客観的認識と真理性
人間科学専攻 8期生 川太 啓司
対象である事物の様態について、我々人間の認識が、その事物と一致していることが、真理とされている。それは、事物に対して人間が認識するしないにかかわらず、それ自体が実在しており、これを人間の意識が反映するとき、その反映である観念が客観的な実在に、一致していることを示すことである。客観的な事物の認識は、可能だとして人間がもつ観念が、それと一致している場合に、客観的真理というのである。認識についてもう少し詳しく言えば、認識とは知るということであり、知るという働きとその成果を含む事柄について、普遍的な共通の認識という概念で表現されている。その概念は、認識作用と認識内容ということで示されている。知るということは、必ず何かについて知るということでありこの何かについてが、認識の対象ということである。この認識の対象は、我々の意識から独立して客観的に存在しているのであって、知るという働きを行うものは我々の意識であり、これが認識主観と言われる。対象を知るということ、すなわち認識とは、認識の対象が我々の意識の内に反映されることである。
このように認識とは、対象が意識に反映されて、意識の内に観念が作り出されることを意味する。だが、この場合、認識がつねに対象に一致しているとは限らない。感性的な認識の場合には、たとえば、日常生活の中でよく勘違いをして見間違えた、というようなことがしばしば起こることもある。また、抽象的な認識の場合には、分析を誤る場合もあり、対象に一致してない観念を作り出してしまうこともある。このような場合、その認識は(偽)であり、そして、意識内に作り出された観念が対象と一致するときは、その認識は(真)である。つまり真理とは、対象と一致している観念のことである。しかし、我々人間の認識は、科学技術の発達の程度によって、歴史的社会的に制約されているから、社会的実践の範囲の程度によって、真理をうることは出来ないのである。このようなことからして、絶対的真理と相対的真理との関係という問題が、発生するのである。
すなわち、我々人間が捉える真理は、相対的なものである。絶対的真理というのは、この相対的真理の積み重ねによって得られていき、発展しながらそれに、接近していくのである。しかし、相対的真理は、完全で絶対的ではなくても、客観の何らかの側面を捉えているから、客観的真理の資格をもつことになる。このさい客観を反映する認識が、客観的事物と一致しているかどうかは、真理であるかどうかを認識作用そのもののうちで、演繹・帰納・分析・総合などの証明の手続きの検討がまず必要とされる。そして、究極的に真・偽を確かめるのは実践による検証とされている。真理とは、客観的に成り立っている、事物の本質を示すことである。我々人間の理性的認識は、雑多な個々の事物の中から一般的なものを抜き出してくるのであるが、単なる一般的なものは、素材のままでは個々の場合、妥当していない。また真理は、常に抽象的ではなくて、具体的であるといわれるが、一般的なものは諸条件のもとにおいて、個々のものの中に具体化しており、このような具体性が、事物の真のあり方であるという意味である。
真理を吟味するに、単純な対象についてならば、我々はこれを一度に反映して、その対象に完全に一致した観念を、作り出すことは容易である。だがしかし、複雑な対象を認識しようとする場合には、その対象に完全に一致した観念を、一度に作り出すことは困難である。その場合は、まず、その対象に大体において、一致する観念が作られる。そしてその後に、段々と反映の仕方が正確化されて、多面的な細部まで対象に一致するような、観念へと改められていくのである。このようなことが、我々の一般的な認識の仕方であり、これが認識の発展ということである。だから、複雑な事柄を我々が認識しようとする場合には、我々はすでに獲得した認識が真理であるか否か、という問題は複雑な問題である。すなわち、認識が発展してゆく過程でのある一時点を取って、この時に我々がもっている観念が、対象に一致しているかどうかという問題は、それは部分的には一致しているが、他の部分的ではまだ不一致なものも含んでいる。このような場合その認識は、相対的真理というのである。そしてある観念が、対象である事物に完全に一致している場合には、その認識は絶対的真理であると理解される。
相対的真理と一口にいっても、これには程度の差がある。対象に一致する部分がまだ比較的少ない低い相対的真理もあれば、よりいっそう対象に一致している程度の高い相対的真理もあるからである。我々人間の認識は、程度の低い相対的真理から、段々とより高い相対的真理へと一歩一歩進み、絶対的真理に近づいていく。我々人間をとりまくすべての実在は、無尽蔵に豊かな内容をもっているのである。認識の発展は、一歩一歩それを我がものとする過程であるが、我々の現実に認識しえたものは、無尽蔵な全内容にたいして、歴史的社会的に制約されており、絶対的なものとはいえない。しかし、各々の段階で獲得したものは単なる相対的な、知識にとどまるのではなくて、絶対的な真理のいわば部分を持っている。そのような相対的な真理の、暫次的な蓄積の無限な全系列によって、我々は全実在の豊富な内容を、明らかにしてゆくことが可能である。
