中国のラスト・エンペラー、毛沢東の理想と現実

                       国際情報専攻 4期生・修了 長井 壽満


 1950年代は中国共産党による新生・理想中国復興を目指した10年である。同時に世界の国々が社会主義(ソ連中心)と自由主義(アメリカ中心)の二つのイデオロギーに染まった時代であった。イデオロギー政党として出発した中国共産党は自らの出自からこのイデオロギー闘争から逃れることはできなかった。毛沢東がイデオロギーの指導者である。毛沢東の考える中国の理想が1950年代の中国を規定してしまった。1950年代を毛沢東の考えていた「理想の中国」を創造する時代と捉えることができる

I. 1950年代の連続性を欠いた政策
1950年代、中国に関係する出来事を記してみると、「毛沢東「人民民主主義独裁論」(1949)、中ソ友好条約(1950)、朝鮮戦争(1950)、中国チベット進駐(1951)、毛沢東「社会主義への移行を提起」(1953)、平和五原則(1954)、第一回全人代(1954)、スターリン批判(1956)、毛沢東「百花斉放、百花争鳴」提起(1956)、大躍進運動の開始(1957)、大躍進の失敗・劉少奇国家主席就任(1959)、中ソ国防新技術協定破棄(1959)、中共8期8中全大会、彭徳海批判(1959)、中ソ論争公然化(1960)、大躍進停止(1961)、毛沢東自己批判(1962)1」がある。この歴史事実から共産党の指導する中国は「中国の近代化=富強」へ到達するための具体的な政策をもっていなかったとしか見えない。変化の節々に毛沢東のイデオロギー、農村からの継続革命思想が出現する。

II. 歴史の軛
中国の歴史で、共和制や民主制の体制を持つ政権は無かった。中国は数千年に亘って、皇帝一人に権力が集中する政治体制を選んでいる。中国共産党も中国の「歴史の軛」から逃れることはできなかった。中国共産党の中で、毛沢東は皇帝と同じようなカリスマ的権力を握っていた。今でも中国では権力が一人に集中される傾向がある。特に、1950年代は第二次世界大戦が終わり、東西冷戦、社会主義と資本主義のどちらが優位な体制化かを問うイデオロギーの時代であったために、国を築く方法論が形而上的な議論に傾きがちであった。中国共産党は理想とプラグマティズムの間を揺れ動いた。結果として、指導者(毛沢東)のイデオロギーに国家運営が左右されたのである。

III. 毛沢東の実験
マルクスは共産社会成立後の具体的な構図は残さなかった。中国のカリスマ指導者となった毛沢東は自ら海図のない新中国建設にのりだすことになる。中国の課題はイデオロギー政党として出発した中国共産党の元で「富」・「強」の二字で象徴されるように、「列強搾取による人々の窮乏化の改善」と「近代化を通じた国の統一/国威の回復」である。毛沢東は「生産関係が生産力に優先する」考えを採り、中国独自の継続革命を唱えて自力更生の道を選ぶ。ソ連では1956年にスターリン批判が起きた。毛沢東はソ連に追従しないだけでなく、ソ連を修正主義者と批判し中ソ間の関係は1980年代まで冷え切った。1950年代は毛沢東の唱える農村を中心とした共産化・集団化への政策、その政策失敗の修正、再び共産化・集団化とこの繰り返しである。1950年代の中国は下記@〜Cの4期に分けることができる。この10年間は方針を立て、失敗したら訂正するという安定政治と程遠い試行錯誤政治の連続である。1950年代の政策論争の基底には、毛沢東の共産主義(社会主義)への理解「生産関係が生産力に優先するのか?」、それとも「生産力が生産関係に優先するのか?」を検証していた時代である。
@建国の時代(1949年−1952年);戦後復興、生産力回復、国の基本体制の確立、A第一次五ヵ年計画期(1953年−1957年);ソ連をモデルにした工業近代化・官僚システム構築の時代、B大躍進期(1958年−1959年);毛沢東の唱える農村を中心に据えた継続革命・自力更生・反官僚の時代(失敗に終わる)、C経済調整期文革前期(1960年−1968年)、大躍進による経済と人心へのダメージ回復。
  「穏健路線と急進路線が交互に現れ、経済建設に力点を置いたかと思うと、突如として大衆運動が発動されキャンペーンの嵐となる2」という時代であった。毛沢東の唱える弁証法、物事は常に対立・変化し発展するという思想の影響が色濃く反映された時代である。

