七転び八起き

人間科学専攻 6期生・修了 柏田 三千代


 私が大学院を修了して2年半が過ぎようとしている。修了しても研究を続けようという意気込みは強く、日々勉強を続けてはいたが、「今日は仕事で疲れたから勉強は明日にしよう。」と、次第に研究への意気込みが薄らいでいった。しかし、このように研究から遠ざかっていく自分自身を何とかしなければならないと思った。そこで、「困った時の神頼み」ではあるが、自分の弱さに打ち勝つために大阪府箕面市にある勝運の寺で知られている『勝尾寺』を訪れることにした。

 『勝尾寺』の由来は、奈良末期新亀4年(727年)善仲・善算両上人が山中に草庵を構え、両上人を師として仏界を求めた光仁帝皇子開成(桓武帝異母兄)が、天平神護元年(765年)彌勒寺を開創する。第六代座主行巡上人は、清和帝の玉体安穏を祈って効験を示した事より、王に勝つ寺『勝王寺』の寺名を賜う。しかし、彌勒寺側は王を尾の字に控え、以来『勝尾寺』を号す。元暦元年(1184年)源平内乱の戦火に消失した堂塔が源頼朝によって再建された後も、勝尾寺は各将軍より壮大なる荘園の寄贈を受ける。現存する薬師堂は源頼朝、本堂・山門は豊臣秀頼の再建である。

 

 『勝尾寺』は、数千年の昔より山自体の持つ霊力によって無類の聖地として崇拝されてきた。源氏・足利氏等各時代の覇者達が当山に勝ち運を祈り、弥勒信仰・観音信仰は勿論の事、役行者慕う修験道・阿弥陀信仰・薬師信仰・聖天信仰行者ら、多くの人々がこの山で己の精神と対峙し、日夜修行を積んできた歴史がある。現代では、試験・病気・選挙・スポーツ・芸事・商売などあらゆる勝負の勝ち運、成功を願い、『勝尾寺』の「勝ちダルマ」を授かり、己に勝って勝運をつかもうとする多くの人々が参拝に訪れている。

 「だるま(達磨)」は、仏教の1派である禅宗開祖の達磨が嵩山少林寺の壁に向かって9年坐禅を続けたとされている姿を模倣した置物である。何度倒しても起き上がる「七転び八起き」という特性から縁起物とされるようになったのである。そして『勝尾寺』の「勝ちダルマ」は「己の弱さに勝つ」の精神が勝運信仰と融合し、不屈の精神「七転び八起き」のシンボルであるダルマを己とみなし、それらを授かるダルマ信仰へと推移していったものである。

 私が『勝尾寺』を参拝したのは、気温30度を超える真夏日だった。山門を抜けると大きな池があり、その奥には石畳の一本道が続いている。そして、木々に囲まれた石の階段を「一体何段上ったのだろう。」と息をはずませながら上っていくと、「勝ちダルマ奉納棚」 が眼に入ってきた。大きなダルマから小さなダルマまで、願いが叶い両眼を入れられたダルマ達が誇らしげに座っていた。私はそのまま足を進め、日本最初の「厄ばらい三宝荒神社」を通り過ぎ、「大師堂」へと向かった。

 

 「大師堂」は真言宗開祖弘法大師を祀り、廻りに弘法大師ゆかりの四国88ヶ所の御砂踏み場が建っている。四国88ヶ所霊場より持ち帰られた砂を踏むことに依って、各霊場に御参りしたことと同じ功徳が与えられると言われている。私は「なんて便利なんだろう。」と、砂に片足を乗せていった。初めは簡単に考えていたが、各霊場の砂半分を過ぎた頃には、汗が流れ落ち、その疲労感から「止めようかな。」と思った。しかし、途中で止めてしまうと、「己に勝つ」ために『勝尾寺』に来た意味がなくなると思い直し、最後まで砂に片足を乗せ続けた。88ヶ所目の砂に片足を乗せた時には、私は少しばかりの達成感に浸り、ニッコリと微笑みながら手を合わせた。

 本堂の手前にダルマやお守り、おみくじが売られていた。『勝尾寺』のおみくじは小さなダルマの中におみくじが入っていて、山のように置かれている中から、自分が気に入ったダルマを一つ選ぶのである。私は悩んだ末に一つのダルマを選んだ。おみくじをダルマから取り出し、おみくじを開けて見ると「凶」だった。私がおみくじで「凶」引いたのは、以前訪れた奈良の東大寺以来2度目である。一緒にいた友人が「もう一度おみくじを引いてみる。」と、気遣うように声をかけてくれた。私は「これでいい。凶ってことは今より悪くならないってことだから。」と、前向きに答えた。しかし、本心は「もう一回おみくじを引いて、また凶だったらショックが大きくなる。」と思ったのである。

 私は設置された紐に「凶」のおみくじをくくりつけ、おみくじが入っていたちいさなダルマを鐘の傍に置いた。そして、私は鐘の前に立ち「凶」を振り払うかのように、強く鐘を一回打ち鳴らした。その鐘の音は、大きく大きく『勝尾寺』に響き渡った。私もダルマのように、そろそろ横たえた心を起こすとしよう。

1) 『勝尾寺』配布資料
2) http://www.katsuo-ji-temple.or.jp/



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