布をみる−日本語教育における文化交流授業の実践報告と文化交流学習準備のための教師の自主研修活動について−
博士後期課程 稲村 すみ代
(1)留学生によるバティックの染め方紹介ほか、文化交流授業について
筆者担当の留学生クラスでは、日本語学習終了前に、「自国の文化発表会Show & Tell」」というクラスイベントを行っています。「あいうえお」の学習や「はじめまして。わたしは○○です。」という会話練習からスタートしたクラスが、4ヶ月前後でインテンシブコースの初級文法学習を終えます。コース終了前に、日本語初級の仕上げとして、クラス内で自国の文化を紹介し合うのです。(日本の中学生が中学校3年間をかけて習う初級英語と同じレベルの初級日本語を4ヶ月で詰め込むので、留学生からはシンカンセンコースと呼ばれています。)
最初に教師から日本文化紹介をして、そのあと、これまで習った日本語を使って、自国の地形風景文化などを紹介します。日本語が短期間に上達した人もまだ学習不十分な人も、和気藹々で発表し合います。先学期の終わり、7月にはバングラディシュの男性衣装について、エジプトのピラミッドについてなど、多彩な発表がありました。このクラスにはインドネシアからの留学生もふたりいて、女性は「インドネシア料理」について、男性は「バティックの染め方」について発表しました。
インドネシアからの男性留学生は持参のバティックシャツをかかげて、メモの紙を見ながら一生懸命臈纈(ろうけつ)染めの方法を説明し、他の国の留学生も理解することができました。クラスメートから「布の上に防染のために置いた蝋は、どうやって取るのか」という質問が出て、彼は「お鍋に水を入れます。熱くします。水はお湯になります。え〜と」と、説明に詰まってしまいました。「湯をわかす」や「〜が〜に溶ける」という表現をまだ習っていなかったからです。「お湯をわかして、布を煮ます。蝋がお湯に溶けます。The wax melts in hot water. 蝋がなくなって、綺麗なもようが見えます。」と、教師が助太刀しました。
これまでの留学生文化発表授業でも、パキスタンの伝統的な絞り染めについての発表などがあり、文化紹介の授業は留学生にとっても日本人学生にとっても、異文化を広く受け入れる気持ちを養成することができる大切な機会です。
留学生発表の内容に興味を示して質問をすることが、学生の意欲を引き出す契機ともなり、発表の助力をするにも様々な地域の文化を知っている必要があります。日本語教師に必要な能力として、日本語に対する言語学的知識と第二言語教育理論の習得が基礎となりますが、異文化理解も日本語教師には自己研鑽に努めるべきもう一つの分野です。教師の方もあらゆる機会を捉えて、世界の多様な文化について知識収集に努めなければなりません。
10月31日、出講先の大学のひとつが文化祭準備日で授業は休講になりました。この休講日を利用して、大倉集古館で開催されていた「インドネシア更紗のすべて展」と文化女子大学博物館で開催の「世界の藍展」を見ました。
(2)インドネシア更紗展
インドネシア更紗展はインドネシアと日本の国交樹立50周年記念の催しで、インドネシア大使館、ジョクジャカルタ王宮、インドネシアバティック協会などの後援を得た、大規模かつ充実した展覧会でした。「インドネシア更紗のすべて−伝統と融合の芸術」というタイトル通りの、古今の、そしてインドネシア全地域のバティックを一堂に見渡すことのできる見事な作品が並んでいました。
バティックは、もともとインドネシア各地で独自に発達してきた臈纈(ろうけつ)染めです。王宮の公式衣装として取り入れられて以来、色や文様に大きな発達を遂げました。王宮のバティック、北部海岸、外島、農村、現代の潮流、という地域やテーマごとに展示されており、各地域の特徴と歴史的な流れが俯瞰できる展示方法でした。
