カントにおける人間的自由(1) 自由の概念

                       人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司


 歴史上さまざまな思想家によって、自由について検討され思想と哲学の立場からその意味が、吟味され展開されてきた。自由という概念は、本来的には政治的なものであるが、それを思想の問題として捉えるということである。一般的に自由ということの意味は、何々をするという自由であり、何々からの自由であることの表現であるとみなされる。すなわち自由とは、われわれ人間が拘束されているものから開放され、あらゆる可能性が与えられることである。人間的な自由は、各人が人間らしく生きていくという意味であり、不自由からの脱却を求めるという真の人間解放として、捉えることである。だからわれわれ人間が自由を求めるということの意味は、人間らしく生きるということであり、真なる人間性の発展と真の自由を、獲得するということである。このように自由とは、人間が行為をするにあたり、その行為を妨げる圧力からの自由であり、強制的に他に退けられることからの、自由を意味するものである。このように自由という言葉には、様々で多様な意味が存するのである。そこで自由という概念の意味を思想の問題として捉えるに、人間の自由ということの意味について、吟味することである。

 J・ジャック・ルソー(1712−1778)は人間の自由について「人間は生まれながらにして自由であるが、しかし、いたるところで鉄鎖につながれている。」(1)と述べている。さらに古典的な自由主義思想家のJ・スチュアート・ミル(1806−1873)も自由について「この論文の主題は、哲学的必然という誤った名前を冠せられている学説に実に不幸にも対立させられているところの、いわゆる意志の自由ではなくて、市民的、または社会的自由である。換言すれば、社会が個人に対して正当に行使しえる権力の本質と諸限界とである。」(2)と述べている。このように、必然に対する意志の自由あるいは必然と自由の問題は、自然や社会の必然性や法則性と人間の自由との、かかわりの問題である。それは自然や社会に対する人間の問題は、自然や社会の必然性と法則性の認識にもとづいて、自然や社会を人間が改良していく自由の問題である。自由は、これを認識することによって、獲得されるものであり、換言すれば、人間の自由とは、必然性の洞察とこの洞察にもとづく、必然性の利用によって成り立つものである。だから人間は、もともと自由であったものでも、人間であるがゆえに自由であるものでもなく、人間の自由は歴史的に次第に、獲得されてきたものなのである。

 F・ヘーゲル(1770−1831)も自由と必然について述べている。「しかし、これまでみてきたように、必然性の過程は次のようなものである。------他と関係しながらも、自分自身のもとにとどまり、自分自身と合致するということを示すのである。これが必然性の自由への変容であって、この自由は単に抽象的否定の自由ではなく、具体的で肯定的な自由である。ここから、自由と必然とを相容れないものと見るのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる。」(3)このように人間の自由については、その意味が検討されてきたのである。従来思想と哲学の立場からの自由論は、必然に対する意志の自由、あるいは必然と自由の問題として展開されてきた。F・エンゲルスは(1820―1895)は、自由と必然について吟味するに、これらの法則の認識のうちにあるとして「ヘーゲルは自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。必然性が盲目なのは、それが理解されない限りにおいてのみである。自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることである。」(4)と述べている。

 J・ロック(1632−1704)やルソーの自然権思想の基底をなすものは、人間への限りなき尊厳と信頼であり、一義的なものはわれわれ人間の生活を支えている衣・食・住に関する権利要求も含まれる人間の社会的生活の発展や、社会的生活上での自由の拡大の過程とともに、人間の身体的要求であるとしている。そして、これらの要求が表現されたり抑圧されたりする様々な制度や国家の諸形態は、法的な保障をも含む社会的自由の拡大も、自然的条件の統御の場合と同様に、二次的なものとされその両者が区別されている。先にも見たようにルソーは「人間は生まれながらにして自由であるが、しかし、いたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼ら以上に奴隷である。」(5)と述べている。さらに「人間は善に対して生得的な知識をもっているわけではない。しかし理性がそれを人間に教えるやいなや、良心は、人間がそれを愛するようにさせるのだ。この感情こそが生得的なものなのである。」(6)としている。このような思考の根幹をなしている思想は、ルソーによる人間の尊厳への信頼を表現する正義と善意という原理的なものであり、理性的な人間の尊厳を希求する思想である。

