カントの認識論(下)

                       人間科学専攻 8期生 川太 啓司

  

4 先験的直観形式としての空間と時間

 我々人間は、空間と時間を普遍的直観としてもつ感性(Sinnlichkeit)を通じてのみ直観(Anschauung)する、すなわち直接に認識することができる。しかし我々は物をありのままに認識するのではなくて、空間と時間という主観的媒介物を通して、物が我々に現象する姿を認識するに過ぎないのである。これが我々は物自体(Ding an sich)ではなく現象を、認識するに過ぎないというカントの命題なのである。カントによると空間と時間は、我々の感性的認識のア・プリオリな原理であり、感性的直観に本源的に具わっている形式なのである。だからこの空間と時間は我々の直観(Anschauung)の形式であり、我々の側に属しているものであるというのである。
 つまり外界の事物が我々の感性(Sinnlichkeit)を、触発したとき我々がそれを通して、事物を表象しなければならない形式である。我々からすべての感覚的なものを引き離したとしても、空間と時間という直観形式は残りうるものであるからして、それらは経験的直観に先行するア・プリオリなものなのである。カントは空間と時間を、我々の直観の対象そのものに属する性質ではなく、我々の側に備わっている感性的直観の純粋形式であるとしたのである。このようなことからして我々に与えられるすべての対象は、対象そのものではなく空間と時間をとおして現れた現象(Erscheinung)なので、物自体(Ding an sich)は、我々には知りうることができないものであり、したがって不可知となるのである。
 認識が直接に対象と関係するための方法は直観である。しかし直観は対象が我々に与えられる限りにおいてのみ生じるのである。対象が表象能力に与える作用に、よって生じた結果は感覚である。感覚に介して対象に関係するような直観(Anschauung)を経験的直観という、また経験的直観のまだ規定されていない対象を現象というのである。そして感覚に属するものを一切含んでいないものを、純粋表象、純粋直観というのである。かかる空間的なものが純粋直観に属するのである。空間という純粋直観は、感官や感覚などの対象が存在しなくても感性形式としてア・プリオリに成立するのである。
 我々人間は、空間と時間を普遍的直観としてもつ感性(Sinnlichkeit)を通じてのみ、直観(Anschauung)をすなわち直接に認識することができる。そして、空間と時間の先験的観念性を主張しはするが、その経験的実在性を否定するものではない。すなわち、我々の外部に物が存在するということは、我々自身および我々の内的状態が存在しているのと、同じ程度に確かなのであって、ただそれらは、空間と時間とから独立してそれ自らがあるとおりに、現れるのではないと言うだけである。この感性(Sinnlichkeit)の二つの純粋形式であるところの空間と時間とが、ア・プリオリな認識の原理なのである。
 我々は外感によって対象を我々の外にあるものとして表象する、つまりこれらの対象を空間において表象するわけである。空間は多くの外的経験から、抽象されてできた経験的概念ではない。空間現象は外的現象の経験によって得られたものではなく、むしろかかる外的現象そのものが、空間表象によってのみ始めて可能になるのである。空間はア・プリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存するのである。空間は外的現象の根底に必然的に存するア・プリオリな表象である。
 また空間は一般概念ではなくて純粋な直観(Anschauung)である。空間については、ア・プリオリな直観が空間に関する、一切の概念の根底に存することが判明する。空間は与えられた無限量として表象され、そのことからして根源的な空間表象は、概念ではなくてア・プリオリな直観なのである。或るア・プリオリな原理に基づいて、別のア・プリオリな綜合的認識の可能が理解せられ得る場合において、かかる原理としての概念の説明を先験的解明という。その要件は実際にかかる認識がこの与えられた概念から生じるのである。この認識はこの概念を説明する仕方が、前提としてのみ可能である。空間は物自体(Ding an sich)の規定ではない、ア・プリオリには直観せられ得ないからである。空間は外感によって表象せられる一切の現象(Erscheinung)の形式にほかならないのである。空間は感性の主観的条件であり、これにのみ外的直観が我々に可能なのである。
