防災するヒト(補論)

                       人間科学専攻 9期生 近藤 誠司


<1> はじめに
 前号の「電子マガジン」に、拙論『防災するヒト』を投稿したことで、様々なところからリアクションをいただきました。あらためて思索を深める契機となりましたこと、この場を借りて深くお礼申し上げたいと思います。
 さて、問い合わせに関しては、拙論に舌足らずな内容が多々あった証左だと思いますので、今回は大きく3点、補足として論じてみたいと思います。まず「共振する防災」の説明、次ぎに「互助の思想」の位置づけ、そして「防災倫理学」についての提起です。

<2> 共振する防災
【2―@: 固有周期と共振現象】
 一般的に、低層の木造住宅はガタガタと揺れる短周期の地震動に弱く、高層の建築物はユサユサと大きく揺れる長周期の地震動に弱いとされています。これは、そうした揺れの周期に対して、それぞれの建物が「応答しやすい値」=「固有周期」を持っているからです。この「固有周期」と同じ範囲の値が外力として与えられた場合に、構造物は「共振」現象を起こします。揺れが、いわば増幅してしまうのです。
 代表的な例として、2003年に起きた北海道十勝沖地震があります。この地震では、苫小牧の石油タンクで大火災が発生しました。石油タンクの上蓋がスロッシングを起こして揺れ動いてしまい、外壁と擦れあう際に発生した摩擦熱で発火しました。石油タンク内の液体が長周期の地震動に対して「共振」していたことが、その後の調査から確認されました。地震防災では、建物ごとの「固有周期」に応じた個別の事前対策が必要であることが、この震災をきっかけに問題視されるようになったのです(1)

【2−A: こころの固有周期】
 「共振する防災」は、この構造物の固有周期の概念を、ヒトのこころにも当て嵌めてみようとするものです。今一度、地震防災を例にあげて考えてみましょう。
 『将来、きっと地震が起きるのだから、今のうちに対策をしておきましょう』。この平板な掛け声に応答する人の固有周期を、たとえば仮に「中庸の値」として設定してみます。このカテゴリーに属する人に、『地震が来たら、あなたは死ぬぞ』とか、『いざというときに愛する人がどうなってもいいのか』といった脅しのような掛け声(=短周期の値)を投げかけても、反発するだけかもしれません。なぜそこまで大上段にモノを言われないといけないのかと、反感を抱かれる可能性も高いでしょう。では逆に『地震防災に取り組むことは、意外に楽しいものだよ』とか、『遊びの中で防災を学びましょう』などと呼びかけたら、どうでしょうか。そのいざない(=長周期の値)を不審に思ったり、不真面目だと受け止めたりするかもしれません。つまり、ヒトの個体ごとに、地震リスクに対するこころの固有周期がある程度定まっているため、防災に関する問いかけの仕方によって、こころに響かない=こころが「共振」しないことがあるのです。

【2−B: 「共振する防災」の視座】
 このように、人によってこころが共振する固有周期が違うという「こころの固有周期仮説」を持っておくと、防災意識を喚起する側がその方法論を常に問い直す余地を残しておくことができます。さらに、眠っている「防災するヒト」の本性を、いつかは目覚めさせる(共振させる)ことが出来るであろうという、ポジティブな未来観を手に入れることができるのです。
 防災の分野に身を置く人は、熱心に取り組むあまり、結果がすぐに現れないことに対して不満を抱きがちです。怒りの矛先を相手に向けてしまうことは、リスク・コミュニケーションの失敗以外の何ものでもありません。
 では、どうしたら人は「共振する」のか。最近、防災教育の分野で、ユニークなアイデアが次々と提起されています(2)。ここでは、その方法論についていちいち検討したり吟味したりしませんが、いずれかひとつに「正解がある」わけではなく、状況や場面によってアプローチを変えながら、常に糸口を探っていくしかない、ということだけ指摘しておきたいと思います。

<3> 互助の思想
【3−@: 「自助・共助・公助」の登場】
 平成7年1月17日に起きた兵庫県南部地震(災害名:阪神・淡路大震災)では、公的救助機関の「限界」が一気に露呈しました。応急対応のフェーズでは、いわゆるヘビー・レスキューによる救助の手は足りず、住民によるライト・レスキューに頼るしかなかったのです。そして復旧・復興のフェーズにおいても、同様の教訓を残しました。まちのコミュニティを再生していく取り組みにおいては、まずもって住民たちの自助努力が大きな力を発揮することが、被災地のあちこちで実証されたのでした。
 この文脈を整理するために現れたキャッチフレーズが、「自助7割、共助2割、公助1割」という言葉です。まず「自分の身は自分で守る」、すなわち「自助」。次ぎに「隣近所の助け合い」、すなわち共助。そして最後に、自助でも共助でも成し得ない専門的な事柄を行政機関がバックアップする、すなわち「公助」です(3)
 7:2:1という数字は、役割分担を明解にするという意味で、一定の成果を出してきました。これまで押しつけの防災対策を進めてきた行政の役割を「1割」に押しとどめ、逆に「怠惰で愚かな住民」(4)とされた住民ひとりひとりの役割をぐんと引き上げ、「7割」の期待を込めたのです。住民の力を「エンパワーメントする」という言葉に、その意が込められたりもしました。

