斎藤茂吉と鰻

博士後期課程 小泉 博明


 斎藤茂吉の大好物が鰻であることは、あまりにも有名である。次男の宗吉(北杜夫)によれば、このようなエピソードがある。昭和18年に、長男の茂太が宇田美智子と見合いをし、婚約後、両家の顔合わせが築地の竹葉亭で開かれた。着物姿で緊張していた美智子は、鰻の蒲焼きが運ばれてきてが、少し箸をつけただけであった。すると、茂吉(当時62歳)が「それを私にちょうだい」と言って、好物の鰻を取り上げて食べてしまったということである。1 これは、戦時中の「もったいない」という精神だけではなく、むしろ家族が悩まされた茂吉の固陋で癇癪持ちの性格とは違う、ユーモアに富む人間性を髣髴とさせるものである。
 また、茂吉には鰻を題材とした歌も多くある。次の歌がつくられた昭和2年は、茂吉にとってどのような時期であったのであろうか。

ゆふぐれて机のまへにひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり  
(『ともしび』「この日頃」昭和2年)

 養父である斎藤紀一は青山脳病院を経営し、院長であったが、大正12年の関東大震災で大きな損害を受け、さらに大正13年12月には、餅つきの残り火の不始末から火事となり、300余名の入院患者のうち、20名が焼死するという大惨事となった。おまけに、火災保険は同年の11月に失効していた。茂吉は欧州に留学中であったが、急ぎ帰国し、病院の再開に向けて奔走し、昭和2年に院長に就任したのであった。紀一は、翌年に他界した。
 院長として多忙な激務にあって、好物の鰻をひとりで食べるという、精神的な安堵感がひしひしと伝わってくるようだ。茂吉にとって、何とも言えない至福の時間であり空間なのである。
 次の歌について、歌人の佐々木幸綱は「鰻を食うときは、あくまでも真剣に、真面目に、大切に食う。だから、俺に食われた鰻たちはきっと成仏しているだろう、という気持でしょう。」2と解説している。大乗仏教のいう「一切衆生悉有仏性」ということばが浮かんでくる。鰻も成仏するのである。生命に対する感謝の念と、み仏のおかげにより、ご馳走さまでしたと感ぜられる。

これまでに吾に食はれし鰻らは仏となりてかがよふらむか  
(『小園』「折に触れつつ」昭和19年)

 さて、茂吉は戦時中となり食糧難で、鰻屋で好物の鰻が食べられないことが予想されると、鰻の缶詰を大量に購入し、押し入れに大切に備蓄したのであった。茂吉の「日記」を丹念に読めば、鰻を数多く食べたことが分かるが、昭和18年と昭和19年の日記には、戦局が悪化し、本物の鰻が食べられないので、後生大事にしていた鰻の缶詰を賞味したことが記されている。蒸し暑い夏に、還暦を過ぎた茂吉は、鰻で滋養を摂り、精力をつけ、執筆に励んだのであった。

(昭和18年) 七月二十一日 水曜、豪雨、(昨夜終夜雨)
 ○五時半ニ起キ、ウインケルマンヲ少シク読ンダ。午前中午睡一回、○午食ニ数年前買ツテオイタ鰻ノ缶詰ヲ一ツ開イテ、二度ニ食ッタ、ソノオカゲカ勉強シ、ひげナド剃ッタリ、手紙ハガキハジメテ書イタ、○夕食后モ、言葉ノコトヲ少シカイタ。3
(昭和19年) 八月二十六日 土曜、終日雨、
 ○朝カラ雨、憂鬱。○強羅デ作ッタ歌ノ一部ヲ清書シハジメタ。大雨ガ降ッテ如何トモシガタイホド憂鬱デ、ナルコポン丸二粒ノンダ。ソレデモ何カ書イテ居レバ気ガ紛レタ。郵便ハ会津八一、宇野浩二、斎藤滋郎、美智子等ウレシイ手紙デアッタ。紅茶ノム。○夕食ニシマッテオイタ鰻ノ缶詰ヲ食ッタガ非常ニ楽シカッタ。夕食后モ九時マデ筆記シタ、ヌルイ湯ニ入ッテ寐タ。4

 次の歌は、敗戦前に疎開先の郷里である山形県金瓶村で、よんだものである。郷里の最上川の鰻までも食べようかという。しかし「生きてながらふ」という哀切と寂寥が表されている。

最上川に住みし鰻もくはむとぞわれかすかにも生きてながらふ  
(『短歌拾遺』昭和20年)

 次の歌は、汗だくになって、これほどまでに一心不乱に鰻を食べるのかと感動してしまう。しかも茂吉よりも、熱心に食べている人がいたのだ。

汗垂れてわれ鰻くふしかすがに吾よりさきに食ふ人あり  
(『つきかげ』「わが気息(いぶき)」昭和23年)

 戦後になって、鰻は庶民にとって高価で贅沢なものであったが、茂吉は残しておいた鰻の缶詰をいとおしく、惜しみながら食べた。しかし、その缶詰も錆びて食べることができなくなってしまった。ここに、誰もが経験する凡夫たる人間の愚かさが見え隠れする。そういう意味でも次の歌は、まさに茂吉の人間性が見て取れるのである。

十餘年たちし鰻の罐詰ををしみをしみてここに残れる  
(『つきかげ』「強羅雑歌」昭和24年)
 
戦中の鰻のかんづめ残れるがさびて居りけり見つつ悲しき  
(『つきかげ』「手帳より」昭和25年)

 このように茂吉と鰻に関しては興味深いテーマである。まだまだ論考すべきことがある。茂吉は、鰻を好み、目を細めながら味わい、いとしみ、惜しんだ。鰻を通して、人間茂吉の姿がせまってくるのである。茂吉ほどには鰻を食べないが、土用の丑の日にでも鰻の蒲焼きを頂戴する時には、茂吉のことが脳裏をかすめることであろう。
 なお、小生の駄作を記す。

土用の日汗を垂れつつゆふぐれに茂吉と並び鰻食ひたし



【注】
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