現象と本質について
人間科学専攻 8期生・修了 川太 啓司
現象と本質というカテゴリーは、世界の出来事や事物の相互連関を捉える、最も大切なカテゴリーのひとつである。現象というのは、本質の現れでた姿のことであり、事物の表面に現れでた感覚で捉えることのできる外観的な、側面を示すものである。これに対して本質というのは、端的に言えば事物や出来事の本当の姿のことであり、事物の基礎をなしているもので、その背後に隠れている表面からは目に見えない、内面的なものを示すことである。だから現象は、事物の外的表面的なものを示すものであり、本質は、事物の内面的なものを捉えたものである。とすると現象と本質との関係は、一体のものであって異なった別々の事物を、捉えるものではない。このようなことからして我々人間は、現象と本質を切り離して現象を認識することは出来るが、本質を認識することはできないとするような、現象と本質を対立させる見方は正しい見方とは、言えないことになる。そして我々人間の認識は、感性的な認識から理性的な認識へと発展して、高まっていかなくてはならない。その目的とするものは、我々が抱えている現実的で色々な現象を検討し、吟味することを通じて事物の本質を、認識することにある。
だから感性的な認識は、事物の表面的で一面的な現象が認識できるだけであって、事物の内面的な本質を把握するのは理性的な、認識においてのみ可能となる。ヘーゲルは、現象と本質との関係について、以下のように述べている。「本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照するとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は、自己への反省としては存立性であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立である。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。」(1)このように現象についてヘーゲルは、事物の表面に現れた外的な事実であり、本質とは、現象の原因を作りなしている事物や事柄の、内的なもののことであるとしている。
さらにヘーゲルは、現象について「現存在の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象と混同してはならない。仮象は、有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。本質は最初の自己内での反照の全体であるが、しかし、それはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへ現れ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに現象に他ならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものに過ぎず、したがって、自分自身に依存せずモメントとしての妥当性しか持っていないような、多くの多様な現存在するものを思いうかべる。しかし、この表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるのではなく自己の反照を直接態のうちへ解放して、それにて定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている。このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持っている。」(2) と述べている。
このようなことから現象とは、事物の本質の名々の側面における、外的な表現である。外的な表現ということは、事物の表面に現出されて我々の感覚器官に、直接反映されるという意味である。感覚器官が知覚し認識できる外的な表現は、あらゆる客観的な事物を現象として、捉えているのである。我々は、事物の現象を感覚というこの主観の、形式でしか認識できない。だが、しかし、この主観の形式が反映する内容は、また客観的な事物の本質の外面的な、名々の側面の表現でしかなく、それ以外のものではない。本質は、必ず現象して現れるものであり、決して現象の外部にある特殊な別個なものではなく、それは現象の内部に存在するものである。そして、それは現象全体の根本的な性質を、名々の側面が貫いている、現象の内的な連関である。したがって本質は、感覚器官で直接には把握できないが、しかし、現象を分析し吟味することで、つまり、思考の作業で理解し把握することができる。
現象は、事物の運動過程における、名々の側面での本質の表現であって、決して現象がそのまま本質ではない、ということに注意すべきである。現象と本質には違いがあり、したがって、また、そのあいだには矛盾がある。本質は、現象の名々の側面を貫いているところの、現象全体の性質であり、名々の側面における内的な連関であるが、ひとつ一つの現象は本質の或る側面の、表現でしかないのである。だから、本質と個別的な現象とのあいだには、まず事物全体を貫くものと、或る部分的なものとのあいだの、違いがあるのであって、このような違いもまた矛盾である。或る部分的なものは、事物全体を貫くものの或る一面を、表現することができるだけであって、その一面だけで或るものの全体を完全に、表現することはできない。したがって、もし我々が局部的な現象やその個別的な、ある外的な連関を見るだけでは、我々は、事物の全体を認識することはできない。もしも、我々が自分の認識を、個別的な現象の範囲にとどめて、それで事物や事柄の全体やその本質を、認識したように考えるならば、我々の認識は、客観的な事物の本当の姿を反映することができないし、必ずや不正確な認識を生むことになる。
