ヘーゲル論理学における「端初」の概念

                       人間科学専攻 8期生 川太 啓司


 ヘーゲルは「有は単純な内容のない直接性である。その対立は純粋無であり、両者の統一は成である。無から有への移行は生起であり、その逆は消滅である。」(1)と述べている。このように論理学の始まりは、有という直接的で無規定的な即時的概念である。これは内容をもたず空虚であることから、純粋な否定である無に等しい。したがって、この二つの概念は、対立していると同じく絶対的に同一であり、名々は直接にその反対物への消滅である。両者のこのような統一的移行は、純粋な成である。
もう少し詳しく言えば、無から有への移行は発生であり、その逆である有から無への移行は消滅である。この発生と消滅の過程が沈殿して静止した状態となり、単純なものとなったのが定有である。この定有とは、規定性を持った有であり、すなわち質であり、もっと詳しくいえば、対自的な実在性すなわち、規定され限界を持った定有である。規定され限界を持った定有は、自分から他のものを排除するものであり、そしてそれは、他のものに対する否定的態度によって媒介されているのである。
 ヘーゲルのいう有(Sein)は、我々の意識にとって直接的なもの、すなわち感覚的事実という意味を持っている。有・質・量も論理学のカテゴリーであるから、具体的な事物の直観や表象ではない。ただこれらのカテゴリーは、我々に対して直接的に最初にあらわれる概念を、論理化したものにすぎない。それはまた、世界を最も抽象的に、そして最も我々の意識に直接的に現れた、形において捉えたものである。そしてこれらのカテゴリーにしても、他との関連性は問題ではなく端的に見ることであり、本質論とは異なりまだそのものの内部構造にまで、立ち入らないでそれを個として捉える、外的表面的なものの見方なのである。

 ヘーゲルは、このような有とか質・量とかの直接的なカテゴリーを、論理学の端初(Anfang)として捉えて、直観的感覚的認識から次第に、内的な本質的認識へと導き出そうとしたのである。そして論理的カテゴリーのなかで、最初のもっとも抽象的なものとして有をとりだして、ここから論理的カテゴリーの全体系の、検討をはじめたのである。しかし、この有論の最初の有(Sein)・無(Nichts)・成(Werden)という展開の仕方は、前後の相互関連からしても理解しにくい。有は無規定で単純な直接的なものであり、つまり有はただあるだけで、それ以上の規定を一切もたないもの、つまり純粋な無規定性であり、空虚であるとしている。
 有のなかには直観(Anschauung)や思考(Denken)されるべきものは、なにもないという意味で空虚な直観そのもの、あるいは空虚な思考そのものだとしている。従って、この無規定的な直接的な有は、じつは無であって無以上のものではない。有は有であり、かつ無である、つまり有ではない、これは一見して形式論理学の矛盾律を犯しているように見える。しかしヘーゲルは、こうして有から無へと考察を通して、有は無であるといい有は無と同一であり、無は有と同一だと主張している。このような有から無への移行と、無から有への移行とは、統一として捉えるべきであって、この両者の統一が成であるとしているのである。ヘーゲルは、有と無は同一であるという表現でもって、実は有と無との統一としての成を、明らかにしたいと考えたのである。その意味で彼によれば、成は有と無と成果の真の表現であるといっている。そして、有と無が同一であるという時に、実は両者の統一としての成(Werden)をすでに前提しているのである。

 彼はヘラクレイトスの「万物は流転する」という思想を念頭においていて、流転しつつある万物は有るものであると同時に、元のままではない無になりつつあるのであり、つまり、有の要素と無の要素との統一された姿が、万物の流転の姿であるというわけである。無から有への移行は発生(Entstehen)であり、有から無への移行は消滅(Vergehen)であって、この発生と消滅という両側面の統一が流転なのである。世界には固定・不変のものは存在しないし、万物は運動・変化・発展するものなのである。つまり万物は存在し、また存在しない、なぜなら万物は流転しており不断に変化し、不断に生成と消滅の過程のうちにあるからである。このような弁証法(Dialektik)の端初(Anfang)の姿を、まだ単純で抽象的であるけれども、成というカテゴリーによって、表現しようとしたのである。
 そしてヘーゲルは、この成を分析して有と無という概念を取り出して、成が肯定面である有であり、否定面である無との統一であることを示したのである。しかし彼は、成が有と無の統一であることを示すのに、有は無規定であるからして無とおなじで、有という概念(Begriff)が自己展開して成へと進んでいくとしたのである。しかし、ここには現実の過程と思考の過程とを混同し、同一視するヘーゲルの欠陥が現れている。

   ヘーゲルは、有が即時的、直接的なものである端初概念であることを述べている。
 「思弁的方法の諸モメントはまず、有あるいは直接的なものである端初である。これは端初であるという単純な理由によって自立的である。しかし思弁的理念から見れば、概念の絶対的否定性あるいは運動としての自己分割し、そして自己を自分自身の否定的なものとして定立するものは、思弁的理念の自己規定である。したがって、端初そのものにとっては抽象的な肯定と見える有は、むしろ否定であり、措定されたものであり、媒介されたものであり、前提されたものである。しかし有は概念の否定であって、概念はその他者のうちにありながらも、あくまで自己同一で自分自身を失わないものであるから、有はまだ概念として定立されていない概念、すなわち即自的な概念である。だからこの有は、まだ規定されぬ、言い換えれば即自的あるいは直接的にのみ規定された概念として、普遍的なものである。」(2)
 さらにヘーゲルは「端初は直接的な存在という意味では、直観および知覚からとられ、有限な認識の分析的方法の端初であるが、普遍という意味では、綜合的方法の端初である。しかし論理的なものは、直接的に普遍であると同時に有であり、概念によって先行的に借定されたものであると同時に、直接的に有るものであるから、その端初は綜合的であると共に分析的な端初である。」(3)としている。

