夢中説夢―私の中国報告
中国の大学事情(1)

国際情報専攻 1期生・修了 山本 忠士


前言
 昨年8月末、日本での定年を機に中国の大学に赴任し1年余が過ぎた。60歳を前に1999年、わがGSSCの第1期生として入学し、修士・博士課程にすすんだのも定年後は中国の大学でかの地の若者と交流して見たいと思っていたからであった。その願いが、比較的スムーズにはたせたのは、日本の高等教育史のなかでも画期的な通信制大学院制度ができたこと。日本大学がそのさきがけとなって「総合社会情報研究科」を設置し、働きながら学習・研究する社会人の環境整備をしていただいたことが大きかったと感謝している。
 私と中国とのかかわりは、1963-65まで亜細亜大学の交換留学生として香港中文大学新亜書院に留学した時からである。当時、中国とは台湾の国民政府のことであった。したがって、日本と中国は国交もなく、大陸へ旅行することができなかった。爾来、中国で一度は長期生活をしてみたいとの思いは、いつも頭の隅にあった。
 その後も、仕事や観光で何度も中国旅行する機会があった。何れも短期的なもので「生活する」というには、ほど遠いものであった。結婚し、子供も二人できた。それなりに充実し、忙しい毎日だったが、かつての「思い」は遠くなるばかりであった。それが、定年という言葉が現実のものになりはじめた55歳を過ぎたころから、よみがえってきた。定年後を考えるようになったからである。子供に家督を譲り、隠居してから天文学を学び、日本地図を完成した伊能忠孝の故事も励ましの材料とした。
 大学院に入ってからも70歳を過ぎた同期生が、ある会合で凛とした声で「私は高齢者ではあるが、年寄りではない」といわれた言葉にも心打たれるものがあった。「人生は挑戦」と考え、とにかくやるだけやって見ようと思った。
 中国の事情も考えた。中国の大学は、1990年代後半から高等教育の拡充を目指し、2000年以降、急拡大期に入っていた。私が定年を迎える2006年ころには大学院も急速度に整備され、どの大学もより高い学歴を求める時代になると思っていた。かつて、韓国、台湾の大学では、あっという間に博士号がなければ就職できなくなったことがあった。だから、中国の大学で働きたいと思っても教育歴もない学部卒だけのキャリアでは、外国人でも難しくなるだろうと感じていた。
 ともあれ、今、かつての≪思い≫を成就し、中国の大学で生活するようになったのも、わがGSSCのおかげである。返礼の意味を込めて中国報告「夢中説夢」を書きたいと思う。

吉林師範大学のこと
 吉林師範大学は、1958年に創立され、来年、創立50周年を迎える。所在地は中国東北部の長春と瀋陽の中ほどに位置する四平市にある。吉林省の重点大学で、30万坪の敷地の中に20余の学部をもち、学生数は1万3千人ほどである。7年前に四平師範学院から現在の大学名になった。
 私の所属は、東亜研究所であるが、外国語学院日本語学科で1、2、3年生の日本語も教えている。昨年は、大学院(専門史コース)修士課程の3名(日本人2名と中国人学生1名)に「日中関係史」を講義した。今年度は、日本人留学生が一人で、修士論文を残すのみとなったので、週1回「論文指導」を担当している。中国語で専門科目を教えられる程の語学能力はないから、日本語がわかる学生に限られてしまう。そのかわり、このコースでは日本語と中国語の2ヶ国語での論文、口頭試問がもとめられる。
 日本語教育は、40年以上前に香港で専科学校やYMCAで2年近く非常勤講師を経験したことがあっただけで、大学生に教えるのは初めての経験だった。出発前に、それなりに準備はしたつもりだが、正直のところ大いに緊張した。
 ほとんどの中国人学生にとって、小中高大を通じて、初めての日本人教師になるだろうと思った。だから、学生たちの前に立つことによって、中国人も日本人も喜怒哀楽を感じる人間としての心は同じであることを、授業を通じて感じてもらえたら本望だと考えていた。それには、学生に溶け込み、学生を励まし、共に学ぶ姿勢でやっていくしかないと思い、今もそう心がけている。
 吉林省は、戦前、日本の傀儡といわれた「満洲国」(中国では、『偽満洲国』という。)の首都・新京(現・長春)のあった所である。資料によると、「満州国」時代、各地に300余の日本の「神社」があった。吉林師範大学のある四平市にも「四平神社」があった。もちろん、今は影も形もないし、どこにあったのかもわからない。しかし、「神社」ができるほどの日本人集団が住んでいたところである。私の知らない「日本の過去」が、突然に顔をのぞかせることがあるかもしれない。しかし、どんなことが起きても驚くまいと覚悟した。
 当地にきてみると、学生たちは礼儀ただしく、不愉快な思いをしたことは大学内で一度もなかった。もちろん町でもなかった。ある学生に、なぜ日本語学科を選んだか、と聞いた時、「日本語が好きだからです」という言葉がかえって来たことがある。構えていた私の心は、いっぺんにほころんだ。本当かどうかなど詮索する必要はない。その言葉を正面から受け止めた。正直うれしかった。
 当方としても、張り切らざるをえない。まして学生の9割近くが、可愛い女子学生である。60歳を過ぎて、言葉も全く分からない中国について来てくれた家内からも「あなたうれしそうね」と冷やかされている。日本のように、場所を間違えたのではないか、と思うような真っ赤な口紅をつけたり、臭いの強い香水を使っている学生は皆無である。みな清潔で、実に質素である。学生の月の平均的生活費は、500元(7500円)程度とも聞いた。ほとんどの学生が、親に対する感謝の言葉をまっすぐに話してくれる。

