思想としての民主主義

                       人間科学専攻8期生 川太啓司

 民主主義は、周知のように支配あるいは、支配されるという権力関係に、由来している。少数者が権力を持つ寡頭制とは違って、多数の民衆が権力を持つ政治体制が、民主的政治体制であり、民主制とされている。民主主義・デモクラシーの語源は、ギリシャ語の人民と支配という、二つの単語からつくられたものである。すなわち、それは人民(国民)の支配と言う意味である。この民主主義は、人々の自由と平等、人権を尊重する立場にたって、少数は多数の意志に従うことを、公式に認める権力の形態を示すものである。それは市民革命以後、多数者による支配としての民主主義が、独裁的なひとりの人間による支配や、少数者による支配に比べて、よりすぐれた政治形態であると、考えられるようになったからである。

 この多数者の支配という民主主義は、近代になって人民(国民)主権、すなわち、人民(国民)が国家権力の究極の源であるという原則が確立され、人民(国民)主権が民主主義の核心とされるようになったのである。 しかしながら、ギリシャの都市国家ポリス的な民主制以来、社会体制の交替に伴い、そこで言われている人民(国民)大衆の内容もまた、変遷を重ねてきた。ギリシャのポリスでは、奴隷たちは人間として扱われずに、人間の範疇から除外され、また、フランス革命の人権宣言に見られる人民主権が市民階級を中心としたものであったことは周知のことである。すなわち、人民という概念が歴史的発展におうじて異なる階級的な規定を持って、変遷してきたのである。

 フランス革命において達成された民主主義は、その核心をなしている人民(国民)主権の内容において、見られるような欠陥が含まれている。しかしそれにしても、それが基本的に確立されたことは、我々人類の歴史における偉大な成果である、と言うことができる。人権宣言において「人間は、自由で、権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益にもとづかないかぎり、もうけられることはできない。」(1)とされている。ここには、人間は生まれながらにして自由平等であり、法は一般意志の表明であるということがうたわれている。人権宣言においてうたわれた民主主義には、理性によって導かれて自己を形成する、創造的な主体としての人間の尊厳という思想が、その根本的な基低となっている。理性的な人間の尊厳というこの思想は、近代の民主主義思想の根底をなす思想であり、今日の我々にとって、国民の立場からその成果を我々のものとして発展させながら、引き継がれるべきものであると考えられる。

 J・ロックは、自然状態は理性的本性を持つ人間の社会である、という自然法の見地から出発して、人民(国民)主権の原理を唱えたのである。ロックの思想は、立憲君主制に対する革命権の行使に限界がもうけられるなど、権力にかなりの妥協的な側面を含みながらも、名誉革命の基礎づけをあたえたことは、意義のあることである。そして、この思想は、後世の民主主義的思想へと引き継がれ、アメリカ独立宣言に結実し、やがてフランスの人権宣言にも大きく影響することになった。人間は、生まれながらにしてすべて平等であり、ゆずり渡すことのできない権利を持っているものであり、政府はその権利を保障するために、被治者の同意によって設けられるものである。そして、その政府の変更と廃止は、人民(国民)の権利であるとする等々の思想が、誕生する源となったのである。

 見られるように民主主義の思想は、人間の尊厳の思想を基礎におく人民(国民)主権の思想であり、基本的人権の主張とその擁護を、自明のこととしている。いわゆる制度としての民主主義は、これを保障するためのものとして、法の支配の原則・多数決主義・代表民主制・権力分立などのいわゆる民主主義の諸原則、諸制度が立てられている。多数決主義について言えば、民主主義的運営のために考えられた一つの、政治的、組織的原理であり、それ以上のものではない。もちろん尊重されるべき組織的原理であるが、少数意見の尊重、それをどう取り扱うかという考慮がきわめて重要である。したがって、多数決主義を民主主義そのものと混同することは誤りである。思想的に見ても多数決主義は、討議されている事柄についての真理性を、なんら決定ないし保障するものではないからである。

 アメリカ独立宣言では「我々は、つぎの真理が自明であると信ずる。すなわち、すべての人間は平等につくられ、造物主によって一定のゆずりわたすことのできない権利を与えられていること、これらの権利のうちには生命、自由、および幸福の追求がふくまれていること。また、これらの権利を保障するために、人間のあいだに政府が組織されるのであり、これらの政府の正当な権力は統治されるものの同意に由来すること。さらに、どのような形態の政府であっても、これらの目的をそこなうようになる場合には、いつでも、それを変更ないし廃止し、そして人民にとってその安全と幸福をもっともよくもたらすとみとめられる原理にもとづいて新しい政府を設立し、またそのようにみとめられる形態で政府の権力を組織することが、人民の権利であること。」(2)と述べられている。

 我々は、ここに歴史的に形成されてきた人民(国民)主権の思想を、見出すことができる。それは、すべての人間は平等であり、譲り渡すことのできない権利宣言の冒頭に、生命・自由・および幸福の追求を掲げていることである。トマス・ジェファソンがうけついだロックの人権論では、所有概念が使われていたが、ジェファソンがあえて所有概念を使わず、生命・自由・および幸福の追求という概念を強調したことは、極めて重要なことである。そして、人民(国民)の基本的人権の保障こそが目的であり、政治や政府はそのための手段でしかないことを明らかにし、人民主権をはっきりと主張したことである。ついで、人間の権利と民主主義の思想は、人民(国民)の革命権の承認をも、含むことを明らかにしたことである。さらに、ロックにおいては、立憲君主に対する革命権の行使に限界が設けられていたが、独立宣言はどのような制限をももうけずに、民主共和制の立場を掲げていることである。このことは、当時のヨーロッパの主要な国がほとんど君主制にとどまっていた政治的環境の中では、画期的であったといわなければならない。また、民族自決権をはっきりと宣言するとともに、イギリス国王を名指しで非難し、その植民地主義の犯罪を糾弾していることである。

