防災するヒト

                       人間科学専攻 9期生 近藤誠司

<1> 新しい人間像を求めて
【1―@: 愚かで怠惰な人間像】

 江戸時代の浮世草子作家・井原西鶴は、その著『西鶴諸国ばなし』巻三、「行末の宝舟」の中で、次のように記しています。
−人間程、物のあぶなき事を、かまはぬものなし。
 市井の人間を観察することに長けていた井原西鶴は、リスクを最小限に抑えるために合理的な行動をとることが「なかなか出来ない」人々の習性を、シニカルに捉えていました。
 例えば地震防災に関して、日常の備えの大切さを頭で理解していたとしても住宅の耐震補強や家具固定などの対策を、なかなか実行できない…。そんな現代日本社会の現状を鑑みれば、井原西鶴が示した「愚かで怠惰な人間像」は、いつの時代にも当て嵌まることが容易に理解できます。

【1−A: パターナリスティックな防災】
 「愚かで怠惰な人間像」というモデルは、防災行政関係者において、長年ひとつの共通認識となってきました。行政にとってみれば、住民は常に啓蒙・啓発し続けなければならない厄介な対象だったのです。
 こうした古典的な「行政−住民」関係を通して形作られてきたのが「パターナリスティックな防災」です。施策の内容や形式は、行政が決めた画一的なもので、これを一方的に住民に与えるトップダウン方式でした。しかし、それは多くの場合、住民にとって「押し付け」であり、「ありがた迷惑」なものとして受け止められてきました。「防災」という言葉に堅苦しさを感じたり、ネガティブなイメージを抱いたりする人が数多くいる所以です。

【1−B: 「自律した市民」の登場】
 平成7年1月17日に起きた兵庫県南部地震(災害名:阪神・淡路大震災)を契機として、「行政−住民」関係に「協働」という新たな考え方が導入されるようになってきました。復興や防災のあり方に関して、住民自らが意見を表明・集約して、行政に積極的に参加するようになったのです。「自分たちのまちづくり計画は自分たちで決める」「自分の身は自分で守る」といったスローガンが打ち出されました。
 このように、行政の父権主義を拒絶して主体的に行動する「自律した市民」が登場したことで、次第に「愚かで怠惰な人間像」が後退していくかに見えました。しかし、残念ながらそこには内在的な限界があったのです。

【1−C: 自律の内在的限界】
 「自律」という掛け声は、自律していない住民の意識を喚起する際に、社会学者ベイトソンのいう「ダブル・バインド」の状況を生み出すことがわかってきました。「自律」を促された住民は、その瞬間に「他律」的な文脈・状況におかれ、自律の道を削がれてしまうのです。ややもすると自律を押し付けてしまう構図(自律の他律的強制)が、行政の窓口やボランタリーな組織の内部などで散見されるようになりました。
 こうしたリスク・コミュニケーションにおける不幸なギャップを、どうやって克服すべきなのでしょうか。「行政−住民」や「住民−住民」など関係当事者間の「相互理解」は、あくまで同じ地平に立つ者同士として「共感」したり「信頼」したりするところから始まるはずです。そこで本稿では、「愚かで怠惰な人間像」や「自律した市民」という既存の人間像に替わる、リスク・コミュニケーションの基盤となりうる新たな人間像を提起してみたいと思います。


<2> 人間の本性「防災するヒト」
【2−@: ヒトは備える動物である】
 去る2006年5月、霊長類学者の河合雅雄さんにインタビューした際に、ヒトの本性に関する大変示唆に富んだ考え方をうかがうことができました。その内容を要約すると…
−ヒトは「備えることができる動物」である。たとえば、長期的な視点を持って災害に備えることは、サルやチンパンジー、オランウータンにはできない。それはまさに、ヒトならではの行為だといえる。
 ヒトは危険に対してあらかじめ備えておく能力を持ち合わせているというのです。その本性に目覚めたヒトは、誰に指図されることなく危険に正面から立ち向かっていきます。
 日々の暮らしの中で、ヒトのこの能力(換言するなら防災力)は半ば眠っています。それは確かに「愚かで怠惰」に見える場合もあるでしょう。しかし、備える「本性」(こころ)が無いわけではないのです。きっかけ(トリガー)があれば目覚めるのです。誘因(インセンティブ)があれば、その能力は存分に発揮されるはずなのです。
 この「備える能力を持つ」という観点から導き出される新たな人間像を、「防災するヒト」と命名したいと思います。では次に、「防災するヒト」の内実を人類学の知見から、もう少し掘り下げて見てみましょう。

