必然性をになうものが現実的である
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
F・ヘーゲル(1770−1831)の有名な命題で「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である。」(1)という言葉が『法哲学』の序論に叙述されている。これは現実的なものは、すべて合理的であり合理的なものは、すべて現実的であるという意味である。一見してこの言葉からくる印象は、現存するすべてのものを合理的なものとして神聖化し、専制政治の支配する当時のプロイセン政府の、反動的な政策を哲学の名において、評価するがごとく見られたのである。これには当時のプロイセン政府は、大いに喜びそれとは反対に自由主義者たちは、大変憤慨したものであった。F・エンゲルス(1820−1895)は、この命題について「しかし、ヘーゲルにあっては、けっして、現存するすべてのものが、そのまますぐさま現実的であるというのではなかった。彼にあっては、現実性という属性は、同時に必然的であるものにだけあてはまるのであり、------」(2)と述べている。ヘーゲルによれば現実的なものは、それ自身必然的であり、そして現実は、それが自己自身を展開するときにおいて、必然性(Notwendigkeit)として現れるとしているのである。だからヘーゲルからみれば、現存するものだけでは決して、現実的であるとはいえないのである。
さらにエンゲルスは、この命題について「しかし必然的であるものは、結局のところ、合理的でもあるものとしてあらわれる。そこで、当時のプロイセン国家にあてはめると、ヘーゲルの命題は、次のようになる。すなわち、この国家が合理的であり、理性にかなっているのは、それが必然的であるかぎりのことであって、そこで、その国家がそれにもかかわらずわれわれに悪いものだと思われ、しかもそれが悪いものなのに、存在しつづけるとすれば、政府の悪さは、これに対応する臣民たちの悪さうちに、そうあるべき理由があり、------当時のプロイセン人は、自分たちがもつべきはずの政府をもっていたわけなのである。ところで、現実性は、ヘーゲルによると、あるあたえられた社会的、または政治的状態にどんな事情のもとでもまたいつでもそなわっている属性では決してない。それとは反対である。」(3)と述べている。このように現実性(Wirklichkeit)は、単に現存するというだけではなしに、同時に必然的なものだけとしているのである。ヘーゲルにあって哲学の目的は、諸事物の必然性を認識することにあるとしている。必然的とは、客観的な根拠にもとづいて、必ずやそうなるというものであり、つまり、そうなる以外にはありえないという意味である。合理的とは、理にかなっているという意味のことであり、そうなるべく根拠をもっているということである。
これまでの経過を得て現実的であったものは、すべてにおいて事物が発展していくなかで非現実的なものとなり、その実在的で必然的であったものが、合理性を失っていくのである。そして、消滅してゆく事物や事柄は、現実的なものに変わり新しい生活力のある、現実性が現れてくるのである。だから、必然性を担うものこそが、真に合理的であり現実的なのである。このようにヘーゲルの命題は、弁証法そのものによってその反対物に転化する。すなわち、われわれ人間の歴史の領域で現実的であったものは、すべてにおいて時間がたつにつれて条件が満たされず非合理的なものになり、したがって、元々定められているところから捉えるということは、非合理的なのであり潜在的に非合理性を、背負わされているのである。そして、われわれ人間の認識のうちに合理的であるものは、すべてにおいて現存する表面的な現実性に、如何に矛盾しているにしても現実的なものに、なるように定められている。現実的なものはすべて合理的であるという命題は、ヘーゲルの思考方法のあらゆる規則にしたがって他の命題に、すなわち、すべて現存しているものは滅亡するにあたいする、という命題に解消するのである。
ヘーゲルにおける認識の立脚点は、彼の徹底した現実主義の下にあり、この立場のうちに見出されるのである。つまり、あくまでも現実から出発して、現実へと環帰するという捉え方が、ヘーゲルの一貫した立場なのである。というのもヘーゲルにあっては、絶対者たる精神や理念はけっして、彼岸的なものではないからである。ヘーゲルにしたがえば、理念は現実にこそ存するもので、これこそ理性の核心なのである。だから、哲学が取り扱うものは、現実的なものであるとかれは言うのである。つまり、ヘーゲルは、現存するもの、すなわち、現在の中に理念が確実にあると言う確信に基づいて、あくまで現実から出発し、かつまた、それに終始すべきだと考えているのである。われわれは、世界史を概念的に把握する場合において、まず、はじめにその歴史を過去の事例や事柄として、取り扱うのである。しかし、同時にわれわれは、まったく現在をも取り扱っているのである。このようにヘーゲルは、過去のうちにあっても常に現在をはなれずに、過去に対する歴史的研究を常に現実問題の究明として、行うべきと考えたのである。こうした現実主義の立場にたつヘーゲルにあっては、過去の認識といえども決して現在の立場を、はなれるものではあり得ないのである。