 この人民(国民)主権の思想の根底にあるものは、人間は生まれながらにしてすべて平等であり、何人においても生命・自由・および幸福追求の権利を保持しているという思想、すなわち自然権の思想である。この自然権の思想とは、天賦人権の思想であり、今日的には基本的人権の思想と同義として使われているものである。したがって、民主主義の思想の根底にあるものは、明らかなように人間の権利の思想であり、生命・自由・幸福追求の権利あるいは、自然権の思想である。また基本的人権の思想ということでもある。 しかし、こうした政治形態としての民主主義と、制度としての手続きや、形式だけの民主主義だけではなくて、もちろん、これらとも無関係ではないけれども、そういう形態や形式の根底にある哲学・世界観が重要視されなくてはならない。つまり民主主義的なものの見方、考え方であり、それを思想として捉えることである。思想としての民主主義、つまり、議会制というような政治形態を生み出し、多数決というような手続きを生み出したところの、根底にある思想を捉えるのである。 思想としての民主主義を捉えるに、その基底をなすものとして、人間の自由と平等という思想である。周知のように中世封建制社会は、農奴を底辺として封建的領主たちが、何重にもこれを支配し、その頂点に国王が立つという、身分的階層性の社会であり、思想的にこれらを支えていたのは、封建制を容認する差別の思想である。中世ヨーロッパにおいては、これはキリスト教によって社会規範として、基礎づけられていた。神の定めたところの自然的社会秩序にしたがえば、身分の低いものが身分の高いものにたいして、無条件で服従しなければならないとされていた。

 そして、国家統治の形態においても、一人による統治が、複数による統治よりも、より有益であり自然的にも、人間社会の場合においても、一人によって統治されるのが最善であるとされていた。このような不平等と差別の根源は、神のうちにあるといえるのであって、秩序は何よりも不平等のうちにある。こういう考え方においては、すべての人にとって重要なことは、自分の身分にふさわしい暮らしを、することなのである。こういう不平等と差別の思想は、当時の中世ヨーロッパ社会に、ひろく見られたところであった。近代の民主主義は、この身分制原理に対決するものとして、人間はすべて平等であるという思想として定着してきた。思想としての民主主義は、このような平等原理のうえに成り立っているのである。

 この原理を成り立たせているものは、人間の基本的な権利についての認識である。すべての人間が、人間として一定のゆずり渡すことのできない、基本的な権利を持つという認識が、広く一般に成立しなければ、およそ人間の平等という思想は成り立たち得ないのである。このように、人間のもつ権利が基本的であるということは、それが与えられた秩序よりも優先するということである。秩序の維持が優越しているところでは、権利はただ条件つきでのみ、容認されるにすぎない。与えられた秩序を犠牲としてもなおかつ、権利が主張されなければならないと考えるとき、はじめてそれは基本的権利となりうるのである。

 平等原理を保障するものとしての、制度としての民主主義は、一般的に民主主義国家であるとされている。民主主義国家であるためには、二つの条件が満たされていなければならない。それは国民の基本的人権が尊重されていることであり、権力の専制化を抑制できる民主的な政治諸制度が、確立されていることが求められる。この条件の満たされていない国は、いかなる意味でも民主主義国家とはいえないとされている。現代社会における民主主義の内容は、その制度からして複雑であり、形式的な面が多々みうけられ、その制度運用の面では極めてあいまいである。

 近代民主主義の歩みは、これらの二つの条件を確立し、発展させるための歴史でもあったのである。人間が人間であることによって、人間として尊重されるための諸権利を、生まれながらにして持っていると言う自由権の考えは、市民革命期に形成された思想である。それらの権利には、良心・思想の自由・宗教の自由・集会・結社の自由等の精神的自由や、正当な理由もなく適正な法の手続きも得ないで、逮捕・監禁・処罰することを禁じる人身の自由や、為政者が勝手に国民に課税をしたり、経済活動に干渉することを排除する私有財産の不可侵などの、経済的自由が含まれていたのである。これらの基本的権利は、為政者や国家権力といえども、侵害することができないものであり、自由権と呼ばれるのである。

 そしてこのような考え方は、ホップス・ロック・ルソーなどの思想に見られるし、これらの諸権利はイギリスの権利章典・アメリカの独立宣言・フランスの人権宣言などで保障されているのである。しかしながら、これらの革命を指導したのは、市民階級であったからことからして、自由権の内容には有産者本位の考えが見られるし、それはまた国民全体の人権保障としては、不徹底な内容のものであった。その一つには、一定の有産者のみに選挙権が与えられ、全国民には選挙権があたえられていなかった点である。やがてすべての国民の人権を、真に保障するためには、すべての国民から選ばれた代表者によって作られた、法律によって統治する政治でなければならないとしたのである。

 思想としての民主主義は、一言でいえば人民(国民)主権の思想である。換言すれば、主権は人民(国民)のものであると同時に、人民(国民)のものでなければならないとする思想であり立場である。アメリカ独立宣言は、国家あるいは政府が人間の権利と自由を保証するための存在であり、その主権が国民あるいは人民のものであることを、単純明快に解き明かしている。それは明らかに人間の権利と自由の思想であり、同時にまた、人民(国民)主権の主張である。しかしまた、それは人間の権利・市民の権利・および国民主権・人民主権の制度的・法的保障なのである。




【参考文献】


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