真理が客観性を持っているかという問題は、客観的真理があるかどうか、という問題である。我々が、真理に客観性があるというのは、つまり、真理が主体に依存せず、また人間の主観的意識に依存せずに、存在している客観的内容を含むものである。そうであるならば、認識が反映している内容は、当然人間がそれを認識する以前に、主体あるいは人間の意識に依存しない客観的実在として、存在していたものである。真理とは、客観的事物およびその法則の、人間の主観的意識への正しい反映である。真理性を備えた知識は、すべて、客観的な事物の或る過程、或る側面の正しい反映として、無条件的であり絶対的なものである。このように真理は、すべて絶対性を備えているものであり、真理は、一つだけで多元的ではない。それは真理が誰にとっても共通性を持った普遍的なものであり、真理が主観的観念から導き出されたものではないからである。真理が一つであるのは、それは誰の観念においても、その観念の外にある、客観的実在と一致した観念だからである。
真理が客観的であるのは、主観的観念が、客観的な存在それ自体を反映するということであって、換言すれば、主観の中に、客観的なそのものの姿が、反映することを言うのである。自分の感覚に感じられたことは、そのままでは客観的なものではない。感覚に関係なく存在それ自体は、感覚の外に自立する。それが客観的実在のことであって、それを主観的観念は反映するのである。反映された観念と、客観的実在そのものが一致しているとき、それが真理であり、そして、その真理は、私のものでありながら客観性を持っている。ある認識にもし客観的真理性があるならば、それが一定の過程、一定の段階、あるいは一定の側面の客観的状況を反映していることで、絶対性は保持されている。対象である事物の客観的存在の絶対性こそが、真理の絶対性の根拠である。
しかし、ここで指摘するこの真理の絶対性について、人間の認識が一足飛びに、絶対的に客観的な真理の全体を、把握することはできない。それは、近似的相対的に認識の発展過程において、段々と真理に接近し、それを把握するのである。したがって、客観的な真理全体を把握する目的に、一足飛びに完全に到達することは不可能である。それは、絶えず真理に向かって発展する実践的な認識活動を通じて、段々と完全に近づくという形で、それを把握できるだけである。つまり、どのような具体的な歴史的な条件においても、客観的な絶対的世界に対する、我々の認識は、すべて、その歴史的な条件の制限を受けるのでる。さらに客観的な事物事態の発展の条件と、我々の実践の条件の制限を受けているのであって、それはすべて相対的であり、条件的であるということである。
このように一方で真理は、客観性を持っていることによって絶対性を持っている。だが他方では、客観的真理に対する我々の認識が、つねに一定の社会的歴史的条件の制約を受けているために、真理は、また、相対的なものである。だから、絶対的真理と相対的真理の対立の統一であることを肯定し、一面的に一方を誇張しすぎて、一方を抹殺するということは出来ない。また真理の相対性については、主観的に真理の客観的基準を否定し、是非のあいだのどのような限界をもすべて否定するのではなく、客観的事物の真理に対する人間の認識能力が、一定の社会的歴史的条件の制限を、受けると言うに過ぎない。我々人間は、自分の実践の発展過程でだけ、たえず発展する客観的な世界を、認識することが出来る。一定の歴史的条件において、人々の面前に明らかになりうる客観的世界の発展過程の内容の程度には、一定の制約が伴うものである。それは同時に、社会的な発展の規模や人間を取り巻く諸条件に応じて、また人々の客観的事物の過程を把握する能力に、一定の制約を与える。
このようなことは、人間の認識能力に対する社会的歴史的条件の制約である。これらの制約は、一定の社会的歴史的条件における人間の認識について、一定の深さと広さに達することが出来るだけで、一度には、絶対的真理全体を把握することはできない。しかし、人々が名々の時期において、相対的真理しか把握できないことでも、その相対的真理はその時期とその場所では、必ず客観的な正確さを持っている。したがって、それと間違った思想とのあいだには、原則的な違いがあり、明瞭な境目があるのであって、この点は動かすことが出来ない。もし、是非の境界をも変更できるというなら、それは歴史的条件が変わったときに、客観的事物自体の状況にも変化があり、そのため人々の認識も変更しなくてはならないという時だけに限られる。一定の条件で一定の事物を認識することについて言えば、その認識に客観的真理性があるかどうかという問題には、一定の客観的な絶対的基準があり、是と非についての、そのときの歴史的条件における絶対的基準があるのであって、真理が人によって違うものだとは、決して言えないのである。
すなわち真理とは、対象である客観的実在の、我々人間の意識への正しい反映のことである。換言すれば、人間の観念に含まれている物質的な外界である対象と、その法則性に一致している内容のことである。このような観念の内容を、客観的真理というのである。真理とは、この客観的実在のことを直接いうのではなく、その正しい反映のことを言うのである。つまり、人間の主観的意識の内容が、意識の外に存在している客観的世界と一致しているとき、その内容を真理と言うのである。これが真理の客観性なのである。
[参考文献]
- モーリス・コーンフォース著 藤野 渉・小松摂郎訳『認識論』理論社1959年
- ヘーゲル著 松村一人訳『小論理学』岩波文庫 岩波書店 昭和39年
- 務台理作/古在由重編集 岩波講座8巻『哲学』岩崎武雄著「真理論」岩波書店1968年
- ペ・ヴェ・コプニン著 岩崎訳『認識論』法政大学出版局 1974年