私の転校生体験―昭和30年代半ばの小学校

                       文化情報専攻 4期生・修了 具島 美佐子


小学校入学前後
 人生で初めて味わう学校、それは小学校である。昭和34年に小学校に入学した私には、いまでも小学生になりたての頃の思い出が心のオアシスとなっている。6年間の小学生生活で、父の転勤などから三つの小学校に学んだが、特に二つ目のT小学校での15ヶ月間(昭和34年9月〜35年12月)は、記憶の玉手箱にしまいたいくらい貴重な歳月となっている。当時は主に転校生だけがいじめの対象であった時代であったが、私は有難いことに先生や周囲の友達の援助があり、乗り切ることができた。
 昭和34年には現在の天皇は未だ皇太子で、私が小学校に入学した4月にご成婚があった。当時私の一家は東京に隣接したS県のK市に住み、家は庭つき一戸建ての公務員住宅であった。家には両親や弟の他に、父の伯母で養母であった高齢の祖母が同居し、さらに子犬を飼い始めていた。ご成婚をテレビで見たいという祖母の希望などもあり、父はテレビを買った。この高齢な祖母と共に、私はご成婚前の美智子様の白いドレスでの記者会見のご様子や、ご成婚の有様を白黒テレビで見ることができた。この祖母は明治13年生まれで、父の実父はこの人の亡夫の末弟であった。父の実家は都内で、祖父母は未だ健在であり、父の妹は結婚後も実家の近くに住んでいた。また母の実家は東京隣接のC県で、父はC県で公務員としての人生をスタートさせ、家庭をもった。
 この年の9月には父が再びC県に戻ったので、私の家族は県庁所在地C市に移り住んだ。C市の公務員住宅は狭い2部屋位のものしかなかったらしく、私の一家は郊外に借家をした。少し広い家が必要であったのは、K市から飼っていた犬を連れてきたこと、祖母が80歳近くて病気で寝込む可能性があったことなどであった。

代用教員出身の先生
 田んぼが広々と見えるC市の郊外で、私はT小学校に二学期から転校した。担任はA先生という四十代前半の未亡人であった。その先生にはわずか一年と3ヶ月のご縁であったので、美しい思い出ばかりかもしれないが、全く叱れた記憶がない。そしてこの間、私はA先生を見ながら将来小学校の先生になりたいという夢をもつようになった。このA先生は女学校卒の代用教員から出発した方で、師範出の先生ではなかった。転校まもない頃、私は夕食後に両親の話から、そのことを知った。「小学校なんて、それでいいんだ」という父、「そういう方に教えていただくのも、いいことね」という母の声がテレビの音声に混じって聞こえていた。父は第二次大戦に一兵士として動員され、また母は学徒動員で軍需工場に派遣された体験をもっていた。両親には先生のご苦労に共感するものがあった。先生のご家庭には二人のお子さん(中高生)とお姑さんがおられて、先生は一家の大黒柱でいらした。ご主人が職業軍人か、満洲国の文官のような立場であられたかは不明だが、戦中から戦後にかけて中国大陸で亡くなられたとのことであった。
 後に私は戦後の先生不足や未亡人救済がその背景であったことを理解した。最近読んだ本の中に、「もっとも無資格教員、代用教員といえども、資格こそなかったが、地方の名望家やインテリ層で失業中の若年、壮・老年層、婦人層であったので、人間的資質と教員としての適性は有資格教員と較べて遜色ないどころか、むしろしのぐ場合もあった。」注1という記述がある。この記述は私の体験からも真実に近いものに思われる。先生は音楽や体育の授業もこなされ、またお習字が上手でいらした。お手本の左隅に「仁子」とご自分のお名前を書かれたが、一年生の私たちはだれも読むことができなかったので、「まさこ」とご自分でお読みになった。
 当時このT小学校では女の先生の服装はスカートは自由だが、上衣は全員が紺色の事務服のようなものに決められていた。運動会では全ての女の先生が同じ規格の白の上衣、紺色のキュロットスカートを着用しておられた。女の先生方に服装の規約のようなものがあったらしい。また児童は全員が名札を付けていた。名札は一年生は赤、二年生は黄色と学年毎に決められていた。ただ女児のパーマは容認されていたようで、パーマを脇の部分にかけた子がクラスに二、三人いた。それは当時の童謡歌手をまねたものであった。

