なぜ今アフリカ問題なのか
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
日本政府の主導でアフリカ支援について今後のあり方を話し合う第4回アフリカ開発会議(TICAD)が5月28日から3日間横浜市で開催され、アフリカから52カ国の首脳・閣僚・国際機関の代表等が参加した。福田首相は、開発会議の基調演説でアフリカ向け政府開発援助(ODA)を今後5年間で倍増するなどの支援策を表明し、アフリカ成長の新世紀を開こうと訴えた。アフリカはこの先、世界の成長に力強い推進力となると、資源高騰などを背景とする経済成長を始めたアフリカを、積極的に支援する意向を表明した。力強い成長のために何より重要なのは、インフラの充実だと述べアフリカ向け途上国援助ODAの倍増、港湾や交通インフラ整備などに、今後5年間で最大40億ドルの円借款を、提供する意向を表明した。アフリカ向けODAは、円借款や無償資金協力の新規分を段階的に拡大し、2012年には2千億円規模に倍増するというものである。食料高騰問題については、現状に深い憂慮をすると表明し、1億ドルの緊急支援の相当部分をアフリカに向けることを約束したほか、アフリカでのコメ生産高を10年間で倍増させていくと呼びかけた。夏の洞爺湖サミットの主要議題となる地球温暖化問題では、温室効果ガスの排出削減に取り組む途上国支援のために創設した総額100億ドル規模の資金メカニズムを、アフリカ全土に広めていきたいと表明することで、国連改革の必要性を強調したのであった。そしてガボンのボンゴ大統領を手始めに40カ国の首脳らと個別の会談をし、大票田であるアフリカ諸国に対して、安保理常任理事国入りへの支持を求めた。
そもそもこの会議の焦点は、アフリカの貧困救済問題であり、力強く自立したアフリカにするには、国際社会の一致した取り組みが欠かせないという問題意識に、基づくものであった。国際的なアフリカ支援の現状が立ち遅れ、アフリカ諸国が望んでいるレベルにまで達していないのであって、だから会議には、アフリカから52カ国の首脳・閣僚・国際機関の代表が参加したのである。日本をはじめ国際社会は、この会議を機にアフリカの貧困救済に真正面から取り組むことが、求められている。アフリカ大陸は、今日もなおここで世界的底辺の10億もの人々が生存と戦っているのである。この大陸では、大量の民族虐殺がおこなわれ、内戦・難民・テロ・極端な貧困・エイズ等人間社会と国際社会の矛盾が集中して、現れている地域でもある。またアフリカには、最近もう一つの資源大陸としての側面が現れ活況を呈している。それは石油・ガス・レアメタルの産出に伴うものであり、中国・インドの進出による成長へのステップアップなど、アフリカはビジネスとなりつつある。だがしかし、グローバル化の加熱する中で、それは国内の富と所得の格差を広げる結果をもたらし、地球温暖化と食料暴発や貧困と紛争が、激突するという危機を新たに生み出すものとなる、可能性を秘めている。
近未来の資源大陸であり大消費地として期待が高まるアフリカ大陸で、日本企業がビジネス展開を急いでいる。ヨーロッパに加え、中国やインドが豊富な資源確保のために進出を強めるなかで日本は出遅れていた。日本の技術を使ってアフリカの豊富な資源が今以上に生かせることになれば、それは成長の起爆剤になり、必ずやアフリカを益するものとなるとして、アフリカ開発会議が開幕した28日、福田首相は民間投資の倍増を公約したのであった。石油・ガスの産出量が多い北アフリカや西アフリカ沿岸部に加え、レアメタルは南アフリカ周辺が圧倒的な生産を誇っている。日本の大手企業や商社各社は、権益取得のためにアフリカ各地を、駆けめぐり奔走している。政府の途上国援助ODAのほとんどの受注を占める日本企業は、現地での加工工場まで手がけるなどアフリカの特殊性にあわせた事業展開をすることで各国別に、継続性を踏まえ活発化させている。民間企業の進出に融資する、国際協力銀行のアフリカ向け融資額は、2007年度では前年度比約16倍にはね上がっている。遠いアフリカの問題がなぜ今それほど重要なのかということの意味するところである。
日本政府の約束は、国際的義務の債務救済分を除いたODAの平均1千億円を、12年までに2千億円にするというものである。この本来のODAを倍増するという方針それ自体は重要なことである。問題はそれをアフリカのどこに、どのような分野に向けるかである。アフリカ53カ国のうち48カ国が属するサハラ砂漠以南の諸国のなかで、絶対的な貧困国34カ国には援助額が、薄くなるばかりというのが実態である。2006年には、サハラ以南の48カ国向け総額が2003年の4倍になったのに対して、絶対的貧困国34カ国向けは5割しか増えていないのである。援助額の多くは、資源が豊富な国々や日本企業が進出している国々に、回っているのが現状である。アフリカ向けODAを倍増するといっても、こうした偏った援助を続けるのでは、アフリカ諸国民の願いに答えることが出来ないのは明らかである。見過ごすことのできないのは、貧困救済と言いながら政府が企業利益のためにODAを、強化しようとしていることである。外務省が4月に発表した成長加速化のための官民パートナーシップは、ODA等公的資金との連携により、日本企業の途上国における活動のリスクやコストを、軽減すると述べている。道路や港湾などの経済活動基盤を、血税で整備するという財界の要求に、沿うものとなっているのである。
