異文化教育としての日本語教育
−unlearn とunteach 『ビルマの竪琴』を事例として・その1−
博士後期課程 稲村 すみ代
(1) アンラーン(unlearn)する
第二言語教育(外国語教育)とは、必然的に主体の問題を包摂していくこととなる。アイデンティティの重層を織り込む言語活動のなかに組み込まれた学習が、教育者−学習者関係に内包されている<文化の政治性>を照射しつつ、文化の脱中心化、エラボレーションelaboration、エンパワメントempowermentへ向けられるべく、日本語教育の可能性をさぐっていきたいと思う。日本語教育は、なぜ「異文化」に関わる必要があるのか、<他者>として異文化を理解することが可能なのかという問いに立ち戻りつつ、異文化の中にある言語を教育していく可能性を考察していかなければならない。自己と他者の境界を意識しつつ、自己批判的に相互侵食するための「対話的想像力」を育てて行かなければならない。多文化教育において「文化を学ぶ」ことは、「安定した本質主義化への欲望」に抗するまなざしを育てる。また、複数の差異を交差した多様性を肯定的に評価する多文化教育において、<エスニシティ>を考察の対象としてとらえないならば、自他が固定された文化的二元論のなかに埋め込まれていくしかない。日本語学習のなかに異文化学習が必然的に組み込まれてくるのは、そのためである。
本稿ではひとつの実践として、「アンラーン=学び直し」を映画『ビルマの竪琴』を中心に行い、異文化を見る目の養い方を論ずる。
『ビルマの竪琴』は、第二次大戦下と戦後のビルマ(現ミャンマー)を舞台に、日本軍兵士を主人公にした児童文学である。本稿では、竹山道雄『ビルマの竪琴』の原作と、原作から二度にわたって映像化された作品を通して、unlearnすることを目的とする。不断のunlearn実践が、日本語教師にとって必要不可欠であり、日本語教育の可能性を深めるものであることを述べていきたい。
『ビルマの竪琴』に論を進める前に、unlearnという語について述べておきたい。
鶴見俊輔が、学生時代にヘレン・ケラーから聞いたということばを紹介している。(朝日新聞2007年12月)
「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」
このときのケラーの発した「unlearn」を、鶴見は「まなびほぐす」と訳している。「まなび」(ラーン)、後に「まなびほぐす」(アンラーン)。鶴見はヘレンのことばを聞き、
「アンラーンということばは初めて聞いたが、意味は分かった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された」
と感じたという。鶴見は60年以上も前の戦時中、異文化のまっただなか、敵国アメリカで学生生活をおくった。そのときににきいたヘレン・ケラーのことばが、今も鶴見の胸に宿り輝いている。さらに、鶴見は、ホスピスの医師として生と死をみつめてきた徳永進医師を評して、「徳永は臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者である。アンラーンの必要性はもっと考えられてよい」と、コラムを結んでいる。
また、大江健三郎はunlearn とunteach を「学び返す」「教え返す」と、訳し、対のことばとして心に留めていたと、書いている。(朝日新聞2008年01月)
大江は、unteachの用例として、文化人類学の研究者ジェイムズ・クリフォードのことばを引用し、リーダーズ英和辞典の訳語を紹介している。
unteach=既得の知識(習慣)を忘れさせる、(正しいとされていることを)正しくないと教えることの教えることの欺瞞性を示してやること。
大江は、自分自身の仕事について、
「小説を書くことによって、unlearnとunteachを二つながら書斎で試みることをするようになり、その手法を探ってきたとも気がつくのです」
と述べている。