共和国として独立後は、初代のスカルノ大統領がバティック染色工匠のパネンバハン・ハルジョナゴロを高く評価したことから、バティックが大きな発展を遂げ、今ではインドネシアの一大産業として広く輸出されるに至っています。500もの言語と多様な民族文化を擁するインドネシアにとって、バティックという染色文化は、国民をつなぐ「文化的アイデンティティ」であると言えます。地方ごとの文化であったバティックを「インドネシア全土の文化財」として統一させたパネンバハン・ハルジョナゴロは、「バティックの背景には農業を基盤とした神と人が一体化した肥沃の哲学がある」と述べています。
ここで、日本の布の染め物史をざっと見ておきましょう。奈良時代前後に唐草文などが中国経由で伝わりましたが、平安以後、布地への染色による文様はあまり発達しませんでした。最初に糸を染め、布を織り上げる過程でさまざまな文様を生み出す精緻な「織り柄」の技術が発達し、貴族階級の衣服となりました。
布地への染色は、絞り染め、板じめ染めなどによって庶民の衣服(麻、藤、楮など)に施されたのみで、細かい文様は出せませんでした。農民を出自とする武士階級は、この「布地への染め」を好んだため、武士の力が強まるにつれ、布染めの技術も発達しました。室町末期には、「辻が花染め」と呼ばれた布地の染め物が上層階級に重用されるに至ったのですが、「辻が花染め」は途絶えてしまい、長い間「幻の布」と呼ばれていました。しかし、近年になって染め方が判明し、復活しました。
更紗(さらさ)は、インド起源の木綿地の文様染め物を起源とし、アジア、ヨーロッパなどで作られた類似の文様染めの布を指す染織工芸用語です。英語のchintzは、つやのある更紗木綿を指します。更紗布は、木綿が主ですが、絹織物への染色もあります。
室町から戦国期に南蛮貿易が盛んになり、ジャワ(インドネシア)、シャム(タイ)、インドなどから更紗の布がもたらされました。これらの布地は茶人に珍重され、茶道具の仕覆、茶杓の袋などに使われました。南蛮貿易が幕府独占となった江戸時代以後、大名家お抱えの染色工房や民間の工房から、和更紗という独自の更紗模様が染め出されるようになり、鍋島更紗など、高い技術を示す染色文化が生まれました。
日本では、更紗は高級品の扱いだったので、木綿のほか絹織物も多く、江戸の上層社会に好まれ、小袖などに仕立てられました。和更紗の図案を集成した『佐良紗便覧』が、江戸時代中期1778(安永7)年頃に刊行され、更紗文様が普及したことがわかります。和更紗とは、臈纈染めだけを指すのではなく、南蛮渡来の文様を取り入れた染め物全体を指しています。
インドネシアバティックは、各地の文様が交流しつつ発達してきました。さまざまな文様の受容能力が高く、中国文様、ヨーロッパ文様などをどんどん伝統文様に取り入れてきました。オランダ統治時代には、オランダ人経営の染色工房を中心にヨーロッパの意匠を取り込み、インドネシア更紗展にも、「赤頭巾ちゃんもよう」「天使もよう」などがありました。(下図は、カタログ『インドネシア更紗のすべて』より、p97の赤頭巾ちゃんと狼の文様のバティック)
日本統治時代には、「大日本奉公会」がバティック制作に関与し、日本風の文様がインドネシアバティックに取り入れられ、「ホーコーカイ様式」というひとつの染め方が定着しました。インドネシア語に「ホーコーカイ」という外来語が定着したのも面白いことですし、日本的な文様がインドネシアバティックのなかに定着していく過程も興味深いと感じました。
ジャワ更紗の伝来によって、細かい文様の出せる染め物技術が日本に伝わり、和更紗を生む。和更紗の伝統文様が「大日本奉公会」によってインドネシアバティックに取り入れられ、「ホーコーカイ文様」として定着する。このように、文化は世界をめぐってきました。
(3)世界の藍展
文化学園服飾博物館1階2階の展示室に、世界中の藍染めの衣装が展示されていました。アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパ。世界各地に独特の藍染めがあります。世界中の藍染めの衣装、多種多様で多彩な表情がありました。
