斎藤茂吉とスペイン風邪

博士後期課程 小泉 博明


 新型インフルエンザが猛威をふるい、パンデミー(世界的流行)となる危険性が叫ばれている。もしも大流行したならば、人々はパニックに陥らずに、冷静な行動を取ることができるだろうか。医療体制も十分な対応が備えられているのだろうか。人が動き、モノが動けば、目に見えない病気も動き、疫病が流行する。まさに、負の異文化交流となるのである。近代となり交通網が発達し、国際交流が活発になればなるほど、病気はエンデミー(風土病)からエピデミー(地方病)、そしてパンデミーへと激変するのである。
 斎藤茂吉は、1917(大正6)年12月3日付けで、長崎医学専門学校教授に任じられ、併せて県立長崎病院精神科部長となった。一人で、研究者、臨床医、そして教育者という三役を担う、多忙な日々を過ごすこととなった。

寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰へぬ長崎の年暮れむとす
(『つゆじも』大正8年作)

 これは翌年の年の瀬に、茂吉が長崎の石畳を歩きながら、インフルエンザが流行していたことを、よんだものである。この時点では、自らに関わるものではなく、医者として、他者への眼差しで冷徹に「はやりかぜ」をよんだのである。この「はやりかぜ」とは、その頃、1918(大正7)年から20年にかけて、「スペイン風邪」と呼ばれ、世界中に猖獗したインフルエンザのことである。約6億人が感染し、少なくとも2000万人から、一説には4000万人が死亡したと推定されている。発生源は諸説あるが、ヨーロッパでは第一次世界大戦の最中であり、西部戦線で睨み合っていた両陣営で爆発的に流行し、フランス全土に席捲し、やがてスペインへと蔓延していった。1918年秋になると、この恐懼の「スペイン風邪」が、日本へ上陸し、越年して全国に猛威をふるった。日本でも約2300万人が感染し、3年間に38万8千人が死亡した。人口千人当たりの死亡者数は6.76人、患者百人当たりの死亡者数は1.63人であった。(1) 大正時代に、このようなインフルエンザの流行があったとは驚愕である。この時のインフルエンザの体験を、これからに活かして欲しいものである。
 1920(大正9)年1月6日になり、茂吉は東京から義弟の斎藤西洋が長崎を訪れたので、妻のてる子と長男茂太と共に、大浦の長崎ホテルで晩餐をとり、楽しく過ごした。ところが、帰宅後に、茂吉自らが、「スペイン風邪」に罹り、急激に発熱し、寝込んでしまったのである。肺炎を併発し、四、五日間は生死を彷徨し、一時は生命を危ぶむ状況であった。てる子と茂太も罹ったが、比較的軽微な症状で、すぐに恢復した。茂吉は2月14日まで病臥にあり、同月24日から勤務したが、病み衰えた身体は、本復にはほど遠かった。50日近くも治療と療養に費やしたのであった。なお、長崎医学専門学校では、茂吉と同日に罹った同僚の大西進教授と、その後に罹った校長の尾中守三教授も相次いで死亡するほど、この「スペイン風邪」という病魔は猛威をふるったのであった。その時に、茂吉は次の歌をよんだ。

はやりかぜ一年(ひととせ)おそれ過ぎ来しが吾は臥(こや)りて現(うつつ)ともなし
(『つゆじも』「漫吟」大正九年作)

 2月16日になり、漸く快復した茂吉は、島木赤彦宛の書簡で次のように記した。

 御無沙汰仕りたり一昨日より全く床を離れ、昨日理髪せり、今日朝からかゝりて選歌し、未だ疲労ひどし。歌は一句ぐらゐづゝにて一首も纏めずにしまひ候、下熱後の衰弱と、肺炎のあとが、なかなか回復せず、いまだ朝一時間ぐらゐセキ、痰が出てて困る。東京の家にも重かった事話さず、たゞ心配させるのみなればなり。茂太も妻も、かへりて臥床、この時は小生も少し無理して、それで長引いたかも知れず。(2)

 どうにか勤務を再開したが、今度は6月2日に突然の喀血に見舞われた。8日にも再喀血した。病状が恢復しないので、6月25日になると、県立長崎病院西二棟七号室に入院し、菅原教授の診察を受けた。10日余りの治療であったが、好転したので、7月4日頃に退院した。入院中には次の歌がある。

病(やまひ)ある人いくたりかこの室(へや)を出入(いでい)りけむ壁は厚しも
ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの声も聞こゆる
闇深きに蟋蟀(こほろぎ)鳴けり聞き居れど病人(やみびと)吾は心しづかにあらな
(『つゆじも』「漫吟」大正九年作)

 その後、猛暑の中での自宅療養となったが、転地療法を必要とした。そのため、7月26日から8月14日まで温泉嶽(雲仙)よろづ旅館へ、8月30日には佐賀県唐津海岸の木村屋旅館へ、9月11日から10月3日までは佐賀県小城郡古湯温泉の扇屋へ逗留し療養した。茂吉の「手帳」によれば、8月25日に喀血し、26日には再喀血をした。その後、血痰が連日続き、10月1日まで続いた。血痰の分量が減り、その色鮮紅色から、淡紅色、黄褐色、黄色へと徐々に変化し、段々と恢復していくことが分かる。
 10月28日になり、学校と病院へ復帰し次の歌をよんだ。長い療養生活であった。

病院のわが部屋に来て水道のあかく出て来るを寂しみゐたり
(『つゆじも』「長崎」大正九年作)

 茂吉にとって1920(大正9)年は、インフルエンザに罹患し、喀血に見舞われ、ほとんど治療と療養の生活であった。インフルエンザと喀血は連動したものか、切り離して考えるべきものかは判然としない。しかし、少なくとも、インフルエンザから肺炎が遠因となり、喀血に見舞われたともいえよう。茂吉は、医者として喀血を自覚し、また覚悟していた。死を予感し、死に直面した年であったといえよう。しかし、旺盛な評論活動をした年であり、「アララギ」(大正9年4月号)に「短歌に於ける写生説(一)」を発表し、その後8回に亘って写生論を展開した。とくに「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。」という実相観入の写生論の確立をみたのである。この写生論は、肺炎から恢復し、喀血から療養生活を送る、病中、病後にまとめたものである。まさに、病気の体験を通じて、この論が生まれたことは間違いないであろう。
 ところで、茂吉先生に叱声を受けると思うが、小生の駄作を記す。

闇深きに鼾(いびき)の音を聞き居れど隣人(となりびと)吾は心しづかにあらな


【注】
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