夢中説夢―私の中国報告(6)
中国の交通安全

博士後期課程(国際情報分野)1期・博士 山本 忠士


和諧社会の広告メッセージ
 中国が目覚しい経済発展をしていることは周知のことである。急激な成長によって一面で社会の各方面にひずみが出ていることも多くの人が指摘していることである。この歪を是正し、持続的で調和の取れた発展をどのように実現していくのか。現在の中国にとって重要な課題となっている。「和諧」とは、各地域、各階層間で調和の取れた発展を期す、ということであり、改革開放による成長の果実を人々が分かち合える社会にしようという国家目標である。
 テレビでもこの「和諧社会」に関するメッセージ広告がある。中国にも日本の公共広告機構のような組織があり、そこがスポンサーになって公徳心向上キャンペーンなどの広告をしている。その一つに、和諧社会をテーマとした「平安中国和諧為本」がある。物語風になっており、高校生くらいの女の子が、灯りが消えていく夜の小さな商店街を不安そうに無灯火自転車で通り過ぎて行く。路地の角で電灯をぶら下げて温かい饅頭を売っている知り合いのお爺ちゃんに会う。女の子はその姿にほっとしながら、「お爺ちゃん、まだ家に帰らないの」と声をかける。お爺ちゃんは「もう帰るところだ」と応じ、暗い路地に曲がった女の子の後ろから電灯をかざし自転車の通る暗がりを照らす。その灯りを背後に受け、女の子は嬉しそうに「お爺ちゃん、ありがとう」とつぶやきながら家路を急ぐ。そこに「平安中国和諧為本」という字幕とナレーションが入る。
 演じている少女もお爺ちゃんも、実にほのぼのとしたいい味を出している。中国語の「大爺(da ye)」は日本語的に「お爺ちゃん」と訳すとなんとなく味気ないが、本来は人間的で年長者への尊敬の意が含まれている。少女が、夜道の不安と戦うように自転車をこぎながら歌う「説愛我 (私を愛してるといって)」の曲もいい。
 なぜ、交通安全の問題でこの広告を紹介したかというと、現代中国が国家の目標として掲げる「平安中国 和諧為本」の題材の主役が、「無灯火」自転車の少女であったからである。「大爺」の優しい行為を通じて、他人を思いやる心が和諧社会の基本だというメッセージが伝えられているからである。無灯火自転車の登場が、いかにも中国的な雰囲気を伝えている。
 味わい深いこの広告が、もし日本で放映されたらどうなるか、と考えてみた。日本なら恐らく他人を思いやる「公益広告」の題材にはなるまい。広告を見れば、電灯を照らすお爺ちゃんのやさしい思いやりは伝わるであろうが、何よりも「無灯火」自転で走る少女の行為が公益広告に不適切な内容として問題視されるに違いない。危ないから「無灯火自転車に乗るのはやめよう!」 というキャンペーン用になったら少女を責めるようなものになってしまい、味わいも何もなくなる。

