているのである。

 こうした哲学は、われわれ人間を取り巻く世界である自然法則と社会法則とを、全体として把握することのうちにある。そして、その事物や事柄の現象を捉え、法則を抽出することでその法則のもう一つ奥の根源的で本質的なものを、理解することにある。換言するならば、世界の根本原理についての本質を理解して、把握することである。自然と社会という全体の世界の、内実を把握することでどう変化し発展しているかを、捉えることが可能となる。そして発展の過程を捉える立場から、初めて自然と社会というものが成り立つ世界について、理解ができるようになる。全体としての世界が、新しい状態へと発展するものであれば社会もまた新しい状態へと発展せざるを得ないし、そして、その発展の仕方も世界の根本的な法則に従って、発展していくはずである。それ故に、対象について考察する場合は、その事物の現象から本質へそして本質から根本的な原理へと、遡のぼって世界を成り立たせている自然と社会の、問題を把握することである。このような概観としての哲学的な世界観性を包含したものを、思想と規定することができるだろう。



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