IV.各時代の具体政策
1.建国復興期(1949年−1952年):中国が成立し、戦時体制から復興体制に移行する時期である。建国・復興とは国家の目標を定め、その目標にむかって国の資源(人的・物的資源)をシステマティックに動員して目標を達成することである。この時期に朝鮮戦争が勃発し、中国政府は「国の建設」と「朝鮮戦争」の二つの仕事を同時に進めることになる。巨大かつ多様な国土と人口を統治するためには、共産党が主導しながらも今まで中国の各地域に根付いた伝統的社会構造を引き継ぐかたちで建国・復興活動が行われた。近代国家は官僚制度なしには存在できない。当然、中国なりの官僚制度を構築することになる。「建国初期には、各地域、各分野からまんべんなくそれぞれにおいて能力を発揮した多様な人物を引き抜いていた。そのなかには、共産党以外の民主人士、企業家なども非常に多く、この意味からいえば、連合政府の官僚制ともいえる形態が出現していた3」。国の体制が整うとともに、広大な国土と多くの人口を統治する人材の質、専門化の不足、統治制度、等の問題点が現れてくる。
2.第一次五ヵ年計画期(1953年−1957年。以下15計画と略す):
2-1.15計画実施期:
社会主義陣営の一員となる。国家の近代化(工業化)を進めるためにはソ連の力を借りなければならなかった。15計画実施の過程で明らかになったのは「官僚制度の活動が個別・専門化しはじめた段階で明らかになった経験不足、専門家不足であり、これがその後ソ連モデルの全面学習へと傾いた一つの理由であった4」。近代化・工業化を急速に進めるには、中国はソ連モデルを採用するしか選択肢は無かった。1952年11月に国家計画委員会が設立された。この組織は社会主義の計画経済を確立、維持、発展させるための中心的な機構であり、この組織を中心にして15計画が立てられる。「中国は建国期の連合政府型から中国共産党による絶対指導型5」の時代にはいる。15計画はソ連型モデル、スターリンが唱えた重工業中心・中央集権型発展モデルである。15計画自体もソ連の協力の下で立案され、ソ連の多くの専門家が中国に訪れ建設プロジェクトに携わった。15計画初期は中ソ蜜月の時代である。同時に中国共産党が選んだ現実路線であった。15計画で近代化(工業化)は達成できた。しかし、権力は官僚(共産党)に一極集中してしまった。中国の伝統である権力集中による政権の腐敗・汚職が進み、農村は軽視され取り残された。15計画末期に毛沢東はソ連モデル=重工業偏重の批判を『10大関係6』にて提起する。中国の国家行政機構はソ連を模倣して構築された。中国の国家行政機構は15計画時代に確定した。15計画時代は中国の近代化・重工業の基礎・産業化、国家体制が整った時代である。
2-2.毛沢東と15計画の矛盾:1956年に15計画の結果生じた問題点に起因して、毛沢東の「百花斉放、百花争鳴」提起が起きる。15計画の歪として@共産党の指導強化・集権化、A過度な中央集権・官僚主義化、B重工業偏重経済政策が挙げられる。毛沢東は「百花斉放、百花争鳴」運動により、共産党政府への批判、及び15計画で生じた矛盾である農村の遅れに対して危機感を抱く。毛沢東のこの危機感が次ぎの大躍進運動につながる。毛沢東の問題の解決方法は常に「農民動員・イデオロギー運動から都市への波及」の手法がとられている。毛沢東は「中国人と農民の心理」と「動員方法」を熟知していた思想家・政治家である。
3.大躍進期(1958年−1959年):大躍進期は毛沢東が自ら経済政策を主導した時期である。1958年から第二次五カ年計画がスタートするはずであった。しかし毛沢東は15計画の結果は中国の現実に合致しないと判断した。中国独自の社会主義建設方法を模索し、大躍進運動を起こした。大躍進運動の理念は「@農業と工業の同時発展、中央集権の否定、A社会主義革命思想として人間の「主観的能動性」への信仰、Bソ連モデルからの決別、自力更生の精神7」が挙げられる。大躍進時代は毛沢東の理想が先行し、非現実的な経済政策が採られた。例えば、工業化の基礎を鉄鋼増産に置き、「土法高炉」推奨し「鉄」資源を鉄の「塊=廃物」に変えた。大躍進運動は、思想により生産性は向上し、共産主義制度は発展し、高次の段階に達するのを目標としたイデオロギー運動である。その結果は、数千万人の餓死者であった。当時の国防部長の彭徳懐は毛沢東に大躍進の災害・困難さを進言したが、毛沢東は彭徳懐を解任した。中国は連綿と人治の統治が続いている国である。中国は毛沢東の存命中、「毛沢東の軛」から逃れることはできなかった。大躍進は失敗する。中国共産党指導者が近代合理的思考を獲得し、中国人本来のプラグマティズムの思考にもどるには文革の終了・毛沢東の死去する1976年迄またなくてはならなかった。
4.経済調整期文革前期(1960年−1968年):大躍進の失敗を受け、1960年から1962年の間は、劉少奇、トウ小平、彭真、周恩来等の実務官僚政治家が大躍進で混乱した経済の回復に努めた。経済が回復すると、再度毛沢東の継続革命イデオロギー運動としての文化大革命が1965年に始まる。

V.まとめ
1949年から1960年代の前半まで、建国・復興期及び経済建設(15計画)→継続革命(大躍進・失敗)→経済建設(劉少奇路線)→継続革命(文革・失敗)のパターンである。
 中国共産党は本来現実・プラグマティズム的な党である。それ故に毛沢東の中国共産党は国民党との内戦に勝利を得、政権を手中にした。「毛沢東は1931年中華ソヴィエト共和国臨時政府の主席となり、1935年遵義会議で中国共産党権力掌握、中国の実情に合わせた農村から革命を指導し、コミンテルンの「都市革命」の影響から独立した8」。
 建国後の約10年間、中国共産党は「あるべき共産主義とは何か」を模索しながら国の近代化を目指した。中国はソ連の経験の導入から始めた。次に毛沢東は中国独自の思想としての大躍進政策を進める。1950年代は中国の近代化への生みの苦しみの時代であった。
 近代化とは都市化・工業化・官僚化であるにもかかわらず、毛沢東と共産党の指導部は過去の「農村から都市へ」の成功体験の呪縛からのがれることができなかった。さらに、毛沢東に権力が集中し、毛沢東は思想家として自分の思う理想の共産国家、中国を建設しようとした。毛沢東は中国のラスト・エンペラーとして振舞ったのである。毛沢東は近代化の具体的な意味を理解できなかった。しかし、1950年代の中国は経済的にも物質的にも苦しかった時代であったにもかわらず、中国人なりに理解した毛沢東の農民革命の発想から出発した共産主義の偉大な実験・創造の場であった。
以上







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