カントにおける人間的自由(2)

                       人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司


 I・カント(1724−1804)は、われわれは物をあるがままに認識するのではない、われわれが認識するのは現象にすぎず物自体を、認識するのではない。われわれの認識は、それにもかかわらず経験だけがわれわれの認識の範囲であって、無制限的なものに関する学は存在しないのである。認識能力においては、悟性だけが先験的な構成原理を含んでいるということが、純粋理性批判によって証明され、欲求能力については、理性だけが先験的に構成原理を含んでいることが、実践理性によって証明された。理論的理性の批判は、客体がア・プリオリに認識できるかどうかを問題としていたが、実践理性の批判においては、客体が認識できるかどうかは問題ではなくて、問題となるのは意志の決定である。理論理性の批判は、いかにして純粋理性がア・プリオリに客体を、認識しうるかにあったのだが実践理性の批判においては、いかにして意志を客体である現象を含む物自体にかんして、ア・プリオリに決定しうるかである。われわれ人間の理性能力は、認識能力としての理論理性と欲求能力としての、実践理性とに分けられる。広義の理論理性は、感性や悟性を通じて自らの超越論的な認識能力を用いて、現象に関する先験的な綜合判断をして、現象の自然必然性を構成するのである。この理性は、実践的な実在性を持つのかということについては、直接には確実ではない。実践的理性の批判は、感性的な意志決定が唯一のものであることが、理性によって証明されたのである。

 一般的に実践的理性の批判の課題は、理論的理性の批判の仕方のそれとは、本質的にちがっている。理論的理性の批判の仕方は、いかにして純粋理性がア・プリオリに客体を認識しうるかにあったが、実践的理性の批判の仕方は、いかにして意志を主体にかんしてア・プリオリに決定しうるかを、吟味することである。だから、実践的理性の批判の仕方は、理論理性の批判とは正反対の仕方なのである。さらに理性の実践的使用となると、事情はまったく異なってくる。理性の実践的使用において理性が関係するのは、意志を規定する根拠である。意志は、主観のもつ表象に対応する対象を産出する能力であり、また、自分自身を規定する能力でもある。このような場合に理性は、少なくとも意志を規定するに足り得るし、また、意欲だけに関する限りでは、常に客観的実在性を持つからである。ここで問題となるのは、いったい純粋理性は自分自身だけで意志を規定することが、出来るのかどうかである。さらにまた経験的には、条件付であるような理性として意志の、規定根拠たり得るのかということである。ここにおいて原因性の概念であるところの、すなわち、自由の概念が現れるのである。自由の概念は、先に純粋理性批判によってその存在が認められはしたものの、しかし、経験的にはまだ提示できなかった概念なのである。

 カントは「そこでいま我々が、このような自由という特性が人間の意志にそれだからまたすべての理性的存在者の意志にも具わっていることを証明するような根拠を発見することができれば、それによって純粋理性は理論理性とならんでまた実践理性であり得るばかりでなく無条件的に実践的な理性はこの純粋理性だけで、経験的に条件付であるような理性ではないということもまた証明されるわけである。」(8)と述べている。このように理論的な認識を本源的に規定するものは、直観であり意志を本源的に規定するものは、原則と概念なのである。だからして実践理性は、すべてにおいてことの端初を道徳的原則から、始めなければならない。とすると、われわれの課題は、純粋な実践理性の批判ではなくして実践理性一般の批判だけを、究明すればよいことになる。実践理性の批判においては、客体が認識できるかどうかは問題ではなくて、問題となるのは意志の決定なのである。だからカントは「この批判の旨とするところは、実践的な純粋理性が存在するということを論証するところにある。この主旨に沿って純粋理性の実践的能力全体を余さず批判するのである。」(9)と述べている。だからここで言う人間の意志は、因果にとらわれないで自らの思慮によって自分で自由に決めることにある。

 カントは、理性が純粋理性として実際に実践的であればこの理性は、自分自身の実在性と理性に属する概念の実在性とを事実によって、立証されることになるとしている。したがって、純粋理性が実践的であり得るということは、否定することが出来ない事実なのである。カントは「純粋理性批判は、その弁証論において神や自由および心の不死という三つの理念をもともと理論理性における、概念として取り上げたのである。しかし、理論理性の分際としてはこれらの概念は、内的矛盾を含んでいないから考えられ得る、という消極的かつ蓋然的な意味でしか立言できなかった。これに反して実践理性批判は、先には蓋然的であったこれらの概念に実践的見地から客観的実在性を、与えることができたのである。」(10) と述べている。一般に理性については、理論理性と実践理性とに区別されるものをまったくア・プリオリに認識する原理を、含むところの理性である。しかし、理論理性にせよ実践理性にせよ、われわれが理性を所有することには、問題がないことと考えられる。カントは「体系的な理性認識一般については、理論理性による感性界の認識と実践理性による超感性界の認識と、あいまって、人間の全体的認識をなすものである、ということができる。」(11)としているのである。