また現象の中には、事物の現象を正しく反映しない仮象があり、いたるところに多くの仮象が含まれているのであって、この仮象もまた本質の表現である。だがしかし、この仮象は、本質をゆがめて反映していることのために、事物の本質とは全く違った印象を与え、本質の真相を覆うってしまうことである。たとえば、水の入っている透明な水槽の中にまっすぐな棒を入れると、水槽の外からは棒が曲がっているように見える現象は、光の屈折率が空気中と水中とでは、異なることからおこる仮象である。また地球は、周知のように自転しているのだが我々が日常見ているのは、朝方に太陽が東から昇って、夕方西に沈むという仮象である。事物の本質は、事物の運動の過程において多方面の、現象として現れる。そして、仮象もまた事物の本質の、運動における表現である。仮象は、事物の本質の運動や発展の一定の条件、一定の範囲内における避けることのできない表現である。そして仮象は、本質のゆがめられた表現であり、非本質的な表現である。だが非本質的なものは、事物の運動に不可避的に現れるけれども、これは安定した堅個なものではなくて、事物の運動の主流ではなく、本質的な表現だけが事物の発展の、主流となることができる。
現象とは、客観的現実の外的なより可動的で、変化しやすい側面のことで、それは本質の表現形式である。これから現象および本質というカテゴリーの、相互連関の特質をもっと立ち入って、捉えることが緊要である。このようなことから我々は、本質は現象の中に表現されるものであるから、まず現象を検討しなければ本質を認識することは、不可能なことがわかる。だが、認識するに当たって、現象を検討して事物の本質を把握し、仮象に迷わされないようにするためには、まず我々の観察を一面的な現象に限定せずに、多くのいろいろな方面の関係のある現象を、検討の範囲に入れるように、勤めなければならない。仮象的で非本質的なものは、すべて或る一面の現象の中に、存在するものである。そして名々の側面の持つ現象を検討し、吟味することで事物の過去や現在の状況を把握し、その事物の周囲との連関関係や、事物との関係の中に表現されていることを、捉えるのである。さらに表現されている名々の側面ついて、その現象を検討し吟味するならば、分析的な比較によって本質的なものと、非本質的なものや事物の発展過程における、主要なものと副次的なものとを、区別することが可能となる。
事物の本質とは、現象してこそ本質なのであって、現象しない本質などは存在しない。また現象は、本質と異質なものなどではなくて、事物の表面に現出されたものに他ならないものである。現象と本質とは、形の上では別々のものであるが、内容の上では同じものである。換言すれば、現象と本質とは、同じ内容の二つの異なった形式であって、両者を切りはなしたり、対立する関係ではない。しかし、現象と本質とが別のものでないということは、両者のあいだに何の区別もないということではない。また逆に、現象と本質とを全く同一視して、現象それも感覚に直接与えられたものだけが事実であって、このほかに本質などあるはずはない、とするような考え方や見方も正しくはない。現象と本質は、いつもそのまま現象するとは限らずに、しばしば的はずれであったり、ものがゆがんで見えたりして、時には正反対の形をとって現象することがあるから、いつも現象と本質は一致しているわけではない。だがしかし、現象と本質とが別のものではないということは、両者のあいだに何の区別もないということを、意味するものではない。
現象と本質の関係は、色々な条件が関係することで、その本質がずれたりゆがんだり正反対になったりした形で、現すという特徴を持つからこそ色々の現象を、比較してそこから特殊な偶然的なものを捨象して、共通の普遍的必然的なもの、つまり、本質的なものを取り出すことが、意義のあるものになってくる。そして、その任務を果たすものが科学なのである。科学が捜し求める法則とは、実は事物や出来事の内的本質的な連関、すなわち一般的・必然的・内面的な連関のことの他ならない。現象と本質とは、我々人間の認識にとって極めて大切なカテゴリーである。我々が世界の事物や出来事を認識しようとするときに、いきなり事物や出来事の本当の姿である本質を、認識できるというようなことは、ほとんどあり得ない。一般的には、現実に現れている現象を手がかりとしながら、その背後に隠れている本当のことである本質を捉えようと、認識を深める努力をするものである。このように、我々人間の認識は、まず現象から始まって、本質へと認識を発展させていくのである。本質とは、現象の表面の背後に隠され、現象のうちに現出される客観的現実の内的な、相対的に安定した側面のことである。
【注】
- (1)ヘーゲル著『小論理学』下巻 松村一人訳 岩波文庫p55
- (2)ヘーゲル著『小論理学』下巻 松村一人訳 岩波文庫p56
【参考文献】
- ヘーゲル著 松村一人訳『小論理学』岩波文庫 岩波書店 昭和39年
- 務台理作/古在由重編集 岩波講座1巻『哲学』岩波書店1967年
- ペ・ヴェ・コプニン著 岩崎訳『認識論』法政大学出版局 1974年