 時間はなんらかの経験から抽象された経験的概念ではない。時間は一切の直観の根底に存する必然的表象である。時間関係を規定する必然的原則や、時間一般に関する公理が可能であることは、かかるア・プリオリな必然性に基づくのである。カントは「時間は論証的概念でもなければ、一般的概念でもなければ、或いはまた一般的概念と呼ばれているようなものでもなくて、感性的直観の純粋形式である。」(19)と『純粋理性批判』上で述べている。時間が無限であるというのは、その根底に存する唯一の時間を制限することによってのみ可能である。時間はそれだけで存立するものではない、ア・プリオリに認識され、直観されることはできないのである。
 時間が我々のうちに一切の直観を、生じせしめる主観的条件にほかならない。時間というこの内的直観形式は、対象より前に従ってまたア・プリオリに表彰され得るからである。だから時間は内感の形式なのである。カントは「時間そのものの表象は、直観であるということが明らかになる。一切の時間の関係は外的直観において表現される。時間は一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件である。」(20)と『純粋理性批判』上で述べている。しかも内的現象の直接の条件であり、またこれによって間接的に外的現象の条件でもある。我々は時間の経験的実在性それは、およそ我々の感官に与えられ得る一切の対象に関する客観的妥当性を主張するのである。
 カントは「我々の直観は幸いに感性的であるから、我々の経験には時間という条件に従わないような対象は決して与えられない。しかし我々は、時間が絶対的実在性を要求することをいっさい拒否する、かかる実在性は、我々の感性的直感の形式を無視して、物の条件或は性質としてそのまま物に付属することになるからである。物自体に帰完せられるような性質は、感性によっては決して我々に与えられ得ない。これが時間の先験的観念性(主観性)の主旨である。」(21)と『純粋理性批判』上で述べている。このように時間に絶対的実在性を認めることはまったく不可能である。時間は我々の内的直感の形式に他ならないのである。
 もし時間から我々の感性(Sinnlichkeit)に特殊な、この条件が除去されるならば、時間の概念もまた消失するであろう。つまり時間は対象そのものに付属するものではなくて、対象を直感するところの主観に属するのである。カントは時間に経験的実在性を認め、絶対的先験的実在性は否定(negativ)したのであった。このことはカントが言うように「つまり変化は現実的に存在する、ところで変化は時間においてのみ可能である。それだから時間は現実的なものである、というのである。」(22)と『純粋理性批判』上で述べている。しかし、対象そのものとして現実的なのではなくて、表象する仕方として現実的なのである。
 時間は我々の内的直観の形式なのである。さらにカントは「時間と空間とは二つの認識源泉であり、これらから相違なるア・プリオリな綜合的認識がくみ出され得るのである。要するに空間と時間とは、一切の感性的直観の純粋形式であり、これによってア・プリオリな綜合的認識が可能なのである。」(23)と『純粋理性批判』上で述べている。このように空間と時間というものを、カントは先験的(transzendental)な枠組みだと考えたのである。つまり空間と時間というものは、もっぱら主観的形式で先験的なものであり、物自体(Ding an sich)に属するものではないとしたのである。
 カントは、先験的感性論(transzendental Asthetik)において空間および時間が、我々の感性から独立に存在する事物そのものの持っている性質でなく、我々の感性のうちに先験的に存する、直観(Anschauung)形式に外ならないということを論証しようとしたのである。先験的直観形式である空間や時間が、対象に対して妥当性を持つのである。

