ベンジャミン・ブリテンの故郷を訪ねて
文化情報専攻 7期生 遠藤 英昭
ベンジャミン・ブリテンが生まれ育ったローストフトへは、キングスクロス駅からケンブリッジ駅を経由してノーウィッチ駅まで行き、そこで列車を乗り換えて、ようやくたどり着いた。ノーウィッチは駅のつくりが伝統的な立派な建物で、この街が地方の中核都市であることを物語っている。ベンジャミンは10歳の時にここでヴィオラの練習を始めたはずであった。
列車は空いていて、数人の地方人が乗り合わせたのであったが、その中の一人の婦人の顔が筆者の、今は亡き母の面影に似ていたので、話しかけてみると、夫が先刻からこちらに興味があったらしく、すぐに打ち解けて旅行の目的等を尋ねてきた。ブリテンの生まれたローストフトを見に行くところであることを話すと、自分たちもその先の村まで行くのだという。ローストフトは人口4000人ほどの町だから、探すのは大変だろう、どうやって探すつもりなのかと聞くので、タクシーに乗って案内してもらおうと思っていると答えたが、それでは判らないかもしれないし、タクシーをつかまえられるか心配だからと言って、駅で一緒に降りてタクシーを探してくれた。小さな駅で、二人でタクシーをつかまえようとしたが、二台しかないタクシーが先客を乗せて行った後だった。送り終わって帰ってきた車をとらえて、ブリテンの生家まで案内させようとしたが、運転手はわからないという。もう一台が帰ってきたので、それにはナヴィゲイション・システムがついているから調べてみよう。住所か電話番号は判るかと聞くが、こちらもそんなデータは持っていない。発車時間が近づいてきたので、一緒に探してくれた人物は列車に戻っていった。手を振って挨拶したあと、そのままバス乗り場等を探し始めたのだが、駅の周辺にはそれらしきものがない。ちょっとした街並みが見えたので歩いて近づくと、きれいに整備された商店街がある。もう夕暮れ時で、空にカモメが飛び交い、その鳴き声が物悲しげである。そうか、この町は海辺にあったのだと気付く。街路からまる見えの窓越しに、年配の男がコーヒーを飲んでいる飲食店があるので、入って話しかけてみた。
ベンジャミン・ブリテンの音楽ならよく知っているが、彼がどこで生まれたかは知らなかった。そうか、日本からやってきたのか。自分は船乗りだったが、今はもうリタイアしている。クラシックをよく聞く。ベンジャミン・ブリテンの音楽は好きだ。特に『ピ−ター・グライムズ』は若い頃よく聴いたものだ。それは彼の作品の中では最初の頃に評判になったオペラだった。彼はロード・ブリテンと呼ばれるまでに成ったのだ。ああ、あの鳥の名前は、シー・ガルという。そうか、日本ではカモメというのか。この地方では普通に 見られる鳥だ。あれを聞いて育ったから、あの曲ができたのだ。海の風、波の音、鳥の声、そんなものがあの曲には満ちていて、だから自分はあの曲が好きなのだ。『カーリュー・リヴァー』という曲は知らない。そうか、日本の『隅田川』から題名をとっているのか。能楽も聴いたことはないから、君の説明を聞いても判らない。これからブリテンの生家を訪ねて行くのだったら、向こうの方に案内所があるから行って尋ねたら、なにか教えてくれるだろう。ここは港町だから、皆は親切だよ。
写真を撮らせてもらって別れを告げ、店を出て別の方角に歩いてゆくと整備された広場があり、案内所らしき建物がある。入って尋ねると、係の女性が地図を見せて、ブリテンの家は徒歩で15分くらいのところに在るので、あの道沿いに行けば判ると教えてくれた。