 先にも見たように理論的理性の批判は、客体がア・プリオリに認識できるかどうかを問題としていたが、実践理性の批判においては、客体が認識できるかどうかは問題ではなくて、問題となるのは意志の決定である。考察の対象は、理性ではなくて意志なのである。対象に対する関係は、理性ではなくてこの意志とその原因性とに対する、関係における理性である。理論理性の批判は、いかにして純粋理性がア・プリオリに客体を認識しうるかにあったが、実践理性の批判は、いかにして意志を主体にかんしてア・プリオリに決定しうるかである。また純粋理性といえば、経験にはまったくかかわりのない理性を意味するのであって、この場合の純粋という言葉は先験的、すなわち、論理的に経験に先立つという言葉と同じ意味である。それだから純粋理性は、およそ理性と意志とを有するすべての理性的存在者において、まったく異なるところがない。こうして純粋理性の存在が、確認されれば純粋理性の使用だけが、内在的使用ということになる。理論的認識を、本質的に規定するのは直観であり、意志を本質的に規定するのは、原則と概念である。だから実践理性は、道徳的原則から出発しなければならないのである。実践の世界では、直接的内在的な仕方でもって、その確実さと真理を証明する。実践の世界で問題となるのは、理性と外的事物との関係ではなく、内的なものである意志との関係である。

 この意志は、表象に対応する対象を産出する能力であるとする見方と、さもなければ意志の原因性を規定する能力であるとする、見方のうちいずれかである。原因性の概念と自由の概念は、純粋理性批判でその存在が認められたが、経験的には提示できなかった概念である。純粋理性は、理論理性と並んで実践理性でもある。また実践的とは、がんらい意志と行為とに関するという意味であるが、しかしカントにあっては、実践理性による意志規定の根底には、道徳的法則が置かれているという、見解に根ざしている。そして実践的には、これは同時に道徳的あるいは道徳に関するという、意味を含むことになる。カントは「すると理性のかかる実践的能力とともに、今度は先験的自由も確立される。しかもこの自由が絶対的意味において確立されるのである。------やはり絶対的意味における自由を必要としたのである。しかし思弁的理性は、かかる自由の概念を蓋然的にしか------換言すれば、それを考えることが不可能でないという意味でしか定立することができなかった、」(12)と述べている。この自由という概念は、その実在性が実践理性の法則によって証明されれば、純粋理性の基本をなすのである。

 カントは「神および不死という二概念の可能性は、自由が現実的に存在するということによって証明されるのである。自由の概念が道徳的法則によって現実的に開示されるからである。」(13)と述べている。しかし自由の概念は、三個の理念のうちわれわれ人間には、その可能性を洞察できないけれども、しかし、これをア・プリオリに知っている唯一の理念であるとしている。そして神と不死の概念は、道徳的法則によって自由の概念との関連において、この概念と共に客観的実在性を得るのである。さらにカントは「自由は、我々の知っている道徳的法則の条件をなすものだからである。ところが神および不死という二つの理念は、いずれも道徳的法則の条件をなすものでなくて、道徳的法則によって規定せられた意志の必然的対象------還元すれば、我々の純粋理性を実践的にのみ使用する場合の対象(最高善)の条件をなすに過ぎない。」(14)と述べている。とすると、神および不死の概念については、現実性やそれが可能であるとか認識することなどは、主張することはできないことになる。だから道徳的法則は、われわれが何をなすべきかという道徳的行為のあり方に答える、誰にも通用する根本原理なのである。

 しかしこの二つの理念は、道徳的に規定された意志をこの意志にア・プリオリに与えられた対象である最高善に、適用するための条件なのである。このような根拠は、やはり純粋ではあるが、しかし、実践的な理性には客観的に妥当するのである。こうして神および不死の理念には、自由の概念を理解した上で客観的実在性と、これらの理念を想定する権能とが、与えられるのである。カントは「自由は確かに道徳的法則の存在根拠であるが、しかしまた道徳的法則は自由の認識根拠である。」(15)と述べている。自由としての原因性と自然的機構としての原因性とは、自由としての原因性は道徳的法則により、また自然的機構の原因性は自然法則によって同一の主観、すなわち、人間のうちに確立されている。しかし、人間における両者の結合は、われわれ人間を道徳的法則に関して物自体としての存在者自体として、認識できないものとして捉えたのである。また自然法則に関しては、現象として道徳的法則を純粋意識において、また自然法則を経験的意識において考察し、把握することでなければ不可能であるとしたのである。


【注】

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