5 結 論

 認識はすべて経験をもって始まる。しかし、だからといって認識がすべて経験から生じるものではない。経験的認識ですら感覚的印象と認識能力 (悟性)や(悟性概念)が加わった合成物なのである。経験にかかわりのない認識、それがア・プリオリな認識であり、経験的認識から区別される。ア・プリオリな認識のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を、純粋認識というのである。理論理性批判は、いかにして純粋理性が、ア・プリオリに客体である対象を認識するかにある。カントは「理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力だかである。従って純粋理性は、なにかあるものを全くア・プリオリに認識する原理を含むところの理性である」(24)と『純粋理性批判』上で述べている。 カントが繰り返し言てることだが、我々は、物をあるがままに認識するのではない。一切の認識は、認識する主観と外界という二つの要因の産物である。一つの要因である外界は、我々の認識に素材と経験の材料を与え、もう一つの要因である認識する主観は、形式をそれによってはじめて連関のある認識と、さまざまな知覚を経験し全体へ綜合することが、可能となる悟性概念を与えるのである。
 カントは、理論理性を吟味するには、まず認識能力としての理性(Vernunft)の働きそのものを、批判しなければならないと考えたのである。批判とは分析することであり、理性に先験的な要素と後天的な要素とを分けることである。カントは、広義の理性を受容性としての感性(直観の能力)と、自発性としての悟性(思惟の能力)とに分けたのである。広義の理論理性は、感性と悟性を通じて自らの超越論的認識能力を用いて、現象に関する先験的総合判断をなし、それ故に、現象(Erscheinung)の自然必然性とこれを構成する、理論理性の認識作用を客観的というのに対し、現象の認識でしかないという理論理性の制限を越えて、これを使用しないとしたり現象への純粋悟性概念の適用を、あやまったりした場合は主観的というのである。 
 さらに感性(Sinnlichkeit)については、後天的な感覚と先験的直観形式として12のカテゴリーを認めたのである。理性批判とは、理性があらゆる経験から独立に求めようと、務めるすべての認識に関しての、理性能力一般の批判である。我々は、物をあるがままに認識するのではなくて、空間と時間という主観的媒介物を通して、物が我々に現象する姿を、認識するにすぎないのである。我々が、認識するものは現象(Erscheinung)にすぎず、空間性と時間性とをはなれた物自体(Ding an sich)ではないのである。
 感性と悟性とはあらゆる認識作用の二つの主な要因である。感性(Sinnlichkeit)は我々の認識能力の受容性であり、悟性(Verstand)はその自発性である。それのみが我々に直観(Anschauung)を、供給するところの感性によって我々に対象が与えられ、概念を形成する悟性によって対象が思考されるのである。
 カントによれば、我々は現象を、認識するにすぎず物自体(Ding an sich)を認識するのではないとし、にもかかわらず経験のみが我々の認識の範囲であって、無制限的なものに関する学は存在しないとしているのである。カントは、この対象そのものを物自体(Ding an sich)とよんで、我々の認識にとって不可知としたのである。
 そして事物が、我々の経験上実在することを認めた上で、その実在性は我々の超越論的主観に基づくとしたのである。認識活動をする主観にア・プリオリにそなわる感覚における空間と時間との形式、これと同じく悟性におけるア・プリオリな形式であるカテゴリーによって秩序づけられて、認識が成立すると説くのである。したがって、自然の空間的・時間的存在および法則性は、実は認識活動をする主観---人間からの独立に自然じたいがもつ規定ではなく、主観がとらえたかぎりの現象界である。そして彼が感覚の起源を、外界からの触発としてみとめた、客観的実在であるところの物自体(Ding an sich)には達せず、これらについては認識しえないことになり、不可知論の結果をみちびきだしている。
 カントは、意識(Bewuqtsein)から独立した客観的な世界の存在を認めているが、その事物なるものが認識できるということを否定し、また意識(Bewuqtsein)が客観的な世界に、依存することを否定しているのである。カントは、事物の本質と現象(Erscheinung)とを切り離して、現象(Erscheinung)が本質の発現であり本質の現れる形式であることを、認めないのである。カントにおける認識論の理性は、形而上学的な思考に基づいた、不変不動の理性そのものであり、その能力とその形式を、永遠的絶対的なものとしたのである。ましてや、弁証法的理性とはかけはなれたものであり、それはヘーゲルの時代を待つしかなかったのである。


【注記】
  1. カント著『純粋理性批判』上 篠田英雄訳、岩波文庫2004年p16(以下『純粋理性批判』上と略す)
  2. カントは「先天的」というのは「経験的」ではなく、経験を超えてという意味であるとしていることから、私見では「先験的」と同意語と思われることから「先験的」と統一した、但し、引用文はその通りとした。
  3. 時間と空間、時空形式など表現がさまざまであるが、カントに沿って「空間と時間」という表現に統一した。
 
  (19)  『純粋理性批判』上p98		(20)  『純粋理性批判』上p101                    
  (21)  『純粋理性批判』上p102		(22)  『純粋理性批判』上p103                     
  (23)  『純粋理性批判』上p105		(24)  『純粋理性批判』上p78                 


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