ヘーゲルは「可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立される、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。」(4)と述べている。そして「可能性は、現実性の単なる内面にすぎないから、まさにそれゆえにまた単に外的な現実性、すなわち偶然性である。偶然的なものとは一般に、その存在の根拠を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持つものである。現実性が最初意識にあらわれるのは、このような姿においてであり、人々はしばしばそうした姿を現実性そのものと混同する。しかし偶然的なものは、他者への反省という一面的な形式のうちにある現実性、あるいは単に可能なものという意味における現実的なものにすぎない。」(5)としている。したがって現実性は、可能性との連関において考察されなければならない。単なる可能性が実現することは、それが偶然性であり必然的なものではない。それはその実現の根拠を、自分自身のうちにではなく外的なもののうちに、依存するものである。そして、それが実現するかどうかは、外的な諸条件に依存している。であるからして可能性と偶然性は、現実的なものの外面性をなす、単なる形式にしかすぎない。あることが可能であり偶然であるかどうかは、その事物の内容にかかわっており、この場合は形式と内容が異なっているのである。
偶然性と可能性は、現実性の一面的な要素であり、それは、現実性そのものではない。ヘーゲルは「偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄(Aufheben)されており、定有的な外面性である。」(6)と述べている。現実の外面性をなすもの、すなわち偶然性(Zufalligkeit)をより立入って考察してみると偶然的なものは、偶然そこにあるものが他のものの可能性になる。偶然にそこにあるものを利用して、他の物に転化するのである。そしてヘーゲルは「現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性である。このような円としてそれはさらに統体制であり、したがって内容、即時かつ対自的に規定されている事柄である。」(7)としている。或るものの実現を可能ならしめる諸条件が整えば、可能性は現実的にならざるをえないのであり、このような可能性は、実在的可能性である。実在的可能性においては、新しい現実のためのすべての諸条件が整うことにより、それが成熟していき新しい現実が生まれるわけある。
このように、単なる可能性とちがって実在的可能性は、もう他のものではありえない必然的なものであり、この意味において実在的可能性は、必然性そのものである。そして条件は、新たな現実になっていく可能性であるが、それらは事柄のための材料であり、受動的な可能性である。また、すべての条件が整ったものは、現実化するということであるからして、すべての条件がそろった実在的可能性は、事柄の内容を整えている。事柄は、これらの条件を内容として現実化するので、それは諸条件の相対によってこそ自分を、事柄として示すことになる。またそれは、他から現出するのではなくて、条件から現出するものである。実在的可能性の現実性へ転化するということは、内的な可能性が実現して外的な直接性になるということである。そして条件という外的な直接性は、新しい現実化したものの生成する過程のなかで、そのうちに取り込まれて同一のものとなり、新たに実現した現実の内容に転化するのである。このような条件が成熟していくと、益々事柄の内容が明らかになり、やがては事柄が諸条件の成熟を促すことになる。そして条件は、自ら成熟して事柄を生み出すとともに、事柄が条件の成熟をさらに促すように働くのである。必然性は、可能性が実現して実在的なものとなることであり、この意味からして必然性は、可能性と現実性との統一である。
ヘーゲルは「必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。」(8)とで述べている。現実性において事物は、本質と現象との統一としてより、具体的で現実的な姿において、捉えられ再構成される。したがって事物は、われわれ自身の感覚の直接的な対象としての、個々のものとして存在するのである。そして、同時に内的外的な諸連関の絡みあいの中にあって、個々に存在しているところの一個の、必然的なものである。であるからして、この分析の主な対象は、この一切の現実的なものであるところの、必然性とその諸形態である。ヘーゲルは、この必然性を可能性と現実性との、統一として捉らえたのである。
【注】
- (1) ヘーゲル著、藤野、赤沢訳『法の哲学』中央公論新社、2001年p.4
- (2) エンゲルス著、森宏一訳『フォイエルバッハ論』新日本文庫、新日本出版社1975年p.14
- (3) 同上書p.15
- (4) ヘーゲル著、松村一人訳『小論理学』下、岩波文庫、昭和39年p.88
- (5) 同上書p.89
- (6) 同上書p.92
- (7) 同上書p.94
- (8) 同上書p.95