教室の風景―ガラスの黒板
 ある時、黒板に字をかいていたらチョークが滑ってキーという音がした。なぜそんな音がするのか、黒板の塗装が古くなって磨耗したからかと思っていた。別の教室でもそんな経験をした。1コマの授業は日本と同じ90分であるが、45分と45分に2区分され、間に10分の休み時間がある。なぜあんな音がしたのか、その休み時間に黒板を観察した。
 黒板は、正確にいうと黒色ではなく濃緑色である。縦1b10a、横4bほどの大きさで、4、5枚の板がつなぎ合わされた形になっている。授業中、つなぎ目のところに目をやったら、濃緑色の塗装にはげたところがあったからである。
 黒板をコツコツしたり、ためつすがめつしている私を見て、一人の学生が近づいてきて「玻璃(ガラス」といった。少し驚いて、反射的にわたしも「玻璃!」と、学生に確かめるようにいった。黒板とガラスが一つに結びつかなかったからである。眺めながら納得した。そうか、ガラスでできているのか、と思った。それなら、塗装の磨耗したところで、キーという音がしたのも理解できる。
 ガラス製の黒板が、どの程度つかわれているのかよく分からないが、学生たちに聞くと、小学校も、中学校も、高等学校も同じようなガラスの黒板だったと言う。
 チョークは、日本と比べると少し粉の拡散が多い感じがする。白い粉を除去すために、黒板消しを窓の外に出してパンパンとたたいていた先生を思い出すが、こちらではそうした姿は見たことがない。黒板の下部にあるチョーク置きと粉受けは、チョークの粉がたまって、窓を開けると粉が飛び散る。
 時に、黒板消しがない場合がある。そんな時はクラスの幹事役の学生がどこからかもって来てくれる。それもままならないときは、ティッシュで拭くことになる。チョークの手配も幹事役の学生がやってくれる。学生たちは、教師の行動をよく見ていて、困っているようなことには迅速に対応してくれる。
 黒板を拭くとき、最前列の学生には、黒板の粉が降りかかってしまい気の毒に思っていた。ある時、一人の学生が水をよく切ったぬれ雑巾をもって来て、教卓の横に置いてくれた。意味が分からなかったが、休み時間にその学生がぬれ雑巾で黒板を拭いてくれ、黒板をぬれ雑巾で拭く方法もあったのか、と驚嘆した。想像したことがなかったからである。早速、試してみた。非常にいい。何よりチョークの粉が全く飛ばないのである。黒板がぬれて困るのではないか、と思われるかもしれない。しかし、吉林省は、日本のように湿度が高くないから、しばらくするとスーと乾く。休み時間になると、幹事役はぬれ雑巾をきれいに水であらい、また教卓の横に置いてくれる。
 ガラスの黒板、ぬれ雑巾の黒板ふきという、思いもよらないことであったが、日本と違う教室の風景に、「所変れば、品変る」だなと感心させらもした。ただし、全てのクラスがこのようにいくわけではない。
 教室が、なんとなくほこりっぽい感じがするのは、チョークが原因というより、風の強い地方的特徴も原因している。そのことは、四平を紹介する笑い話に「四平は年に二度風が吹く。1月から6月までと、7月から12月までである」というのがあることでも理解される。要するに年中風が吹いているところだというのである。風の吹く時もあるが、実際には、それほどではない。女子学生の3割くらいは、机の上に縦40a、横80aほどのテーブルクロスを敷き、その上に教科書やノートを載せ、授業を受ける。洋服も汚れないですむ。机の上の砂ほこりをみごとに防御し、教室の雰囲気を明るくしてくれる。いかにも女性らしいやさしい工夫で、心和む光景でもある。
(了)






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