斎藤茂吉と森鷗外

博士後期課程 小泉 博明


 茂吉と鷗外と言えば、両者の共通項は文学者であり、医学者であった点である。むしろ、医学者であり、文学者であったという方が正確であろう。厳密に言うならば、茂吉は精神科医(青山脳病院院長)であり、歌人であった。鷗外は陸軍軍医(軍医総監)であり、小説家であった。
 とは申しても、茂吉は鷗外よりも20歳も年下であり、東京帝国大学医科大学のはるか後輩である。両者がはじめて逢う機会を得たのは、伊藤左千夫に随い、鷗外が自邸で開いていた観潮楼歌会の例会に参加した時で、明治42年1月9日のことである。観潮楼は、文京区千駄木の団子坂にあった。その跡地は今では文京区立鷗外記念本郷図書館となっている。鷗外は48歳で、陸軍軍医総監という要職にあり、茂吉は28歳で、現役の医科大学生であった。後に鷗外は、帝室博物館長にまでなった。おそらく、仲睦まじく、会話をするような状況では、到底なかったであろう。文学サロンとも言うべき歌会で、与謝野鉄幹、上田敏、石川啄木、木下杢太郎、吉井勇など錚々たるメンバーを知ることとなり、初対面で緊張症の茂吉の様子が想像されるのである。茂吉は、次のように回想する。

 何しろ私も未だ医科大学の学生で、鷗外先生が何となし恐ろしかった時分である。床の間にも雑然と書物が置いてあって、その和漢洋の文学書の間に、ドイツ文で書いた看護学の本のあったのを、そっと手にとって見たりして、かういふ事にも先生が休まずに注意して居られることを知った時分である。
 夕餐には必ず酒が出、量は少いが酒は上等だったので左千夫先生などはときどきいい気持になられたものである。はじめは歌の批判も随分盛で、左千夫先生などその無遠慮に論じあふ主なものであったのであるが、だんだん歌の話が少くなり、一般文学論哲学論などに移行して行った傾向があり、その相手は主に木下杢太郎氏であった。お二人がいろいろと洋語を交へてむづかしい事を話して居られるのを私などもひそかに聴いてゐるものであった。
(『森鷗外と伊藤左千夫』)(1)

 歌だけでなく、文学論、さらに哲学論へと話題が発展していく、この歌会は茂吉にとって大きな精神的財産となったのである。そして、この出会い以来、茂吉の鷗外への畏敬と敬愛の念、そして同じ医学者としての親近感と傾倒は、終生にわたるものであった。おそらく、長崎医学専門学校を辞め、博士号取得に向け、欧州留学へ決意したのも、医者と小説家で活躍している鷗外の存在は、決して小さくなかったと推測できよう。
 茂吉は、世の脚光を浴びた、第一歌集『赤光』に続き、第二歌集『あらたま』を刊行した。ここには、巣鴨病院勤務の大正2年から、長崎医学専門学校教授に赴任した大正6年までの作品が収録されている。その題名を鷗外の文章から採った由来について、『あらたま』の「編輯手記」に次のようにしている。

 森鷗外先生の文章に、『次第に璞(あらたま)から玉ができるやうに、記憶の中で浄められて、周囲から浮き上がって、光の強いものになってゐる』といふのがあった。又、   『まだ璞の儘であった。親が子を見ても老人が若いものを見ても、美しいものは美しい。そして美しいものが人の心を和げる威力の下には、親だって老人だって屈せずにはゐられない。』といふのもあった。僕は自分の歌集が佳い内容を有ってゐることを其の名が何となし指示してゐるやうな気がして秘かに喜んでゐた。(2)

 茂吉には『森鷗外先生』という随筆がある。大正10年9月に、ヨーロッパ留学前に、帝室博物館へ、平福百穂画伯と共に訪問した。その時の模様を次のようにいう。鷗外は、帝室博物館長であった。また、ここには鷗外の小説、とくに歴史小説の批評も記している

 先生は、にこにことして私ども二人を迎へられたが、頭髪を非常に短く刈って、そして、背広の服を着て居られたので、私には珍しく感ぜられた。私は久闊を謝した。その時先生は、『斎藤君は西洋に行かれるさうだが、僕などは実にうらやましいね』
 こんなことを云はれた。私は西洋に行かうと決心してから、長崎で病気になって長崎を去ってからも、いまだ證候が残ってゐたので、信濃の富士見高原で養生してゐたぐらゐで、夜半に目など覚めると、遙々西洋に行って為事をしようといふのに不安を感ぜざるを得なかったこともある。そこで先生の無造做な言葉が、私はいかにも力強く響いたのであった。私は急に晴々した面持になって、向うに行ってからの覚悟なんかをいろいろ先生に問うたりした。いま思へば、どうも少しはしゃいで居ただろう。(3)

 茂吉が、年長を前にして「はしゃぐ」とは珍しい光景である。年長の前では、とくに鷗外先生の前では、自分の意図したように、思うように話が出来ず、緊張の為に汗をかく茂吉にしては、留学前にして、期待と緊張の交錯する中で、相当の精神的昂揚があったのであろう。茂吉は、鷗外に会う以前に、留学前の不安を大正10年1月20日付の島木赤彦宛の「他言無用」という書簡で記している。

 僕はどうしても医学上の実のある為事をする必要がある。それには国を離れていろいろの雑務から遠離して専心にならねば駄めなり。小生は外国に行けば必ず為事が出来ると信ず。(略)小生は今まで医学上の論文らしきものを拵へたるためしあらず、そのため暗々のうちに軽蔑さるゝこととなる。(略)たゞ茂吉は医学上の事が到々出来ずに死んだといはれるのが男として、それから専門家として残念でならぬ、(4)

 茂吉は、スペイン風邪で入院し、その後喀血があり、温泉で療養するなど、体調が万全ではなかった。そのような状況での、茂吉の留学への覚悟と不安が、鷗外を訪問して気が楽になったのである。そこには、医学者であり、文学者である両者にだけ相通ずるものがあったのであろう。

 次の歌は、茂吉がヨーロッパへ留学中のことである。大正11年8月28日に、ベルリンへ二度目の滞在をした時に、大使館へ行って、森鷗外先生の訃報を知る。記事は、7月10日の東京朝日新聞であり、驚愕したとあり、茂吉にとっての大きな精神的な支柱を喪失することになったのである。

伯林にやうやく着けば森鷗外先生の死を知りて寂しさ堪へがたし  
(『遠遊』大正11年)

 その後茂吉は、刻苦精励し、大正11年からのウィーンでの研究をまとめ、大正12年4月に「麻痺性痴呆者の脳図」を完成し、学位論文の印刷が出来た。その時の感慨を次のように歌った。

ぎりぎりに精を出したる論文を眼下に見をりかさねしままに  
(『遠遊』大正12年)

そこで、レポート提出の間際の心境を、小生の駄作に記す。
ぎりぎりに精を出したるレポートを添付ファイルに為損(しそこ)ねたり


【注】
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