友との出会い
 学校へ通うのは楽しかったが、最初のうちは友達にめぐまれなかった。転校後、一週間位私は休み時間に校庭の片隅で、一人で鉄棒にぶら下がったりしていた。そんなある日「いっしょにやらない」と同じクラスの女児が話しかけてきた。そのYちゃんという子は、白いセーターを着て、おかっぱ頭の脇の部分にパーマをかけ、私の方を見て微笑んでいた。そしてそれがきっかけで彼女と友達となることができた。まだ二学期が始まったばかりなので、クラスの女児の中でグループのようなものが固定されていなかったのであろう。いつもしゃれた身なりのYちゃんは多少浮き上がった存在であり、私は転校生で、余りもの同士がなんとなく結びついたのであった。
 やがて私とYちゃんは休み時間には校庭で主にテレビ番組などの話をするようになった。そして二人の間にいくつかの類似点があることが分かった。「うちのおかあさんは29、妹が3つ下」とYちゃんが言ったので、私も「うちのおかあさんは31、弟が3つ下」とそれぞれの家族も紹介した。そんな話をしていたある日、五年生か六年生の名札をつけた少年が私達の傍にきて、Yちゃんに何か話しかけた。「うん」という彼女の声が聞こえ、私は何気なく少年の名札を見るとYちゃんと同じ苗字が書かれていた。少年が去った後、「あれ、お兄さんがいたの」と私が尋ねると、「今のは従兄」と彼女はちゃらりと言ってのけた。私はその瞬間、子供ながらに初めてジェラシーのようなものを感じたにちがいない。東京に住んでいる父方の叔母の男児ことがとっさに頭にひらめいた。「私も従兄がいるよ、同じ年だけど早生まれだから二年生なんだ」と、負けずに言い放った。私はYちゃんと対等の関係になろうとしていたのであろう、それが元で喧嘩をすることはなかった。
 Yちゃんがおしゃれなのは既に土地付きマイホームに住んでいて、お父さんは豊かな家の次男であったからである。そしてYちゃんのおばあちゃんは従兄の父である伯父さんの家に住んでいたようであった。Yちゃんという友達ができたことを母に話すと、母も安心した。しかしYちゃんのお母さんが、母の直ぐ下の妹である未婚の叔母と同年である点も付け加えると、「それは、きれいな人だからよ」と暗い声になった。
 友達が一人できると学校生活に自信がわき、私はクラスの授業でも発表ができるようなった。順調に二学期は進み、父兄会(現在の保護者会)があった。出席できる家庭はクラスの三分の一位であったようだ。T小学校での初めての授業参観で、私はYちゃんのお母さんと妹さんを見ることができた。お母さんは、美智子様ほどではないが白いワンピースを着ておられ、その傍にはまるで人形のように愛くるしい妹さんがおられた。私の母はYちゃんのお母さんから少し離れた位置におり、黒い紋付の羽織を着た和服姿であった。現在よく思うが、私に妹がいれば、Yちゃんとの友情がそれでストップしてしまったかもしれないが、弟であったので純粋に「かわいい」という気持ちが湧いたのであろう。また29歳で未婚の叔母は、休日にはよく遊びにきたが、二児の母であるYちゃんのお母さんよりも老けて見えた。「休日にはもっと明るい物を着たほうがいい」という母に対して、化粧気のない叔母は「白のブラウスと紺のスカートがあればいいのよ」と言い返していた。