【2−A: 未来を予測するヒトの特性】
 人類の歴史は、諸説ありますが、およそ700万年前にさかのぼると考えられています。100万年前の原人、50万年前の旧人と進化が進み、20万年くらい前に新人(ホモ=サピエンス)がアフリカ大陸で集団生活を営み始めました。
 その後この種において「現代人的な行動能力」というものが進化、およそ5万年前までに確立したと考えられています。古人類学者の海部陽介さんによれば、「現代人的な行動能力」とは、以下の4つの特徴があげられるといいます。
  1. 抽象的思考をおこなう能力
  2. 無限ともいえる発見・発明能力
  3. 優れた予見・計画能力
  4. シンボルを用いて知識伝達する能力
 原人や旧人とは明らかに異なる大きな脳を駆使して、わたしたちの共通祖先は膨大な知識を蓄積していきました。防災に即していえば、まず(A)の好奇心から自然を観察し、(B)で様々な危険を予見します。(@)で得られた情報を整理・分析、(C)で世代を越えて知識を伝えていったのです。
 やがてわたしたちの共通祖先はアフリカ大陸を旅立ち、世界各地に移動していきました。未知なる土地で様々な危険に遭遇します。しかし、途中で挫折することはありませんでした。「防災するヒト」としての4つの能力を、いかんなく発揮したのです。

【2―B: 防災力の鍵を握る言語遺伝子】
 「防災するヒト」の本性を考える上で参考になる事例があります。それは、共通祖先とは異なる悲運の道をたどった種、およそ3万年前に滅んだネアンデルタール人のケースです。
 彼(女)らが滅んだ理由については諸説ありますが、最新の学説によりますと、言語中枢をつくる「言語遺伝子」=「FOXP2」が無かったことがあげられています。「しゃべれなかったことが絶滅の遠因となった」という大胆な、しかし有力な仮説が提起されているのです。
 「言語遺伝子」が無いと、外部から入ってくる情報を、脳の前頭葉を駆使して言葉に置き換えることができません。森羅万象の因果関係を論理的に説明することができないのです。せっかく直観で察知した身の危険でさえも、うまく他者に説明できません。まして、長期的な展望に立った行動計画を組み立てることは叶いませんでした。ネアンデルタール人は、自然の脅威に身をさらし続けるしかなかったのです。


<3> 「防災するヒト」の展望
【3−@: 互助の思想】
 われわれはみな同じ「防災するヒト」同士である。この人間理解は、同じ立ち位置からのリスク・コミュニケーションを要求します。すなわち、簡明な日本語で換言するなら、「お互いさま」=「互助」の思想です。この「互助」の観点から、「防災するヒト」の本性を発揮できずにいる人のこころに触れ合っていく取り組みが、いま求められています。こうした「こころが共振する防災」においては、本来の意味での「エデュカーレ」(エデュケーションの原語、ラテン語で「引き出す」という意味)が不可欠です。

【3−A: 「防災するヒト」の未来志向】
 不確かな未来に向かって、それでも希望を持って生きていく…。そうした境遇に「共感」し合い「信頼」し合う関係によってまず「基礎」を固めることから、わたしたち「防災するヒト」は、「防災対策」という堅牢な、しかし柔軟性を求められる文化的な躯体を組み上げていかなければならないのです。(了)




【参考文献】


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