自転車には「ライト」がない
 中国では自転車にライトがないのは、ごく当然のことである。法的にもライトは義務付けられていない。それゆえ、暗い道を走る自転車の行く手を照らすお爺ちゃんの温かい行為が、すんなりと心に染み入るのである。私も、自転車を持っている。もちろん、ライト、ベルなしである。毎週日曜日に近くで開かれる中古自転車市場で70元(約1000円)で買ったものだ。売り場のオヤジさんが、4年有効の防犯用「吉林省自行車証」を付けてくれた。メーカー、車輪の大きさ、色、車体番号等が書かれているが、ライト、ベルについての記載はない。
 自転車のライトが気になったので、どのくらい付いているものか実地調査してみた。まず、吉林省第三の都市・四平市の駅前近くに駐輪する100台ほどの自転車をチエックした。ライトの付いているものは1台もなく、ベルの付いているものが6台あった。進学校の四平市実験高校前の100台ほどの自転車にあたると、ベル付きが9台、ライト付きはここでも1台もなかった。
 日本語学科の学生たちに、自転車にはブレーキとライトとベルが付き物だと説明しても、ライト付の自転車を見たことがないから、どうもピンとこないようだった。「夜は自転車に乗りませんから」という。ライトがないから乗らないのか、ライトがあったら乗るのか、それはわからない。
 はっきりしているのは、人力で動く乗り物とエンジンで動く乗り物は、はっきりとした区分があることである。だから、営業用でも人力三輪車のタクシーにライトには付いていない。人力三輪車は小回りが利いて便利な乗り物で、利用者も多い。自動車に伍して人力で健闘するおじさんは頼もしくはあるが、交通事故に巻き込まれたらまことに怖い。タクシーにも安全ベルトがないくらいだから、人力三輪車にあるはずもない。
 自転車にライトがないのはまだしも、自動車の無灯火となると話は別である。数ヶ月前、知人から無灯火自動車にはねられて亡くなった人の話を聞いた。夜の田舎道を3人で歩いていた時、後ろから来た無灯火自動車に追突されたという。運転手は、あろうことか酒酔い運転だったという。被害者は、後ろからトラックが無灯火で走ってくるとは、思ってもいなかったであろう。
 タクシーは5人乗りだが、小型車だから結構狭い感じがする。だから、学生たちとタクシーに乗ると、「先生どうぞ」といって、運転席の横をすすめられる。最初は、タクシー席の横ということで、抵抗があった。運転手も客も安全ベルトはしない。衝突すれば惨事になるが、眺めはいい。一人で乗る場合も、運転席の横に乗る人が多い。
 久しぶりに日本に帰って、びっくりしたことの一つに車の後部座席にも安全ベルトが義務付けられていたことであった。少し神経質すぎる気もするが、車の事故は人の生死にかかわるからそれなりの根拠があってのことだろう。いずれにしても車の安全に対する対策が、中国とはえらく違うなと思う。

交通道徳と安全対策
 中国の交通道徳は、決していいとはいえない。急激な車社会の到来に人々が適合する過渡期にある。例えば、都会の公共バスの乗車時の混雑は、一種の生存競争を思わせる迫力がある。日本でも、私の子供のころは電車も、バスも我先にと乗車する様子はすごかった。整列乗車の方が結局は時間の節約にもなることが、やがて理解され今日に至っている。基本的に電車やバスの本数の少なさと乗降客の多さが混雑する理由だろう。私がよく乗る四平市のミニバスは、大都市のような乗車風景はない。キャンパス近くはオンデマンド式で、手を上げればどこでも乗ることができる。
 私の日本での生活拠点・立川でこんなことがあった。きちんと並んでバスを待つルールが定着していた停留所に、ある日停留所前の自動車会社が屋根つきの待合室を作った。雨の日や夏の強い太陽光線を避けるためにはありがたいことであった。しかし、途端にバスの整列乗車ルールが崩れた。私自身は、折角、並んで乗車する美風が崩れたことを残念に思った。それでも、しばらくするとバス停に無秩序に待っているように見えても、乗る時はほぼバス停に到着した順番に近いかたちで乗る新ルールができていた。交通道徳に対する日本人の成熟を思わせた。
 運転者や歩行者のモラル、交通の安全対策は、急速な車社会を迎えた中国にとって、大きな課題である。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉が生まれるのは、道路が広く何より横断歩道と信号が少ない状況がある。だから、中国では道路の横断に緊張する。日常の社会生活では、人々の暗黙の行動パターンがあって、「こうすれば、こう動くだろう」という文化的共通性を基盤とした行動予測の上に、交通の安全性が保たれている面がある。異文化の人間行動は、その「予測」を覆し、事故につながる。学生たちと街に出ると、彼らが私の行動に非常に気を使ってくれていることがわかる。それは、年齢のせいばかりでなく私が異文化の人間行動をして交通事故に巻き込まれないようにないように、ガードしてくれていることを感じる。機を見てみんなで横断するタイミングの取り方はまことにみごとである。まとまって行動することが、自動車に対する自衛手段ともなっている。
 テレビは、中国の自動車販売がアメリカを抜いて、世界一になったことを報じていた。 中国の車社会は、これからが本番である。狭い国土で車が走り回っている日本の経験が、ますます役に立つことであろう。



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