新・どうでもいいことばかり(2)
もう一度行きたい旅

国際情報専攻 5期生・修了 寺井 融


 47歳のとき、23年勤めた民社党本部が解散となった。それから数年おきに仕事が変わった。職場環境の変化と気疲れで、心も身体も変調がちとなった。そんなとき、一服の安らぎを与えてくれたのは、旅である。はやり言葉でいえば〝癒し〟の役割を果たしてくれた。感謝している。
 旅の初体験は小学校5年生の夏休み、2つ年下の弟と札幌から留萌に、汽車旅をしたことである。親戚の家に長逗留し、毎日、海に行った。従兄弟の高校生が、ウニを籠いっぱい採ってくれて、浜で割って食べた味が忘れられない。留萌出身のヤクルトの若松監督や『青春時代』の森田公一氏も、そうやって生ウニを食べていたのであろうか。
 その後、数多くの旅をするようになった。国内は那覇から稚内まで、海外はアジア、中近東、欧米などに行っている。圧倒的に多いのは、ミャンマーやベトナムなど、アジアである。「安・近・短」であることもさることながら、アジアには魅力がいっぱい。詳しくは拙著(『ミャンマー百楽旅荘(パラダイスホテル)』『朝まだきのベトナム』『サンダル履き週末旅行』など)を読んでいただくとして、旅のスタイルは、あくまでも無手勝流の一人旅であった。あらかじめカキッと日程を組むことはせず、ただ街中をぶらぶらすることを好み、行き当たりばったりの飛び込みで、食堂や屋台に入ったりもした。

 子供たちが手を離れたせいか、同居人が一緒の旅をのぞみがちとなっている。しかし、これが難物ですぞ。敵は名所・旧跡を見てまわり、記念写真を撮り、有名な店で食事をする、泊りは一流ホテルといったところが、希望なのである。当方は名所・旧跡は絵葉書で済ます。食事は場末の庶民が行く店の家庭料理で結構。泊りのホテルは雨露がしのげればよい、というたちなのです。
 ホテルの部屋のテレビで、冬季オリンピックを見ていて、「外国に来てまでも、テレビですか」と叱られてしまった話は、ほかに書いた。2人旅は、既に団体旅行の始まりで、気が疲れるものなのです。
 本当の団体旅行の初めて経験といえば、ご多分にもれず、小学6年生のとき(1959年)の修学旅行である。札幌を出て、洞爺湖と登別を1泊2日でまわった。米の配給制度が残っていただけに、白米2合ほどを各自持参。旅館の大広間に、生徒たちが持ってきたそれら米が、高々と積み上げられていった光景が、目に焼きついている。
 登別温泉の第一瀧本館は、湯船が100以上あったのでなかったか。入口は男女別々なものの実は混浴であった。中には大プールもあって、男の子たちが遊んでいたところに、勇気のある女の子たちが、割り混んできたことを思い出す。彼女らも、いいオバタリアンになったんでしょうねぇ……。

 初めての海外旅行も団体旅行である。1975年8、9月のことで、「日本青少年代表団」の一員として中国を3週間訪問。北京や上海から、旧満州の大慶油田までまわった。温度でいえば35度を越える真夏の真っ盛りから、10数度の肌寒い初秋の訪れまで体験したことになる(拙著『裏方物語』に「訪中団3班ノート」を所収)。
 すっかり風邪をひいて、39度の高熱を発した。大慶からハルビンまでの汽車旅の途中駅で、当方への往診のためだけに15分の臨時停車がなされ、注射が打たれたこと、ハルビンのホテルにも医者がやってきて24元払ったこと、後に「外賓から、治療費をもらうのは間違いでした」とお金が返されたこと、着替えとして、ランニングシャツとパンツを5枚ずつ注文し、びっくりされたことなどが忘れがたい。
 国の指導者の月給が400元で、一般の人は100元ときいた。当時1元が何円であったか、確かな数字は覚えていない。はっきりしたことは言えないのだが、彼の国の月給は日本円にして数千円の世界であったと思う。まだ、4人組が健在の時代なのだ。
 また、誕生日に同行のガイドさんたちから「中国の習慣ですから」と、リボンをつけられた飴の缶をもらった。率直に嬉しく感じた。団員の一人のS君は、生まれた長男を大慶と名づけた。もう一人のK君は定年後、中国で歌をうたって暮らしたいと夢をみている。中国人は社交に長(た)けた民族なのである。

 さて、そこで最後に「もう一度行ってみたいベスト・ファイブ」を選んでみたい。
 第5位はミャンマー。チャイトーのゴールデンロックである。断崖絶壁の上に黄金の巨岩があり、3回参拝すると金持ちになるという言い伝えがある。当方は過去に2回参拝している。是が非でも、もう1回は参らねばなるまい。大井川の渡しのような駕篭に乗って、山登りすることもできて、面白かったが、駕篭はいまも果たして存在するや……。
 第4位は中国雲南省洱源県の九氣温泉である。大理市から車で2時間ほど山あいに入った小さな村にある。「子宝の湯」だそうで、民族衣装を着た白族の女性たちが、入りにきていますよ。
 第3位は徳島県の海岸の町。徳島から牟岐線で下ったが、名前は覚えていない。ある駅で降り、くねくねした細い道を、タクシーで漁師町の民宿に向かった。宿では海老、太刀魚、鯛など、地の魚が食べきれないほど出された。翌朝は通勤・通学客とともにポンポン蒸気船に乗って、徳島に出た。
 第2位は中欧を押したい。チェコのプラハ地下のバーで、ビール一本飲んだだけで、15ドルを請求され、「冗談じゃない」と、啖呵を切って5ドルに負けさせたのは、1981年の共産主義時代のこと。町がどう変わったか、見てみたいと思い、還暦記念に2007年に再訪してきた。パック旅行だったためか、プラハは2泊しかしていない。次回は、もっとゆっくりカレル橋や旧市街を歩きたいと考えている。
 第1位は、なんといってもウズベキスタンのサマルカンドである。夕暮れどきのブルーモスクは荘厳で見る者をして、粛然とさせられた。再度、モスクを眺める日を楽しみにしている。
 ――以上が、私の「再訪したい街」です。この「ベスト・ファイブ」に、あなたの好きな場所が入っていましたか。




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