「アンラーン=まなびほぐす」、このような日本語訳をはじめて知り、私自身の生活が、まさしく「学び(learn)をほぐす(un)」を続けるものであったことを確認した。ただこれまでは、私の生活を「unlearn=まなびほぐす」という一語で表現できるとは思っていなかったのだ。言語を教える過程はまさしくこの「learn/unlearn」「teach/unteach」の繰り返しである。文化を教え、教えほぐす。言葉を教え、教え返す。ひとつのセーターが編み上がったとしても、別の人が着る場合、もう一度体に合わせて編み直す必要が出てくるだろう。日本語教育において、言語と文化を教えるという作業は、 unlearn 「学び返す」とunteach 「教え返す」を繰り返して編み込んでいく作業だ。教育において「他者」と出会い、複数の語りを繋ぐ結びに転化することで、文化を「広範な学習の場」となしていくことができるだろう。多文化教育研究、日本語教育研究にとって、「他者」を自己に包摂し、同一化してしまうなら、「他者」を「自由な主体」として認めることができない。同時に自分自身を「自由な主体」とすることも不可能になる。文化を「中心―周縁」の対立にとどめず、「他者」に対峙する自らの位置を「unlearn」まなびほぐしていくことが、日本語教育、多文化教育研究にとって重要なものとなるだろう。
スピヴァクSpivakは「アポリアを教えること」というインタビュー(『現代思想』1999年7月号)で、
「(多文化主義的実践は)いまではもはや対抗勢力ではない。むしろ新たに台頭してきた支配勢力となっている。そういう我々が行為者を主張することは、他者性の中に行為者を認知することであって、他者を理解することではない」
と述べている。これも、unlearnの学びが「あらたな支配勢力」となっている多文化主義実践をときほぐし学びほぐしていくこととなるであろう。
かって、日本語教育は、「皇民化教育」の名のもとに、「日本語を話さない人たち」をマイノリティからすくい上げる装置として「帝国の基礎」を担う存在だった。酒井直樹(1996)は、「日本帝国主義や日本国家の侵略性を内面化し日本人として死ぬ準備をマイノリティ出自の個人に要請するような制度の正当化」について指摘した。日本語教育は、まさしくそのような「制度」へ「主体」として関わっていこうとする人を養成してきたのだ。ポストコロニアル研究の隙間をぬって蔓延する「植民地支配合理化」論に足元をすくわれないためにも、日本語教育の可能性について、文化教育言語教育の視点を確認することが必要と思われる。
(2) 異文化へのまなざし―『ビルマの竪琴』への評価と批判
『ビルマの竪琴』は、第二次世界大戦下のビルマ戦線で、日本軍のある部隊が合唱によって心を結びあい、敗戦までを生き延びたことと、部隊の一員である水島上等兵が、野ざらしになった戦没者の慰霊を行うために帰国をあきらめ、ビルマで僧としていきていく決意を仲間に伝えるまでを描いている。
『ビルマの竪琴』の上に現れている文化的な歪曲や偏見を明らかにし、それらがいかになされているのか、それらに対する批判はどのようになされ、どのように反論が出されてきたのか。児童文学『ビルマの竪琴』をめぐって、学び、学びほぐすことの過程を示しアンラーン/アンティーチのひとつの実践報告としたい。
鶴見俊輔は、『大衆芸術名作百選・解説』の中で、『ビルマの竪琴』を鞍馬天狗や宮本武蔵と比較している。「戦争を悔いた元兵士が、戦後に敵味方の死者の苦境を弔うために、僧侶となって戦場をめぐる話。熊谷次郎直道以来の、日本の大衆芸術の回帰的主題を、東洋との連帯の上にくりひろげた少年教養小説である」と、評価している。
肯定的な鶴見の評とは反対に、竹内好は『ビルマの竪琴』に対して「水島を理想化することによって戦争批判を行っているわけだが、この戦争批判の角度に私は問題を感じる。戦争を宿命的なものとする考え方と、その救済を精神的な方面に求める態度が強調されているのが私には不満なのである」と、批判している。
児童文学者上野瞭は、長編評論「戦後児童文学の不幸なる起点−『ビルマの竪琴』について」において、論戦の中に出てきた批判点を4つにまとめている。1)国家を不動軸にした。2)戦争責任を天皇制や国家機構ではなく、日本人一般、人間の問題にすりかえた。3)戦争責任を無力な個人に還元する。4)水島一人で責任をとるやり方。
