ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク講演「他のアジア」報告

文化情報専攻 9期生 宮澤 由江

   2007年7月18日に国際文化会館で行われた比較文学者ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク氏の「他のアジア」と題する講演会について報告します。スピヴァク氏は今回、「牛場記念フェローシップ」の第一回目の招聘フェローとして来日。このフェローシップは現在の世界の分断状況をヒューマニズムの視点から問題提起をしている海外の知識人を招き、内外の有識者との対話を促進することを目的としています。(国際文化会館パンフレットより)
 この日の公開講演はその研究活動報告をも兼ねたもので、学際的研究を実践するスピヴァク氏の講演とあって、会場は満席。今回の講演の注目度の高さを物語っていました。講演内容は近刊書『他のアジア』(Other Asias)で展開する「新しいアジアの考え方」についてで、サポートとして司会にはスピヴァク氏と親交のある一橋大学の鵜飼哲教授、通訳にはスピヴァク著書の翻訳者でもある東京経済大学の本橋哲也教授、スーザン・ソンタグ他、現代思想・アート系の翻訳をも手がける東京藝術大学の木幡和江教授が同席されました。

暮れなずむ六本木で考えた「新しいアジア」
 今年度、2006年刊行のアメリカ比較文学学会報告Comparative Literature in an Age of Globalizationを教材として読み進めている松岡ゼミにとって、比較文学の雄であり、コロンビア大学比較文学・社会研究所の所長でもあるスピヴァク氏の講演が東京で行われるというのはまたとないチャンスです。いつもの市ヶ谷日本大学会館やサイバーネット上から飛び出して、場を六本木に移しての特別ゼミとなりました。
 この日のスピヴァク氏はベンガルの民族衣装に身を包んでの登場。額のビンディーがアイデンティティの問題と正面から切り結ぶのだという、氏の確固たる姿勢を象徴しているかのようでした。スピヴァク氏はまず、出身国であるインドと日本の友好年である今年、このような形で日本に招かれたことを大きな喜びと語った後、近刊の著書『他のアジア』では、アジアを一つのユニゾンとまったく異なる「複数化されたアジア」として考えることを提案していると述べました。そして、地政学的なものでなく、また生産性からでもなく、人文学、とりわけ比較文学の視点から論を進めるにあたって、まず想像力(imagination)の重要性を強調しました。

アジアのイメージを脱構築する
 今回の論考ではアジアを考えるにあたって、まず現在のアメリカの政策によって定められたカテゴリーや西洋思想の枠組をはずして考えること、(東)南アジアだけをアジアと考えず、例えば、現在のロシアに内包された内陸アジアをも加味することがアジアの支配的なイメージを見直すことなると述べています。また、アジア・パシフィックを考えることもアジア再考に繋がるとも。つまりこれまでの統一的な、ある意味で正当・正統とされてきたアジアのイメージに準じない考えを前面に出しています。スピヴァク自身も、以前は、トルコから東、つまり、キリスト教社会との境界線をもって「アジア」と考えていたのだが、実はギリシャ時代既に、ホメロスはトロイをローマの属州として語っていたのであり、ここにも、別の「アジア」概念があったではないかと言うのです。さらにアルメニアを研究した際、ポストコロニアリズムでは解決できない問題にぶつかり、「アジア」を再考せざるを得なくなったとも。アルメニアはイスラムの海に浮かぶキリスト教の孤島ですが、オイル・ラインや経済流通を鑑みれば、そこには文化だけで語れない複雑に絡んだ要素を観察することができたからです。「他」とは地理的問題ではなく「不連続な空間という認識」であることを繰り返し述べていました。
 アフリカやラテン・アメリカはポストコロニアリズムで議論が展開できたのが、アジアは「複数化」しなければ議論できないとスピヴァクは強調します。これを推し進めるにあたって、まず一つには専門主義からの脱却を促しています。あえてジェネラリズム的アプローチを試みることで単独性と普遍化の可能性を見ることができ、また必要に応じてローカル・スタディを加えることによって始めて「均一的アイデンティティ」を退けることができるというのです。
 このような新しい提案を「生」で聴くと、書物を読むこととは別の力がそこにはありました。我々が何をなすべきなのか、何を考えるべきなのかが説得力をもって迫ってくるのです。ゼミで輪読してきたDoing English(Robert Eaglestone 2000 『英文学とは何か』)、Literary Theory(Jonathan Culler 1997 『文学理論』)で論じられている「理論の実践」とはこういうことなのかと実感できました。

想像力を鍛えよ!
 スピヴァクが繰り返し主張する「想像力を鍛えよ」とは、今あらためて文学を軸に世界を読み解くことに意味を見出しての提案です。文学とはその虚構性から存在しないものを創造することができ、それによって想像力を引き出すことが可能です。文学的営為を通じて、超越的直感を掴むことができるという主張は、文学こそが世界の長期的改革に力を発揮できるのだという確信に進み、比較文学の今日的意義と重要性を十分に言い表していると感じました。「想像力はデジタル化できない最後のもの」という彼女の言葉には人間の持つ可能性を信じるポジティブさがあります。
 今世紀に入ってから、時代そのものが大きく揺さぶられてきている中で、現代社会での生産性や実用主義的なテクノロジーを中心に据えた考え方が、さまざまな壁に突き当たってきている感があります。スピヴァクの人文学の担う力を今、もう一度見直すべきだという主張は、世界の分断状況を目の前にした「知の前線」が「理論での実戦」を誇りとしてなされたものです。講演の終わりに加えられた「この論考が反時代的なのはよく承知しているので、さまざまな意見を待っています」という言葉は決して儀礼的なものではなく、ここから更なる議論の発展を期待してのものであることは間違いのないことだと思います。

Gayari Chakravorty Spivak [ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク]
 1942年インド、カルカッタ生まれ。59年カルカッタ大学プレジデンシィ・カレッジ卒業後、渡米。コーネル大学でPh.D.取得。現在コロンビア大学特別教授、同比較文学・社会研究所所長。主な著書に、Death of a Discipline (2003)(『ある学問の死―惑星思考の比較文学へ』みすず書房2004)、A Critique of Post-Colonial Reason: Towards a History of the Vanishing Present (1999)(『ポストコロニアル理性批判:消え去り行く現在の歴史のために』月曜社2003)、“Can the Subaltern Speak?” (1994) (『サバルタンは語ることができるか』みすず書房1998)、『文化としての他者』(紀伊国屋書店1990)など。
 
     


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