そこはもう海辺で、潮風が吹き付けてくる。どこからか鐘の音が聞こえてきた。あたりは、次第に日が暮れて、街燈はあるのだが、薄暗くて地図を読むことができない。犬を連れて散歩する通りがかりの人や、もう閉めようとしている飲食店の従業員などに、道を尋ねながら、やっとブリテンの生家にたどりついた。その家の庭には看板があり、ブリテンズ・ハウスと読める。窓に数人の人影が見えて、老人たちが食事をしている。扉は閉まっていて、現在は何かの施設に利用されている様子である。老人ケアの家なのかも知れないので、立ち入ることは遠慮した。そこから海辺に出てみると、月明かりで砂浜があることが判る。降りて行き、吹きつける風のために紋のできている広い砂浜を歩き、砂をすくう。
そうか、ベンジャミンはこの海岸で遊んだのだ。
調べた時に、家族で撮った写真があった。あれはこの浜辺で海水浴をした時のものとして紹介されていたが、幼い頃にはここでよく遊んでいたのだろう。彼の父親は家族を大切にする人物だったに違いない。歯医者だったから、街の方に住んでいたのだと思っていたが、このような海のすぐそばに家があったのだ。
生まれ育った環境は、その後の彼の作曲活動の根底に大きな影響を与えたに違いない。米国から帰郷して、オールドバラに住み着いたのは、そこが生まれ故郷に近く、環境も類似していたからではなかったか。そんなことを考えながら、街並みを歩いて行くと、中国料理の店がある。入って話をすると、遠い先祖は植民地時代に香港から来たという。するとブリテンは幼い頃に、この町で東洋人と接触していたわけである。日本に来たのは、彼の東洋旅行の途中であったが、ブリテンは東洋の文化に幼い頃から親和感を抱いていた のかも知れない。それが能楽との出会いをもたらし、彼の新局面を開くことに繋がったのだ。翌日はオールドバラに行く予定なので、一端ロンドンに帰ることにする。
再び鉄道でノーリッチ経由かと思いきや、列車は進路を変更し、イプスウィッチ駅からコルチェスター駅まではバスに乗り換えて、またそこから鉄道に乗りロンドンに帰還した。車内で知り合ったRon Hoyという英国海軍のOBと仲良くなり、彼が途中まで同行してくれたお陰で、無事にホテルにたどり着いた。
(彼の話によればHOYとは、現代スペイン語で「今日」という意味だそうである。ローマ帝国がブリテン島を支配した時に駐留した兵士の子孫なのかも知れない。彼の出身地近くに、その頃築かれた城柵の遺跡があるようだ。)
翌日は、リヴァプール・ストリートからノーウィッチまで再び鉄道に乗り、そこで時間があったので待合室で休んでいると、一人の青年が同じテーブルに来て弁当を食べだした。聞くと高校を卒業して、現在は写真家になるための勉強をしているところだという。年は17歳で日本に行ってみたいそうだ。写真をお互いに撮り合って、時間が来たので待合室を出た。サックスマンダムまでは鉄道があるが、そこからオールドバラにゆくにはバスしか交通手段がない。
車内は中学生で一杯である。前後を若者たちに囲まれて、彼らの騒がしいおしゃべりを楽しむ。中には歌をうたいだすグループもあって、応援歌らしい。上手なコーラスだった。写真を撮ろうとすると、突然黙ってしまったのは、学校や親のしつけが厳しいのだろう。もともと元気が余り過ぎている民族なので、なおさら厳格なエチケット教育が必要なのだ。サックスマンダム駅で下車すると、タクシーもなく、バス乗り場が遠く離れていて、迷ってしまった。地元の人々に尋ねながら、ようやくオールドバラ行きの最終便に間に合い、ホッとしたところで小銭がないことに気がついた。運転手の青年が、紙幣では機械が受け付けないから、只で良いよとぶっきらぼうに言ってくれた。ここが終点だと降ろされた所は、まだ5時半なのに街路は薄暗く、もう殆どの店が閉まっていた。人影を探しながら歩くと、一軒だけ酒場があって、外から中の様子が見え、数人の客がいる。入って、この地で作曲活動をしたベンジャミン・ブリテンのことを調べに日本から来たと告げると、誰もそんな人のことは知らないという。唯一人、奥の車椅子に載った老人が知っていて、今日はもう遅いから、この村はずれに立派なホテルがあるので、そこに泊まって、明日そこのスタッフに聞けば教えてくれるだろうと、親切に忠告してくれた。もう時刻が遅いので、ロンドンに帰る交通手段がないのだという。