上野瞭が最も問題にした部分は、批判点の4番目にあたる。「竹山がすべての責任を水島ひとりの良心の問題として描いたために、一つの錯誤にみちた「戦後」の出発の仕方をすり替える物語になってしまった」という点である。この論争については、児童文学と戦争責任の表現に関わって論が存在してきたことを確認したのみにとどめ、今回は、「異文化を描写することの批判点」に論をまとめていきたい。
現在のミャンマーについて、日本の人に知られていることといえば、民主化闘争のスーチーさんを弾圧し軟禁状態にしていることと、2007年に軍兵士によってジャーナリスト長井健司さんが射殺されたことくらいかもしれない。また、かってビルマという国名で日本の人が思い浮かべたことは、圧倒的に『ビルマの竪琴』だった。
私は、竹山道雄の『ビルマの竪琴』を、学校図書館にあった本で読んだ。小学校何年生だったのか忘れたけれど、安田昌二が水島上等兵を演じた映画も見た。安田昌二の水島上等兵の印象が強かったせいか、市川崑監督が1985年に中井貴一を水島に起用して自らリメイクした作品を公開当時に見ることはなかった。リメイク作品公開から後23年後の2008年、市川崑 が2月13日に亡くなり、2月15日に、追悼放映された『ビルマの竪琴』を見た。今回『ビルマの竪琴』をunlearnする、という契機になったのは、このリメーク版映画『ビルマの竪琴』を見たことによる。市川崑監督の『ビルマの竪琴』は、映画としてよくできていると思う。このお話では、音楽学校出身の井上隊長指導の合唱が物語の要になっている。また、水島上等兵の奏でる竪琴の音が、ストーリーの推進役だから、本を読んだとき以上に音楽の持つ力が身に染みた。
原作者の竹山道雄は、ビルマへ行ったことも、従軍体験をしたこともない人であり、一高教授、大学教授としてドイツ文学研究などに携わってきた。『ビルマの竪琴』は、竹山道雄にとって唯一の「長編児童文学」であり、作者のあとがきとして「自分はビルマに行ったことがないが、復員した人の話を聞いた。ビルマに残された白骨化したままに放置されている日本軍兵士の話などをきいて、小説に仕上げた」という意味のことばを書いている。だから、ビルマ文化のや風俗の記述において、正確な記述ではないとしても、そこを責められるべきとは思わない。1956年には、それほどビルマは日本にとって遠い存在だった、というしかない。
竹山道雄は、巻末の「ビルマの竪琴ができるまで」に、自分がビルマの社会風俗について何も知らず、『世界地理風俗体系』や「ビルマ写真帖」を参考にした」と、書き留めている。また、1952年には、『ビルマの竪琴』英訳本を読んだビルマ人新聞記者に、「宗教関係に間違ったところがあるが、ビルマ人は宗教についてきわめて敏感だから、この本をビルマに紹介するときには気をつけるように」といわれたと書いている。つまり竹山自身も自分の記述に間違いが多かったと承知していたのであり、ビルマ文化ビルマ仏教について間違っている点を改める必要があることを認識していたのだ。
竹山の原作で一番決定的な問題点は、ビルマ仏教では僧侶が音楽に携わることは戒律で禁じられており僧衣を着たものが竪琴を鳴らすことはあり得ない、ということ。この点は、リメーク版ではうまく処理できたのではないか、という思いが残る部分である。最初の映画が公開されたあと、この破戒に関して多くの批判点が出された。市川監督はこの批判点を十分に把握していたはずだと思うのだ。
以下、次号連載へつづく。次号では(1)ビルマ僧の出家と音楽についての誤謬は、原作者も修正すべきと感じていた部分であるが、出家した僧が音楽を奏でるという宗教的禁忌を映画において原作のままにしている。(2)原作に描かれた仏教に帰依するビルマ人の日常生活について、映画では歪曲した描かれ方になっている。侵略国日本から見て、侵略されているビルマが文化的に劣った<野蛮人たちの住む国>と見える描かれ方になっている。
等を論ずる。