 そして、絶対的理念の運動の端初(Anfang)も、決して他から媒介されたものではあってはならないのであって、絶対理念自身によって措定されたところの、端初でなければならない。むしろこの運動の真の端初は、絶対理念自身で無ければならない。この最後の絶対理念こそ、自分の前提(Voraussetzen)を措定(Setzen)するところの真の主体なのである。ヘーゲルにおいて端初を決定する主体は、このように過程の最後のうちに横たわっているとされている。彼は、学問の端初が何であるべきかの問題を『大論理学』の冒頭で提起し、学問的端初決定の論理を展開している。まず一般的に学問の端初は、直接的なものであるのか、媒介されたものかの、そのどちらかでなければならない。しかしヘーゲルは、次のように考えてこれに対置している。直接性とともに媒介を含まないものは、この世のどこにもあり得ないし、この両規定は不可分のものであるとしている。
 つまり、直接性と媒介とが固く結びついていると言うことは、すべてを貫徹する法則でなくてはならない。直接的な存在がそのものの媒介と、結合されてもいるのである。もし直接性と媒介との統一と言うことが、すべてのものを貫徹する法則であるとするならば、学問の端初(Anfang)もやはり直接性と媒介との統一として、把握されなくてはならないことになる。学問の端初が直接的であるということは、自明のことである。というのもヘーゲルの言う直接性というのは、媒介されないである存在、初めのものとしてそれだけで端的にある存在、与えられた存在を表現するのであって、いわば端初と言う語の別名とも見られるからである。つまり、端初は端初であるがゆえに、その内容は直接的なものなのである。

 ここで問題となるのは、端初(Anfang)が直接的であるということであり、ただヘーゲルが端初を同時に媒介されたものと規定している点にある。なぜなら、もし端初が媒介されたものならば、その媒介者こそ真の端初であるべきだからである。真の媒介とは外的ではなく、内的媒介のことでなければならない。つまりヘーゲルに従えば、真の媒介とは外的なものとの媒介ではなく自分自身の内で、自己を完結するものなである。だが彼がこうした内的媒介を、真の媒介と見なしたことは、彼が体系の立場を真なるものとする見方と関係している。というのも、ヘーゲルが真の媒介と考えているものは、実際には体系的媒介以外の何ものでもないからである。そこでヘーゲルは、端初自身の内部にある内的媒介者を、いわゆる端初から区別して根拠(Grund)と呼んでいる。この根拠と端初との関係をヘーゲルは述べている。
 「媒介性が始元・最後のものが根拠・前進とは根拠への、根源的なものと真なるものへの復帰であって、始元となるものはこの根拠に依存するのであり、また事実、始元はこの根拠によって産み出されるものだということが肝心の点であることは、我々の認めざるを得ないところである。------この意味で、意識はその端初である直接性から始めて、その道を進みながら、そのもっとも内面的な真理としての絶対知につれもどされる。だからまた、この最後のもの根拠こそ最初に直接的なものとして現れるところの、その最初のものの生まれる胎盤なのである。」(4)

 つまり端初の真の内面的な媒介者である根拠とは、端初の先行段階に存在するものではなく、反対に端初自身の運動の最後の段階に存在するものなのである。この最後のものである根拠こそ、体系全体の真の原理であり、端初を産出し、かつ運動せしめる主体なのである。とすると学問の端初(Anfang)となるべきものは、我々によって勝手に措定(Setzen)されるべきものではなく、むしろ反対に対象みずからによって、端初として産出されたものでなければならない。ヘーゲルは、ここでも明らかにあくまで客観的態度を堅持しようとしている。対象みずからが自分の端初を、自分自身で作り出したときのみ、初めて対象は自立的な体系として、存立しうるのである。従って端初から根拠へ進む認識の運動は、存在的には産出された直接的なものから、それを産出する主体へ向かっての、存在体系内部での自己運動であり、換言すれば、与えられた現象からその本質へ向かっての、進化の運動であるに過ぎないのである。
 とはいえ端初とは、ただ根拠(Grund)によって措定(Setzen)されたものだ、と言うことだけでは不充分である。むしろ端初は、根拠によって措定されたものとして、同時にその根拠の存立の前提である。一般に端初とは、対象自身の体系においてその本質をなすものによって措定された、もっとも直接的な前提なのである。これがヘーゲルにおける、端初決定の論理の要点である。自分の作り出したものを前提とすることは、実は自分自身を前提することに他ならないのである。こうして彼は、その論理学の端初を存在としながらも、最後のものである理念によって、措定されたものであることを強調したのである。だからヘーゲルは「理念の進展のうちで、端初が即自的にもっていた規定、すなわち端初は措定され媒介されたものであって、存在的で直接的なものではないことが明らかになる、」(5)と述べている所以である。




注記


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