昭和35年頃の子供と社会
 昭和35年の1月、三学期には校舎の改築などから二部授業が行われるようになった。「五年生と六年生はクラスが多くてね」と、先生はおっしゃった。五、六年生は6クラス、三、四年生は5クラス、一、二年生は4クラスであった。 この時期に私は新しくSちゃんという子とも友達になることができた。Sちゃんについては、プライベートのことは何一つ分からないうちに私たちは別れたが、私の欠点を補うような友で、Yちゃんとは別の意味でいい関係であったかもしれない。彼女が男児にいじめを受けているのを、私がその男児に立ち向かうことで救ったことがあった。それ以来、席が近いせいもあり、Sちゃんはわたしの世話を献身的に焼きだしたのであった。彼女は天然パーマであったが、彼女の長所は女の子らしい優しさにあり、私が消しゴムを落としたりすると、拾ってくれたりした。私には最大の欠点である「女離れをしたところがある」という性格がこの頃から養われていたようで、私は素手で同級生の男児に立ち向かった。しかしけんかはその場限りであり、報復をうけることはなかった。陰湿ないじめは未だ蔓延していない時代であった。
 2月には当時の皇太子に初めてのお子様(現在の皇太子)が誕生なさった。ある日学校から帰るとテレビで雅楽のようなものが演奏され、「親王様がお生まれになりました」とアナウンサーが言っていた。やがて4月には二年生に進級し、私はクラスのなかで次第に発言力をもつようになっていった。もはや転校生という目でみられなくなった。しかし社会では暗いことが多くなった。九州では炭鉱争議があり、安保闘争も頂点に達していて、6月には皇太子妃と同じ名前の女子学生が亡くなった。注2

再び転校
 私の家はYちゃんの家ほど豊かではなかったが、暗い社会の影響を被らずに住んだ。父は土地付マイホームを持つことを計画し、同じC市の中心部で田んぼを埋めた土地五十坪をまず購入した。35年の12月には私の家族は犬も含めて新居に引き移った。弟が私のおさがりを着るという倹約生活は続いたが、彼の成長に合わせて、母は私のセーターを解いた後によく似た毛糸を買い足して編み替えていた。新居に移ってまもなく、小さなオルガンを私は買ってもらうことができたが、T小学校でののびのびした雰囲気は三つ目の小学校にはなかった。転校後もA先生や、Yちゃん、Sちゃんとの手紙のやりとりが2、3年続いた。そんな中で私の小学校生活はあわただしく過ぎていった。日曜日にはピアノ教室に通い、手の小さい小学生には過酷な「ハノン教本」の曲を練習したりしていた。中学校は国立C大学の附属に進み、様々な小学校の出身者と出会い、T小学校の生活は記憶の彼方に去っていった。
 昭和43年、私は県立のC女子高の普通科に入学をした。C女子高の一学年の定員は普通科350人、家庭科100人で計450人であったが、YちゃんやSちゃんの姿を見ることはできなかった。同じクラスにT小学校の出身者がいたので、それとなく聞いてみると「A先生のクラスではなかったから分からない、中学に行く時にバラバラになっちゃって」という答えが返ってきた。T小学校での生活から、既に8年が経ち、祖母は亡くなり、K市からつれてきた犬も一生を終えていた。ただ母が市内のデパートでこの頃A先生にお目にかかっていたので、私の高校進学が先生に伝わったことは確かであった。
 すでにT小学校での生活から四十八年の歳月がたち、両親は他界し、独身を通した母方の叔母は介護施設で余生を送っている。転校生の私を支えてくれたA先生や二人の友にはその後もお目にかかる機会がなかったが、今でも感謝の念を忘れたことはない。私も五十歳代の半ばとなり「悪いことばかりの人生ではなかった。いろいろな方に助けていただいた」と思うことも多いが、最初にまず心に浮かぶのがT小学校での15ヶ月間の生活である。





(注)


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