そこから10分ほど歩いて、英国国旗の揚がっている立派な建物にたどり着いた。広い庭の中に邸宅があり、レストランも営業している様子である。そこで夕食を注文し宿泊する。明日ロンドンから日本に帰る飛行機に乗らなければならないことを告げ、早朝タクシーの予約を頼むと、150ポンドならば、ヒースロー空港まで送ってくれる、とのことであった。それでいいよと、時刻を指定する。4時半に迎えに来るというので、それならば3時半に起こしてくれよと念を押してから、ようやく部屋で寛ぐ。なかなかの造りである。古い家具を大切に使っているが、浴室の設備は超近代的で、すばらしく快適なホテルであった。
翌朝、3時半になったのでロビーに行き、ドアの取手を触れた途端、ベルが鳴り響いた。受付係の若い女性が飛び出してきて、まだ早いから、もう一度部屋に帰って休んでくれという。名前を聞くと、ヤーネといった。スペルを尋ねるとJaneというので、ジェーンではないのかと聞き返すと、自分たちはチェコから来たのだという。家族で移住してきたようである。もう一人が眠そうにしていたので、部屋に戻って待つことにした。時刻になっても呼びに来ないので受付に行ってみると、いびきが聞こえる。窓の外から中を窺う男の顔が見えたので、扉を開けて確認すると、確かに自分が頼まれたタクシーの運転手であるというので、ロンドンの空港まで乗せてもらうことにした。前夜のうちに宿泊費は払っていたので、受付の女性は起こさずに、出発する。スティーヴ・ワットと名乗ったその運転手は、地元生まれの人間だが、ベンジャミン・ブリテンのことは全然知らないという。普段は大工や家具作りをしているそうで、音楽は好きだが、クラッシックはほとんど聴かないそうだ。モダン・ミュージックを好んで聴くと話してくれた。まずホテルまで行って荷物を纏めてから空港に行かねばならないことを説明すると、それならば更に20ポンド払ってくれという。携帯電話でボスと話しながら運転しているので、危険だから安全第一で頼むよと忠告する。長時間のドライヴなので、途中では会話が弾んだ。
日本の歌を何か歌ってくれというので、『知床旅情』を歌い、詩の意味を説明すると、非常に喜んでくれた。互いに家族のことを話し、人生観を語り合って、愉快な時間を過ごす。ロンドン近郊に入ると、交通が渋滞し出し、ホテルへの到着が大幅に遅れたが、荷物を纏めてから、空港まで彼に送らせる。空港では、既に飛行機は20分前に離陸していて、近くのホテルにもう一泊することにした。ルネッサンスという空港内のホテルを予約し、忙しかった旅の疲れを癒す。そこからなら再び飛行機に乗り遅れることはないので安心して眠った。夢の中にブリテンが現われて、「良く来てくれた」と礼を言った。
翌朝、飛行機が離陸して間もなく、窓から下を見ると、昨日走ってきた海岸伝いの道が見え、最後にブリテンが住んでいたという赤い家が、ピンク色に見えるような気がした。海岸線はオールドバラから北の方へ、ローストフトまで続いている。飛行機が雲の中に入り、海が見えなくなったので眠りにつくと、すぐに機内アナウンスで起こされる。もう、海を越えてアムステルダム空港への着陸である。乗り継ぎのため空港内で長い距離を移動したが、買い物をするには便利である。「ヌードル」と看板が出ている店があって、昼食時間をはるかに過ぎていたが、久しぶりに味噌ラーメンを食べた。料金は日本の円で支払うことができるが、3000円だという。そんなに高いラーメンは、生まれて初めて食べた。
画像:筆者の旅姿(写真家志望の青年が撮影してくれた。)