藍には、日本の蓼藍、インドのインド藍、ヨーロッパのウォードなど、植物染料もさまざまな種類があります。日本の藍染めは、中国から伝わったのち、日本で独自の発達を遂げ、近年まで四国土佐地方の藍染色がよく知られていました。19世紀以降、日本の文物がヨーロッパの万国博覧会などに出品されるようになると、日本の藍は「Japan blue」と呼ばれて、人気を博しました。
「世界の藍展」展示の藍染め布のなか、インド西部のマスリパタム地方の木綿捺染藍染めやグジャラート州の木版捺染藍染めが美しい文様を見せていました。生命樹、花、孔雀、水滴などの花鳥模様を布に施した布地です。このインドの花鳥文様の起源はペルシャとされています。
インドのカシミール地方などで発達した水滴や植物文が、イギリス植民地時代の1800年頃、スコットランドのペイズリーに移植され、「ペイズリー文様」が量産されるようになりました。現代の染色用語では、ペイズリー(paisley)あるいはペイズリー柄とは、松かさ、菩提樹の葉、また太極図に似た水滴状の模様などを指しています。
(4)シルクロードを通って運ばれた唐草文
現代でもなじみの文様のひとつが「唐草文」です。「風呂敷の染め」として広く知られた文様ですが、風呂敷に限らず広く用いられてきた文様です。この唐草模様は、ツタがつるをのばして絡み合うのを図案化しており、古くメソポタミアやエジプトの古代文明の遺跡遺物にも蔦(つた)葛(かずら)文様が見られます。ヨーロッパでは、この蔦葛文様を、「アラビア風文様」という意味で「アラベスク」と呼んでいます。
日本へはシルクロードを通って、ペルシャから中国へ伝わった文様として伝来しました。唐から到来した植物文様全体が「唐草文様」です。このうち蔦葛文様が簡略化され、「繁栄を表す吉祥文様」となったものが、風呂敷図案によく用いられた唐草文です。
唐草文様、アラベスクは、現代デザインにも取り入れられ、ウイリアム・モリスなどのデザイナーによって、現代的な意匠のなかに生かされています。
(5)おわりに−染色文化・交流の歴史
室町時代に日本に到来したジャワ更紗などから、日本独自の更紗染めが生まれました。その文様がインドネシアに伝わり、「ホーコーカイ文様」になりました。また、藍の文様は古代ペルシャや古代インドを源流として世界各地の藍染めが影響を与えあい、発達を遂げました。ペルシャ地域を起源とする蔓草文様は、西へ向かったものはヨーロッパの「アラベスク」となり、東に向かったものは日本の「唐草文様」になりました。
以上、更紗染め、藍染め、唐草文様など、染色文化の一端を見ただけでも、各地の文化が相互に影響し合い、融合していく過程でより豊かな様相を見せていくことを理解できました。
日本語教師は、日本語を母語としない人々の文化のなかで授業をすることが必然のことになっています。異文化理解が仕事の重要な要素になっていると言えます。この20年間、日本語の授業や日本文化の授業を通じて、世界中から日本へやってくる留学生と出会って来ました。これまで出会った留学生の国籍は、世界全地域から百ヶ国にのぼります。今期受け持った中にも、グアテマラから来た言語学者、チリから来た法律研究者、ケニアの数学教育研究者など、日本で研究の進展をはかったり、博士号取得のために張り切っている留学生がいます。彼らとの交流を楽しみつつ、これからも文化交流や異文化理解の自己研修を続けて、より広く豊かな文化世界をめざす日本語教師でありたいと願っています。
参照文献
吉岡幸雄『日本の色を染める』岩波文庫 2002
『日本の藍・ジャパン・ブルー』京都書院 1997
『和更紗紋様図鑑』京都書院 1996
展覧会カタログ
『世界の藍―Indigo blue』文化学園服飾博物館 2008
『インドネシア更紗のすべて―伝統と融合の芸術』 2007