日本経団連は、昨年12月にだした意見書で民間主導のプロジェクトを、円借款や技術協力・無償資金協力で補完し支援する仕組みを、構築すべきだと政府に求めている。このようなアフリカ貧困救済事業を新たな儲けのタネにする財界・大企業の言いなりでは、本当に必要な貧困救済にODAが回らなくなるのは避けられない。福田首相は演説で、国連安保理改革も追及していくとも述べている。それはアフリカ向けの政府開発援助ODAをテコに、日本の安保理常任理事国入りへの支持を押し付けるものであって、許されるはずがないことは明白である。政府は、目先の利益や大企業にたいする奉仕といった見え透いた打算を捨て、誠実にアフリカの貧困救済に力を尽くすべきである。これまでの人道支援を中心とした日本の援助は、貧困救済策の要である食糧援助や教育・保険などの社会基盤整備などの人道分野でODA実施22カ国の中で最低クラスである。福田首相は、アフリカでコメの生産高を10年で倍増させようと訴えもしたが、政府が貧弱な人道援助政策を見直し、貧困救済を中心に据えてこそ、アフリカ諸国民の願いに応えることが出来るのである。共生の観点を欠いた援助では、よりよい成果を期待することは困難であろうし、打算が透けて見える日本政府の姿勢は、問われなくてはならない。
暗黒の大陸といわれるアフリカがなぜにこうも貧しいのだろうか、地政学的な問題があるにしても、この問題を捉えるに、少し歴史を振り返ってみることが必要となるであろう。第二次世界大戦後の民族解放運動の波は、1957年のガーナの独立を皮切りにブラック・アフリカに波及し、1960年のアフリカの年を引きだした。1960年半ばから1970年半ばまでに、アフリカ大陸には51カ国の独立国が誕生した。60年代のアフリカ大陸の人民は、いま深い眠りから覚め、数世紀にわたる植民地主義の支配を断ち切って、世界に向って自己を大きく主張するに至ったのである。この現象は、まさに20世紀半ばにおける世界史的な出来事の一つといっても過言ではない。民衆は民族主義の勝利に酔ったが、しかし、その後の生活はしばしば当初の期待を、裏切るものとなったのであった。それは政治的な独立を果たしたものの、経済的には従来と変らずの自立した経済体制とは、なっていなかったのである。この発展は、当時における各地の主体的条件の成熟と、社会主義世界体制の成立・強化・民族解放運動の高揚、帝国主義の相対的弱化をはじめとする戦後の国際社会の構造的変化に、よるものと見ることが出来る。しかし帝国主義の野望は、資本主義の全般的危機が著しく深まる中で新しい支配形態である、新植民地主義政策を打ち出したのであった。新植民地主義は、赤裸々な搾取形態である旧植民地主義とは異なり、より洗礼された巧妙な形態を根幹とするが、決してむき出しの軍事侵略や内政干渉を放棄するものではない。
帝国主義は、決して自ら舞台を引き下がることはありえないのであって、直接的支配を止めざるを得なくなったあとでも、かれらはアフリカ諸国に対する経済的支配を維持し、これを様々な手段を通じて強化することによって、アフリカ諸国が勝ち取った政治的独立をも骨抜きにしてきたのである。しかもこれには英・仏・ベルギーなどの旧植民地主義国だけではなくアメリカ新植民地主義も大きく加担している。それ故に、独立を勝ち取ったアフリカ人民の任務は、こうした新旧植民地主義者の陰謀に真正面から対決し、その中で勝ち取った政治的独立を固め、経済建設を進めそれに照応した政治体制を作り最後まで民族民主革命の旗を掲げて前進することである。あの悪名高き人種隔離政策(アパルトヘイト)は、我々の時代であるつい最近まで続いていたし、その後遺症というべき問題は、現在もなを南部アフリカには色濃く残っている。だが、それにしても未来に向かう大陸となるまでのアフリカの過去は、きわめて悲惨なものであった。いく世紀にもわたる奴隷貿易、それは1億にものぼるアフリカ人の人間としての尊厳は完全なまでも、踏みにじられ生きとし生けるものの生命は、奪われていったのであった。それに続く帝国主義列強の侵略や大陸の勝手気ままな分割など、アフリカ人民の土地の大規模な略奪・強制労働・資源の収奪は、アフリカ人民に奴隷貿易にも勝るとも劣らない犠牲を背負わされ、極度の貧困・飢餓・経済の衰退・無権利状態を、もたらしたのであった。
このアフリカ開発会議は、1993年に日本政府主催で始まり、5年ごとに開催されている。アフリカ開発会議は、3日間の会期を終えて横浜宣言を採択して閉幕した。宣言は、アフリカ開発における成長の加速化・平和の定着と民主化・人間の安全保障・地球温暖化への対処を柱としたものである。今後の開発会議のロードマップも採択され、進行状況のチェック体制を確認するなど一定の前進が見られる。また、国連安保理改革については、当然のことながら日本の安保理常任理事国入りへの支持は、盛り込まれなかった。NGO代表は、日本の対アフリカ支援の増額を歓迎しながらも、それがアフリカの貧困を減少させることにつながるかどうかに疑問を表明し、その履行の監視に市民社会の参加を求めている。会議では、経済成長や民間投資が強調されたが、人間の安全保障や貧困克服の国際的な目標への視点が、不足していたことを指摘している。また日本の政府援助ODAが支出した日本企業を潤すだけで、現地の住民の利益にならないようなことにならないように、監視する必要があることも強調された。