フランス人権宣言と自由・平等の思想

人間科学専攻 8期生 川太 啓司


 J・ロックは、自然法の見地から人民主権の原理を唱えて「自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を、処理するような完全に自由な状態である。それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人より多くもつ者は一人もいない。なぜなら、同じ種、同じ等級の被造物は、分けへだてなく生をうけ、自然の恵みをひとしく享受し、同じ能力を行使するからである。すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえないということは何よりも明瞭だからである。」と述べている。自然状態は、理性的な本性を持つ人間の社会である、とする自然法の見地から出発しての、人民主権の原理を唱えたのである。それは真の意味での政治において、法の支配が実現されるためには多数の人々による、議会政治を求めたことである。そしてその思想は、人間の生命・自由・平等・財産の保障にあるとする、基本的な人権の思想的原理を、理論化したことである。このようなことは、民主的な政治制度の原理を定式化し、名誉革命の基礎づけを与えたことでもある。そしてこの思想は、後世の民主主義的思想へと引き継がれ、アメリカ独立宣言に結実し、やがてフランス人権宣言にも大きな影響をあたえた。

 我々人間は、生まれながらにしてすべて平等であり、ゆずり渡すことのできない権利を持っているものであり、政府はその権利を保障するために、被治者の同意によって設けられるものである。このように民主主義の思想は、人間の尊厳の思想を基礎におく人民主権の思想であり、基本的人権の主張とその擁護を、自明のこととしている。人権意識あるいは権利意識というものの中には、自由権・平等権等々の基本的人権についての、権利要求が含まれる。その他にも我々人間生活を支えている衣・食・住に関する権利要求も含まれることは周知のことである。人間は衣・食・住に対する欲求を始めとして、様々な欲求を持って生活している。それらの欲求を実現するうえでの、障害となっている自然的な条件を統御するのに、これまでに非常な成功を収めてきていることは、改めて言うまでもない。これは必然性の洞察にもとづく、自由の拡大である。このような成功は、人間の社会的生活の発展、社会的生活上での自由の拡大の過程とともに、次々と勝ち取られてきたのである。社会的自由の拡大も、自然的条件の統御の場合と同様に、その障害となっている社会的な条件の性質についての、何らかの程度での洞察に基づいて、そうした条件を取り除くことや、改良してきた過程なのである。

 フランス人権宣言は「人間は、自由で、権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益にもとづかないかぎり、もうけられることはできない。」とされている。ここには、人間は生まれながらにして自由・平等であり、法は一般意志の表明である、ということがうたわれている。人権宣言においてうたわれた民主主義には、理性によって導かれて自己を形成する、創造的な主体としての人間の尊厳という思想が、その根本的な基低となっている。理性的な人間の尊厳というこの思想は、近代の民主主義思想の根底をなす思想であり、今日の我々にとって、国民の立場からその成果を我々のものとして発展させながら、引き継がれるべきものである。さらに人権宣言は「自由とは、他人を害しない限りで、すべてのことをなしうることにある。したがって、夫々の人間の自然の権利の行使は、社会の他の成員にこれらの同じ権利の享受を保証している限り、限界を持たない。これらの限界は、法律によってでなければ、定められることは出来ない。」としている。

 人権宣言の思想は、人間の生命・自由・平等の思想であり、民主主義思想の根幹をなすものである。すなわち、すべての人間は平等につくられ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられていること、これらの権利のうちには、生命・自由・平等の追求がふくまれている。我々は、ここのところに歴史的に形成されてきた人民主権の思想を、見出すことができる。そのことは、すべての人間は平等であるとする、譲り渡すことのできない権利宣言の冒頭に、生命・自由・平等権の追求を、掲げていることである。この人民主権の思想の根底にあるものは、人間は生まれながらにしてすべて平等であり、何人においても生命・自由・平等追求の権利を保持しているという思想であり、すなわち、自然権の思想である。この自然権の思想とは、天賦人権の思想であり、今日的には基本的人権の思想と同義語として使用されている。さらにフランス人権宣言において、自由の大儀の次に平等が明記されたことを、重視する必要がある。そのことは、各人においても相互の平等の思想として、尊重されなければならないことを、意味しているからである。このようなことから、真の民主主義と自由・平等の思想を、捉えることが緊要である。

