人間の自由と思想の問題

                       人間科学専攻 8期生 川太 啓司


 いまから約230年前の1776年7月4日、アメリカ合衆国は、全世界に対してイギリスからの独立を宣言した。
 「われわれは、次の真理が自明であると信ずる。すなわち、すべての人間は平等につくられ、造物主によって一定のゆずりわたすことのできない権利をあたえられていること、これらの権利のうちには生命・自由・および幸福の追求が含まれていること。また、これらの権利を保障するために、人間のあいだに政府が組織されるのであり、これらの政府の正当な権力は統治されるものの同意に由来すること。さらに、どのような形態の政府であっても、これらの目的をそこなうようになる場合には、いつでも、それを変更ないし廃止しそして人民にとってその安全と幸福を最もよくもたらすとみとめられる原理にもとづいて新しい政府を設立し、またそのように認められる形態で政府の権力を組織することが、人民の権利であること。」(1)
 この文章は、その独立宣言の冒頭部分であるが、近代民主主義と自由の問題において、その核心を示すものとして、思想的にもきわめて重要な意味を持つものである。すべての人間が生まれながらにして平等であり、他に譲り渡すことのできない権利が与えられ、生命・自由・幸福追求の権利を持っているという考え方は、自然権の思想に根拠付けられている。すべての人間は、民族や性別の違いを超えてまったく平等であり、生まれながらにして人格的優劣の差が無いということである。そしてその権利は、他にゆずりわたすことも、他に代表することもできない。人間にとって、一番大切なものは、我々自身の生命であり、自明のことながら生命なしでは、他のあらゆる権利も意義も、存しないのである。
  「独立宣言」の起草者であるトマス・ジェファソンが、人間のゆずりわすことのできない平等権の始めに生命を取り上げて、そして自由と幸福を追求する権利を、順序づけたことは意義のあることである。すべての人間は、たった一つしかない人生をまっとうし、有意義に生きる権利を持つのであって、まず人間にとっては、生きる権利が保障されなければならず、それを前提としてのみ自由と幸福を、追求することができる。したがって、すべての人間は、平等であると同時に生きる権利を持つが故に、その生きる権利と次いで自由と幸福を追求する権利は、各人がたがいに相互的に認めあうものでなければならない。各人の生きる権利は、他人の生きる権利を尊重し、他人の生きる権利を犠牲にしない限りにおいてのみ、自らの生きる権利と自由・平等を行使することが許される。各人はその生きる権利を、追求するすべての人間の平等に寄与し、また不平等を助長しない限りで、追及することが許されるのである。

 歴史上さまざまな思想家によって、人間の自由についての意味が検討され、従来、思想と哲学の立場からの自由論は、必然に対する意志の自由、あるいは必然と自由の問題として展開されてきた。「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。」(2) この文章は、有名なルソーの『社会契約論』の冒頭の一節である。さらに、古典的な自由主義思想家のJ・スチュアート・ミルが『自由論』の冒頭で「この論文の主題は、哲学的必然という誤った名前を冠せられている学説に実に不幸にも対立させられているところの、いわゆる意志の自由ではなくて、市民的、または社会的自由である。換言すれば、社会が個人に対して正当に行使しえる権力の本質と諸限界とである。」(3)と述べている。見られるように、必然に対する意志の自由、あるいは必然と自由の問題は、自然や社会の必然性・法則性と人間の自由とのかかわりの問題である。それは自然や社会に対する人間の問題、あるいは自然や社会の必然性・法則性の認識にもとづいて、自然や社会を人間が改良していく自由の問題である。ヘーゲルも自由と必然について下記のように述べている。
  「しかし、これまでみてきたように、必然性の過程は次のようなものである。------他と関係しながらも、自分自身のもとにとどまり、自分自身と合致するということを示すのである。これが必然性の自由への変容であって、この自由は単に抽象的否定の自由ではなく、具体的で肯定的な自由である。ここから、自由と必然とを相容れないものと見るのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる。」(4)

 哲学史上さまざまに論じられてきた、自由意志ないし意志の自由の問題は、どのような目的をもって意志決定を、行うかについての自由なのである。意志の自由だからといって、人間は自然物であり、自然法則から自由であることはできない。たとえば、いくら自分の意志だからといって決意して見ても、人間は自然法則を無視して、重力の作用をまぬがれることはできないし、魔法使いのように、箒にまたがり空中を自由に飛び回ることはできないのである。であるからして人間は、自然法則を否定するのではなく、自然法則に従いこれを利用することなのである。その場合の自由は、自然法則を認識しかつこれを利用することによって、得られるものである。現代人は、原始人が持たなかった多くの自由を自然に対して持っているが、これらの自由はみなこうして、得られたものである。
 また人間は、社会的な存在であり、この人間の存在する社会にも客観的な法則があり、人間は社会法則から自由であることはできない。たとえば、自分はサラリーマンだが、会社からも誰からも搾取されるのはいやだと決意しても、現実は何も変わらない。いくら自分の意志の自由といっても、資本主義社会における労働者である以上は、搾取をまぬがれることができないし、賃金奴隷であることは自明のことである。自然に対する自由も、社会に対する自由も、人間の意志から必然的に作用している客観的法則を、認識することにある。自由は、これを認識することによって、獲得されるものであり、換言すれば、人間の自由とは、必然性の洞察とこの洞察にもとづく、必然性の利用によって成り立つものである。だから、人間はもともと自由であったものでも、人間であるがゆえに自由であるのでもなく、人間の自由は歴史的に次第に、獲得されてきたものなのである。