【3−A: 自己責任論と利己的自助】
 ところが、この「自助・共助・公助」という言葉は、やがて行政や首長のエクスキューズに使用される「便利な定型句」となっていきます。『行政ができることは限られているので、住民の皆さんでがんばってください』。行政のやるべきことの検証を棚上げにして、住民側の力不足を指摘する道具として絶大な効果を発揮するわけです。そして住民は、「自分の身は自分で守らなければならない」という過大な自己責任を負わされていることに、もはや言い訳することさえも許されない状況に追い込まれてしまいました。経済的な困窮者に対する慮りもないまま、耐震診断や耐震補強の取り組みを強要することも散見されるようになってきています(5)
 さらに、自助の最重要視は、個人の体力差を固定化・拡大化させていく場面さえも生んでいます。いわゆる「防災格差」が生まれてきているのです。資源を豊富に持つ者は、「自分の身さえ守れたらよい」というスタンスを見せ始めています。たとえば経済的に余裕のある人は、そもそも住宅を耐震補強する必要がほとんどありません。すでに頑丈な造りの住宅ストックを手に入れているからです。さらに転居する場合でも、耐震・免震・制震に対応した新築物件を購入する余裕を持っています。自助の最重要視だけでは、利己的な姿勢を助長したり、弱者切り捨ての潮流に与してしまったりする危険性があるのです(6)

【3−B: 互助の思想】
 前述したとおり、「自助・共助・公助」という言葉は、それぞれの役割分担を明確にする上では、今もってその意義を失っていません。しかしながら、災害という危機を前にした際にでも、命の平等性を守り抜こうとするならば、一般の住民だろうが、行政の担当者であろうが、経済的にどんな立場にあろうが、「困ったときはお互いさま」という立ち位置の平等性が求められるはずです。そのためにも、「自助・共助・公助」に替わる関係性の概念を立ち上げておかなければなりません。そこで筆者が提起したいと考えているのが、「互助」という言葉です(下図参照)。

自助 共助 公助

互助


 前号拙論では、この概念を念頭におきながら、ヒトは皆「防災するヒト」としての本性を持っている点において同じ立ち位置にあり、「互助の思想」を醸成していく可能性が開けていることを指摘したのでした。

<4> 防災倫理学序論
【4−@: 防災に求められる「越境する知」】
 阪神・淡路大震災の教訓を世界と21世紀に発信する会合として位置づけられた「メモリアルコンファレンス・イン・神戸」の事務局長をつとめた河田恵昭は、震災10年の節目を機に、『阪神・淡路大震災から学ぶべきことは沢山あります。すなわち、政治、法律、経済、社会、科学、工学、医療、福祉、技術などのいろいろな分野から、この災害について語られ様々な観点から検討されてきました』と語り、防災の分野においては学際的なアプローチが重要であることをあらためて指摘しました(7)
 たとえば志村史夫も提起しているとおり(8)、現在の「理系/文系」の仕分けでは、「災害の創造性」(9)に社会が対応できなくなっています。見田宗介はその著書の中で、「ほんとうに切実な問題」を追求するときには「知は越境する」必要があることを訴えています(10)
 防災の分野において、いったい知の射程距離はどこまで届くべきなのでしょうか。

【4−@: 防災に求められる「越境する知」】
 問いを立て直してみましょう。なぜ、私たちは防災をしなければならないのか?
 一方で、防災は「自己責任」である、と言い切ることも可能です。もはや天譴論は受け入れられないとしても、「地震災害は宿命である」、「起きたらそれまでのこと」と、適当に受け流すことも可能です。
 それでも、なぜ、防災に取り組もうとするのか?
 たとえば・・・、これはあくまで私見ですが、レヴィナスの立てた「何のために生きるのか」という問いの中に突破口が見いだせるかもしれません(11)。人は1人で生まれ1人で死ぬ意味において「1」である。しかし、核相「2n」のヒトという生物は、核相「n」の生殖細胞を宿し、受精によって「2n」の別個体を誕生させる可能性を秘めている。ここでは、ヒトという個体は「1」ではなく、「1.5」の存在(可能態)として捉えることができるのです。すると「0.5」については、ヒトである誰もが責任を負うことになります。将来の災害に対して、「自分が死のうが死ぬまいがどうでもよい」、ということにはならないわけです。
 これはある意味、「世代間倫理」の視座を提供する古典的な論理と言えます。そして、この考え方に誰もが納得できるわけではないにしても、・・・であればなおさら、「防災倫理学」の確立が急がれていると思います。
 受苦的な存在としての「防災するヒト」・・・。わたしたちは、同じ地平に立って、その知の果てを求め続けていく、そんな夢みる小さな存在なのです。

<5> さいごに
 今回の文章は、防災を語り合う場として2006年に神戸で結成された「KOBE虹会」での議論から着想しました。この場を借りて、謝辞を伝えたいと思います。





【参考文献】


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