 人権宣言の思想としての民主主義を捉えるに、その基底をなすものとして、人間の自由と平等という思想である。周知のように中世封建制社会は、身分的階層性の社会であり、思想的にこれらを支えていたのは、封建制を容認する差別の思想である。近代の民主主義は、この身分制原理に対決するものとして、人間はすべて平等であるという思想として、定着してきた。思想としての民主主義は、このような平等原理のうえに成り立っているのである。この原理を成り立たせているものは、人間の基本的な権利についての認識である。すべての人間が、人間として一定のゆずり渡すことのできない、基本的な権利を持つという認識が、広く一般に成立しなければ、およそ人間の平等という思想は、成り立たち得ないのである。全ての人間は、人間としての普遍的なものを持っており、この普遍的なものの及ぶ限りにおいて、平等なのである。人間であるということは、この共通の普遍的な性質と、人間が人間として平等であるということから、全ての人間あるいは、国家のすべての市民社会の構成員は、平等な政治的ないし社会的資格にたいする、権利を持っている。古来の自然発生的な共同社会では、その共同体の構成員のあいだの平等な権利しか問題となりえなかったし、女性や奴隷はおのずから、この平等から除外されている。

 平等の権利とは、人権宣言が擁護している譲り渡すことの出来ない自明の権利を保持し、つまるところ人間は他人に属するのではなくして、自分自身に属するという、事実に帰着する。人間として自分自身に属するということは、必然的に人間が譲り渡すことの出来ない権利を、持っているということを意味する。何々に属するということは、或る権利が存在するという意味を、包含しているからである。正常な人間であれば、だれでも、一定の年齢に達すれば、自分のことは自分でやっていけるし、自分自身の人生を生きることが出来る。換言するならば、人間として自分自身に属することが出来る、という意味である。それ故に、全ての人間は、確かに等しく譲り渡すことの出来ない、基本権を持っている。全ての人間が、平等に作られているということは、こういう意味のことである。人権宣言の立場は、全ての人間は平等に作られているということであり、平等の権利を持ったものとして、作られたという意味である。平等の権利を持つということは、人間にとって何を意味するのかという相互に、関連しあった問題である。権利を持つということは、政府をも含む他人によって侵害されたり、奪われたりしてはならないような、或るものを持つということである。譲り渡すことの出来ない権利とは、生きている間は、他人のものにならないということである。それ故に権利は、或る意味で所有の一形態である。

 平等権の場合は、自由権と同じ側面を持つが、異なる側面のあることも無視することは出来ない。対等の市民にとって、国家が市民間の関係に干渉せず、自由に放任しておくことがその平等を、保障することになる。私的自冶の原則は、市民の自由と平等を、もたらすものと考えられる。たとえば、信仰の自由は、また、信者相互間の平等を、意味することになる。そこに要求されるのは、国家の不作為である。ただ、そこに規定されている国家の不作為は、何もないという無限定なものではなく、国家が国民を人種・信条・性などによって差別しないという一定の内容を持った、不作為なのである。このようなことは、国家と国民の関係を否定的なものから消極的なものに、変えることになる。この自由権と平等権の違いは、事実上の不平等な市民間の関係が、憲法の問題となると自由の場合にはそれをも、放任するだけである。だが平等の場合には、国家がそれを消極的に差別しないだけでは不平等な結果が生じるから、実質的な平等を実現するために国家の積極的な干渉が、期待されることになる。

 平等の権利を持つということは、共生するという意味でもある。我々が生活している人間社会において、この世のすべての人々は、お互いに関係しながら、つながりあって生きている。我々人間は、自然と社会という世界の中で、生活を営みながら生きているわけで、個人が単独では存在しえないのであり、各人は様々な仕方でもって他者と結びつき相互に、依存し合って関係している。我々人間は、このような生活環境の中で、人間としての平等の権利を拡張することは、自由と平等の基本的な原理とともに、人間の尊厳にかかわる次元での要請でもある。そしてその行為として、自由・平等と民主主義を求めてゆくことは、人間の尊厳につながるものとして、捉えることである。つまり自己自身に対する人間のあり方という、ここに自由と平等概念の持つ最も根源的な、意味が存するのである。人間が真に求めているものは、自由と平等であり究極的な意味での平等とは自由の一つの、本質的なあり方である。人間にとって自己の生命は、生きることの営みそのものの手段である。そういう人間的な生命のあり方にあって、人間がこの手段としての自己の生命に理性的に対峙し、自己の生命を理性的に処理するところに、人間的自由・平等というものの本質がある。そして、諸民族における平等の思想とは、国々や民族間での紛争などは戦争ではなくして、友好と連帯を求める平和の思想として捉え、共存していくことである。

【参考文献】


総合社会情報研究科ホームページへ 電子マガジンTOPへ