 見られるように自由とは、必然性の認識であり、必然性は、認識されていないときには、まったく盲目的である。人々は、必然性を認識した場合には、自分の運命を自覚的に掌握することができ、自覚的能動的な地位を得ることができる。そして、自分の行動のために正しい計画や進め方を決めて、自分の行動が予期した目的に到達しうるように、することができる。行為におけるこの自覚性と能動性こそが、本来的な自由である。自由は、自然法則からの夢想された独立にあるのではなく、この諸法則の認識にあり、そして、この認識と結び付けられている。自由はこの認識されている諸法則を、計画的に特定の諸目的のために作用させる可能性にある。だから、必然性と自由とは、名々別個の関係の無いものではなくて、相互連関のうちにあり、必然性は自由に転化することができる。この転化の決定的な条件は、必然性が人々に認識されることにある。
 必然性と自由について、もう少し詳しく見てみると、必然性の概念は、事物の連関と発展が客観的な決定的性質を持っていて、それが規定する発展の客観的な傾向は一定不変のものであり、人間の主観的意識が勝手に自由に選択をする余地が無いことを説明する。だから、必然性と自由の概念は、はっきりした対立的意義を含んでいる。自由は事物の発展する必然性の、一定の歴史的な条件の下における産物であり、人間社会の歴史の発展過程における、ある客観的に存在する属性である。人間の社会生活でも、自然界と同じように盲目的な必然性の支配を、受けている場合がしばしばあって、人々はこの場合には自分の運命を、自ら掌握することができなかった。やがて人々は、自然と社会の客観的、必然的な法則を認識することによって、必然的な法則性の制限性を把握することができた。そのことによって人々の行動は、盲目的な受動的な状態から抜け出して、自然や社会に対して自から能動的に対応して、自分の運命を掌握することができた。自由という概念の、本当の客観的な内容も、意義もこの点にあるのであって、自由の概念が必然性からまったく隔絶したような、主観的な意志の自由ではけっしてない。

 自然と社会の法則の作用と、その結果生じる必然性とは、我々の意志と我々の意識から独立している。したがって、我々が何を考え、何を要求し何を決心しようとも、我々の行動は常に、一般的には自然の法則に沿うものである。そして特殊的には、我々自身の本性の法則に一致して決定され、またそれがどのように行われ、どのような結果に終わるかは、必然性の法則に従っている。人間は、自然と社会というそれ自身の一部分であり、そして自然の必然性が第一次的であり、人間の意志と認識は、第二次的である。人間の意志と認識は、自然の必然性に適応しなければならない。人間が、その社会的実践を進める中で、必然性の認識を第一に、自然における必然性の認識を獲得し、そしてこの認識に基づいて行動することを学び、こうしたいということをやり遂げ、人間自体の目的を実現するために、その認識を利用することを学ぶという点にある。
 したがって、われわれ人間は、動物のようにあらかじめ決定されている行動の形に従うように、強制されてはいない。自然と社会に生きるわれわれ人間は、動物のように単に自分自身をその環境に、適応させるだけではない。人間は、自分自身の意志の力によって、その環境を自分自身に適応させて、自分自身が心に抱き望んでいる目的を、追求し実現することで自分自身を自由にする。そして、そうするなかで、人間はまた、自分自身を変化させ、自分の本性を変化発展させる。だが、自然に対する支配ということは、人間を動物から区別するものではあるが、それは人間が自然法則や自然の必然性から独立している、ということを意味しない。反対に、人間の自然支配は、自然法則や自然の必然性を軽視することではなく、自然法則や自然の必然性を認識し、これを意識的に利用することの上に成り立つものである。

 同じように、われわれ人間が、彼らの物質的および文化的な要求を、満足させるために自分の社会的生活を、統制し計画することを学んだとしても、これもまた、人間が社会の客観的法則と社会的必然性から独立したということを、意味するものではない。反対に、このことは、客観的な社会法則を軽視するのではではなくて、これらの法則を認識し、それを意識的に利用することの上に、成り立っている。すなわち、社会における必然性を終わらせることではなくて、それを認識し、その必然性の認識に従って社会的活動を、方向付けることの上に、成り立っているのである。それゆえに人間は決して、いかなる点においても彼らのどのような活動においても、自然法則やあるいは、社会法則とその必然的結果から、独立していない。
 社会的な諸関係の中で、個人が発展してくる過程に、社会的な自由の発展がある。個人の自由な発展が、他の諸個人の自由な発展の条件になるような、協同社会が創造されていくような歴史の歩みは、人類史の全体を貫く自由の発展過程である。とすると、自由の概念は、必然性の考察ということを含めて、その実現を求めるという積極的な、内容を含むことになる。必然性の考察というのは、自由の実現の認識上の条件である。その認識を特定の目的のために作用させる、可能性が自由だといえる。だから自由という概念は、目的抜きでは使われていない。その目的というのは、社会的な人間の発展そのもので、それに必然性の認識を、役立てるカテゴリーである。ヘーゲルは、哲学史上で最初に自由は、必然性の認識であるという弁証法の命題を、明確に提起した。しかし、彼は必然性を世界理性の発展の属性と理解し、必然性が自然と社会という物質世界そのものの、発展の属性であることを認めなかった。





[参考文献]


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