 ロックは、まず自然の状態について、自然法の見地から人民主権の原理を唱えて「自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を、処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人より多くもつ者は一人もいない。なぜなら、同じ種、同じ等級の被造物は、分けへだてなく生をうけ、自然の恵みをひとしく享受し、同じ能力を行使するからである。すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえないということは何よりも明瞭だからである。------したがって本性上、平等である他人からできるだけ愛してもらいたかったら、彼らに対しても全く同じ愛を与える自然の義務がある。われわれと、我々自身と同じである人々との間のこの平等な関係から、自然の法として働く理性が、どのような種々の規則や規範を生活の指針として引き出しているかについて、知らない者は一人もいないのである。」(7)と述べている。このように自然状態には、これを支配する一つの自然法があり、何人もそれに従わねばならない。この法たる理性は、それ捉えようとするならば、すべての人間に一切は平等かつ独立的であるから、何人も他人の生命・健康・自由または財産を、傷つけることはできないとしている。

 このように自由とは、必然性の認識であり必然性が認識されていないときには、まったく盲目的である。人々は、必然性を認識した場合においてはじめて、自分の運命を自覚的に掌握することができ、自覚的能動的な地位を得ることができる。そして、自分の行動のために正しい計画や進め方を決めて、自分の行動が予期した目的に到達しうるように、することが可能となる。われわれ人間は、この行為における自覚性と能動性こそが、本来的な自由を意味するものである。自由というものは、自然法則から無関係のうちにあるものではなく、この諸法則を認識することのうちにあり、そして、この認識と結び付けられている。自由は、この認識されている諸法則を計画的に特定の目的のために、作用させる可能性にある。だから必然性と自由とは、名々が別個の関係の無いものではなくて、各々が相互連関のうちにあり、必然性は自由に転化することができる。この自由への転化の決定的な条件は、必然性が人々に認識されることのうちにある。

 必然性と自由について、もう少し詳しく見てみると、必然性の概念は、事物の連関と発展が客観的な決定的性質を持っていて、それが規定する発展の客観的な傾向は一定不変のものであり、人間の主観的意識が勝手に自由に選択をする余地が、無いことを説明する。だから必然性と自由の概念は、はっきりした対立的意義を含んでいる。自由は、事物の発展する必然性の一定の歴史的な条件の下における産物であり、人間社会の歴史の発展過程における、客観的に存在する属性である。人間の社会生活においては、自然界と同じように盲目的な必然性の支配を受けている場合がしばしばあって、人々はこの場合に自分の運命を、自ら掌握することができなかった。やがて人々は、自然と社会の客観的必然的な法則を認識することによって、必然的な法則性の制限性をも、把握することができるようになった。こうして人々の行動は、盲目的な受動的な状態から抜け出して、自然や社会に対して自から能動的に対応して、自分の運命を掌握することができるようになった。自由という概念は、客観的な内容も意義もこの点にあるのであって、自由の概念が必然性からまったく隔絶したような、主観的な意志の自由ではけっしてないのである。

 こうした人間の尊厳という思想を基礎とする人民主権は、基本的人権の主張とその擁護を伴っている。われわれ人間の自由と民主主義的に生きる権利のうちには、人間が人間らしく生きるための思想とその人間性の故に属する、根源的な権利である。そして、人間が単に生きるためにだけでなくして、人間らしく生きると共に善く生きるために、すなわち、人間性を保持し人間的に生きる、ためのものでもある。このようにルソーとロックの根幹をなす思想は、始元的な自然権から出発している。その人間の権利とは、生命・自己保存・独立の権利であるといえる。ロックにとって、人間の自然的な自由とは「自分の行動を定め、自分の所有と身柄とを思うようにする自由」を意味している。ルソーにとって自由とは、成人した若者がそれまで依存していた父親や、国家という父親から独立することを意味する。人間らしく生きると共に善く生きるために、すなわち、人間的に生きるためものでもある。人間への限りなき尊厳と信頼というルソーの根本思想は、すべての人間が自然的な自由を守り人間らしく生きるものであり、人間の生命を守るためのものということの意味でもある。われわれ人間は、このような自由の思想を今日的な課題として継承発展させてゆくことはきわめて重要なことである。


【注】 参考文献

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